アサヒコム ブックインタビュー  2004年2月(前編)



──今週登場するのは、昨年末、『人間的自由の条件 ヘーゲルとポストモダン思想』を上梓した、哲学者・文芸評論家の竹田青嗣さんです。同書は、「ルソーは、フランス革命の前に、『社会契約論』で近代社会の基本構造について書いたのですが、私も、時代をかえ て、100年くらいの射程で社会・哲学について書いてみたかった」と著者が述懐するように、近代社会の成立地点までさかのぼって、それ以降の近代社会の構造とそれによって立つ人間についての考察をまとめた大著。また、竹田さんは、この本を書いた動機のひとつとして、資本主義の乗り越えというテーマを挙げています。


(インタビュー)

竹田 「人文科学の分野では、かなり前から、資本主義は完全に行き詰っているとされてきました。しかしながら、資本主義の乗り越えを目指した代表的な思想であるマルクス主義は、理論的にも現実的にも破綻してしまい、現在は、資本主義に変わるオルタナティブなプランを持てず、不満をいいながらも資本主義社会に参加せざるを得ない状況が続いています。特に、思想の分野では、そうした不満がポストモダンの思想に流れ込み、ポストモダンの考え方で社会批判を行うという流儀が一般化している。たしかに、ポストモダン思想を世に広めたミシェル・フーコーは、精力的に近・現代批判をしました。彼は、現代は、一見、自由に見えていながら自由という制度に組み込まれていて不自由である、という立場をとっていて、それは当初非常に新鮮だったのですが、同時に、自分が世の中とうまく折り合えていないと感じる人に非常に受け入れやすい考え方でもあったのです。そのため、ポストモダン思想は、社会を批判したい人にとっての批判のための理論という面が強くなってしまい、結果として現状を変える考え方を作り出せなかった。私は、ポストモダン思想には、近代社会に対する認識の重大な過誤があると考えています。そこで、ポストモダンの考え方によらず、より本質的に近代社会、資本主義を考えてみようと思ったのです」


──では、『人間的自由の条件 ヘーゲルとポストモダン思想』を読むためのガイダンスとして、近代社会、資本主義について、さらに詳しく語っていただきましょう。


竹田 「まず、近代社会とはいかなる社会であるのか、その本質的な特質をごく簡単にお話しましょう。近代以前は、王族や貴族といった封建特権を持つ人々が支配層を占めていた階層社会で、経済的には、そうした階層社会を維持するために、王が身分に応じて富を再配分するというシステムでした。それに対して、近代社会は、はじめて政治的に、市民の人間としての自由を確保しようとした社会です。また経済的には、家柄とか身分を無視してフェアなルールに則って競争を行い、その結果として富を配分する、というシステムを作り出しました。近代以前の不平等の最大の原因は封建特権だったので、このシステムは、人間の不平等をなくすための決定的なプランだと考えられていたのです。」

「ところが、時代が進むにつれ、人間の不平等を取り払うためのこの仕組みがむしろ機能しないことがはっきりしてきた。大事なのは、自由経済競争というシステムは、一方で社会的生産を飛躍的に増大し、一方で万人の不平等を適度に抑制する仕組みだったはずなのに、前者はうまくいったけれど、後者はむしろまったく逆の結果が現われてきた、ということです。つまり富の配分の格差が恐ろしく広がり、むしろよりひどい形で固定化されるという事態が生じてしまったのです。(フェアなゲームというものは、すべての参加者が自分も成功するかもしれないという可能性に押されて競争するからこそ、すべてがうまくまわり、この一般的可能性が活性化されるほど、社会全体の生産性もあがるという仕組みになっています。そのことがまた各人の自由の条件を高める。ところが勝者と敗者があらかじめ予想されるところでは、ゲームの本質が死にます。資本主義の行き詰りとはつまりそういう状況です)」


──その場合の敗者とは、流行語になっている“人生の負け組”と呼ばれたりする人たちや、競争に参加する意欲すら持ち合わせていないニートと呼ばれる若者たちのことなのでしょうか?


竹田 「そうではありません。今の日本であれば、最低レベルの生活と自由の条件が保証されています。なんとなく自分の人生がうまくいかないので、社会や悪い資本主義が悪いと考えるのは、自分にも覚えがあるので気持ちは分かるけれど、先進国家固有の問題とごっちゃになっているので、資本主義の本質的な矛盾ということとは無関係です。この事情を説明するために、100年くらいの単位で近代を眺めてみましょう」

「約200年前のフランス革命後に近代がスタートし、その後、先進国間で植民地主義による利害対立などによる戦争状態が続きました。この普遍的戦争状態が終わったのが、(第二次世界大戦が終結した)1945年。近代社会の発展を人間の成長に喩えると、このあたりは、誕生してやっと少年期に差し掛かった時期だといえると思います。この普遍的戦争状態が終わってまず登場した問題は、アメリカとソ連を両極とする東西対立です。西側の先進国は、共産主義の脅威に押され、一方で、ひどい恐慌が起こらぬようなまた先進国間で利害対立による戦争が起こらないような世界の政治経済システムを作りあげる努力をし、もう一方で、共産主義革命の拡大を抑えるための政治と軍事に力を注ぎました。しかし、この東西対立の状態もソ連が解体した1980年代でほぼ終焉します。さて、その次に近代社会に現われた大きな問題が、さきほど触れた先進国と途上国間の南北格差です。これはいま象徴的に、アメリカ対原理主義テロリズムという形をとっていますが、近代社会が今直面している、そしてどうしても解決しなければならない最大の問題です」


──とすると、現在、資本主義のゲームに勝ち続けているのが西側の先進諸国で、負け続けているのが途上国である、ということなのですか?



竹田 「簡単にいえばそうです。じつは東西対立のほんとうの原因が、南北格差だったこともいよいよ明らかになってきた。共産主義は、原理主義的テロリズムと同じく、この人間的不平等の異様な拡大への異議の受け皿だったからです。しかし難しいのは、共産主義も原理主義もこの矛盾を改変する根本的な考え方にはならないことです。私は、やはり近代の自由でフェアなゲームとしての社会という考えだけが、この問題を解く本質的な原理だと考えます。こんな状況の場面では、ほとんどの人が、自由競争や近代社会の原理そのものがだめなのだ、いかに近代の原理を越え出るかと考えたくなります。しかし、哲学をずっとやっているとむしろ逆のことが見えてくる。私の考えでは、重要なのはむしろ、近代社会の原理はそれ自体としては間違っていないのに、なぜそれが正しく機能しなかったのか、を考えつめることです。あえてひとことで言うと、フェアであるべきルールがアンフェアなものになってしまった。その基本的原因と、これを修正できる根本条件を取り出すことです。この点だけが、おそらく、現代思想の大方の方向と私の考えとの根本的な分かれ目です。ヨーロッパ的なものと非ヨーロッパ的なもの、近代社会的なものと宗教社会的なもの、そういうものは一元化できず、簡単に調和できないという考え方が強くあることは知っています。しかしこの議論は、じつは根の深い根拠をもっていないと思います。深刻化する環境問題や資源問題、それからイラクでの絶望化したテロリズム戦争など、具体的には当然楽観はできませんが、いつも本質的な場所から考えるほかはないからです。」


──つまり、近代は、これから大きく発展していくのだと?


竹田 「さきほどの比喩でいえば、現在は、やっと思春期に差し掛かった程度、という段階。東西対立までは、国家は、対外的な脅威に対する緊張状態に置かれて権力を集中するために、国内の市民社会化が進みません。この国家間の対外的な脅威が薄れ、さらに南北格差を原因とする原理主義との対立が克服されてくれば、市民社会化は進み、人々はようやく近代という時代・社会の可能性をつかめるようになってくると思います。人間が近代社会で獲得した自由というのは、歴史的にみてやはりかけがえのない大きな価値を持っている。自由の獲得とは、いったん実現すると、元に戻すことのできないもので、歴史上に不可逆的な大きな変化だといえるのです。そして、自由でフェアなゲームとしての社会は、人間の自由を解放するための不可欠の条件です」


──さらに、お話は、なぜ竹田さんが、近代社会、資本主義を考え直すようになったのか? そのきっかけを次週お伺いします。



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