●京都日本作業行動研究会大会講演要旨 20070818於 京都ひと・まち交流館
「実践の原理としての現象学」 竹田青嗣(早稲田大学)
1) 現象学と現象学「批判」
エドムンド・フッサールは、「論理学研究」、「イデーン」、「デカルト的省察」、「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」などの大著を世に発表し、現在にいたるまで現象学の創始者として認知されている。フッサール現象学は、「現象学運動」という思想的潮流を生みだした。現象学運動からは、ハイデガーやサルトル、ポンティーなど、現在でも多大な影響を与えている哲学者が輩出されてきた。
しかし、現象学の方法の真意は長く大きな誤解にさらされており、さまざまな批判を受けてきたのが現状である。現象学批判は、主としてポストモダン思想(構造主義・ポスト構造主義)からのものだが、現代では現象学者自身からもさまざまなフッサール批判がある。まず、現象学者自身による現象学批判を端的に示すと、初期のフッサールは主観と客観は一致するか否かという主客図式を乗りこえるため、厳密な学の基礎づけとして現象学の構築を目指していた。ところが、この途上で厳密な学の基礎づけの原理的な不可能性に直面したため、後期のフッサール現象学は存在論的領域へと移行していった、というものである。また、現象学者以外からの批判は、ポストモダン思想のみならず、実証主義、言語哲学(分析哲学)からも行われ、その批判の要諦は、現象学は「主観主義」、「観念論」、「形而上学」、「真理主義」である、というものだ。
これらの現象学に対する批判は妥当なものなのだろうか? こうした批判は、現象学の方法を根本的に見誤っているため生じている、というのが私の考えである。こうした誤解を無効化するため、私はフッサール現象学の再生を試みる哲学研究を長年行ってきた。わたしの考えでは、フッサール現象学の根本的なモチーフは、近代哲学の中心問題である「認識問題(主観‐客観問題)」を“解明”しようとする点にあり、それは近代認識問題の解明としてきわめて本質的な深さにまで達している。その要点を言えば、現象学の方法の核は、「学問の厳密な基礎づけ」、つまり学問的客観認識を可能にするものの条件づけではなく、学問的な信念対立(学説の対立)の本質的な理由を“解明”しようとする点にあり、そのキーコンセプトは「確信成立の条件の解明」という言葉で示すことができる。
2) 現象学の中心問題
現象学の現代的な意味は、その方法の根本が「信念対立」の克服に大きく関わっているという点にある。信念対立とは、「正しさ」「真理」を巡る不毛な争いである。信念対立の典型例として、近代のはじめのヨーロッパにおけるカトリック対プロテスタントの激しい宗教対立があるが、これは近代哲学の中心問題が「認識問題=主観‐客観問題」だったことの原因でもある。信念対立は、例に挙げたような対立だけでなく、現代では、政治的なイデオロギーの対立や、人文科学の学説の対立という形で変奏されており、その解決が大変困難な難問である。
学問上の信念対立は、自然科学の分野ではそれぞれの学派が学知を深めていけば、それなりに収束していく可能性がある。しかし、信念対立が政治権力に結びつくと、対立は生死を賭けた争いへと行きつく可能性があり、非常に切実な大問題へと発展していく恐れがある。信念対立の克服という課題は医療の問題にも深くかかわっている。たとえば、近年問題視されている医療崩壊は信念対立の変奏といえるだろう。作業療法の領域にとっても信念対立は大きな問題となると思われる。
実は、こうした信念対立の根っこには、先にあげた認識問題=主観−客観問題があるのである。主客問題は、私に認識されたものとしての世界(主観としての世界)と、世界それ自体(客観としての世界)が一致しているかどうかを問うという図式で説明される。正しい「世界像」というのはあるのかないのか? もしあるとすれば世界は決定論に支配されているのか? もしないとすれば何でもありなのか? 以上の問からわかるように、主客問題の核心は、人間にとっての「正しさ」をどのように考えるのか? という点にあるのだ。そうした哲学的な問いは、信念対立という装いのもと、極めて現代的な問題として、私たちの前に立ちはだかっているのである。
では、「主客問題」を解消する原理はあるのか? これまで流通してきた哲学に実証主義、心身二元論、言語哲学・ポストモダン思想などがあるが、これらはどれも主客問題を解消することに失敗している。主客問題を解消するには、客観主義と相対主義の双方を廃しつつ、認識における知見の対立を解明する必要がある。しかし、これらはまさに客観主義と相対主義の代表的哲学であり、そうした理屈によって主客問題を解消することは原理上不可能である。では、いったい何が主客問題を解消するのだろうか? 実は、徹底して突きつめて考えていけば、フッサール現象学によって主客問題を根本解消するキーツールが提出されていた、という答えに行きつくことができる。近年注目されている構造構成主義は、「人間科学における」信念対立を解消しているが、そこで採用された方法はフッサール−竹田現象学である。このことからも、現象学が主客問題を根本解消する原理論であるという意味を受けとってもらうことができると思う。
しかし、先に論じたように、現象学はそのようにはまったく理解されてこなかった。その要因のひとつとして、フッサールのテクストを読んでもきわめて難解でほとんど解読できないということがある。私は何年かかけて「イデーン」の完全解読を行い、それによって現象学の根本原理をつかみだすことに成功した。その集大成を本論で示すことは紙面の関係上できないため、現在執筆中の「イデーン完全解読」が出版されたら興味のある方はぜひ読んでいただきたい。
3) 信念対立を解消する思考法としての「現象学的還元」
先に、現象学は主客問題を解消するキーツールを提出したと論じたが、それは「現象学的還元」である。現象学的還元は、世界認識を主観−客観構造でとらえるのではなく、確信構造としてとらえる思考法である。従来の客観主義に根ざした思考法では「どこかに正しい世界像があるはずだ」という発想になるし、相対主義に根ざした思考法では「正しい世界像はどこにもない」という発想になる。しかし、現象学的還元は確信構造が成立する諸条件を解明するものであり、客観主義にも相対主義にもからめとられることなく、主客問題をすっきりと解消することができるのである。
では、現象学的還元は、認識問題をどのようにして解消してしまうのか? 従来の認識では、正しい世界、つまり真理や客観といったものが、われわれの主観とは関係なくどこかに存在している、とされてきた。この図式のもとでは、たとえば「リンゴがあるからリンゴがみえる」という素朴な認識となる(フッサールはこのような認識のあり方を自然的態度と呼んだ)。
しかし、現象学的還元ではこのような認識の順序をひっくり返してしまうのだ。つまり、いま私は目の前のリンゴの存在について確信を抱いているが、この確信はどのような条件下で成立しているのか? を問うのである。すなわち、いま目の前にリンゴが存在しているので、赤くて、丸くて、つやつやした様子が私に見える、というような考え方をいったん判断停止して、それを、いま私に赤くて、丸くて、つやつやした様子が見えているから、私は目の前にリンゴが実在しているという確信を持っているのだ、という考え方に根本変容させるのである。従来の認識(自然的態度)では、世界の実在が原因で、主観に現れているのはその結果であった。現象学的還元を機能させると、この順序が逆になるのである。つまり、主観に現れている様子が原因で、ここから世界の存在について確信を抱くという結果が現れると考えるのである。
現象学的還元を信念対立へと押し広げていくと、世界観についての信念を絶対的なものとして前提にするのを止め、なぜそのような信念が成立したのか? という信念成立の条件を問うことになる。そうした問いから、信念成立の条件が自覚されるなら、ただひとつの信念があるという素朴な確信にとどまることはできなくなる。なぜなら、条件が変われば正しいと確信する信念も変わることが意識化されるからだ。このとき、はじめて世界観の相互承認という可能性が開かれることになる。
4。実践の原理としての現象学
では、現象学を実践に応用しようとし場合、どのような方向性で進めていけばよいだろうか? 先に、現象学は、信念対立を認識の一致によってではなく、相互承認によるルール形成によってのみ解消できると論じた。その図式を広げれば、人間関係に現象学を応用することがスマートな方向性であろうと思われる。これまでの議論から推測できるように、現象学では人間関係はすべて確信構造として形成される。つまり、確信構造としての人間関係の確信成立の諸条件を明らかにしていけば、人間関係の原理論、つまり実践の原理としての現象学に至れると考えられよう。以下では、行岡氏による医学、山竹氏による心理学への現象学応用研究の試みを紹介していく。
1)行岡氏の「『言語ゲーム』としての医療論」
行岡によれば、これまでの医学・医療の体系は、基本的にデカルト的真理観である「主客の一致」に根ざしてきたという。その理解のもとでは、認識と事実(対象)の一致が前提とされ、当然のことながら正しい医療は治れば正しいという治癒の結果のみが重要視されることになるという。しかし、そうした理解では、医療は信念対立にからめとられ、昨今声高に叫ばれている医療崩壊を回避できない可能性をはらむことになる。
そうした問題を乗りこえるために、行岡は「目的=相関図式」と「確信成立の条件」(確信妥当)という現象学的な概念を導入している。それにより、@病因の除去=治療ということが絶対の目標ではなく、患者(家族)との人間関係の全体をとらえる必要があり、「治癒」ではなく「養生」というスタンスに立つこと、A絶対的に正しい「治療」は事前に存在せず、そのつどの判断の「妥当性」が存在すること、B治療の言語ゲームという考え方を了解すること。ただし、治療の言語ゲームは治療的「真理」を求める言語ゲームではなく、医者、看護師、作業療法士、患者、家族の言語ゲームである。それにより、目標の多様性を担保し、心的ケアへの可能性を開き、「判断の妥当性をめぐる言語ゲーム」となるという。
このような行岡の現象学的な治療観は、信念対立に陥らず、かつグズグズの相対主義にも触れないで、妥当な治療を提供していく新次元の医療として展開していく可能性があるだろう。
2)「治癒」の本質について──山竹氏の心的治療の現象学
山竹によれば、フロイト心理学は深層心理学、実証主義を前提としており、「仮説→治療データ→実証」というプロセスを歩むという。それによって生み出された諸仮説のなかには、作業療法士にとっても馴染み深いであろう、エディプス、去勢、性発展説、生と死の本能などがある。なお、よくご存知のように、フロイト心理学において心の構造は、意識−前意識−無意識からなるととらえられ、リビドーの構造をなしているとされている。しかし、そうした理解は一枚岩ではなく、フロイト派、アドラー派、ユング派、対象関係派、自我心理学派などのあいだで諸説があり、まるで宗教教義的分立の様相に陥っている。
そうした領域に現象学を応用すれば、「われわれはどのような経験を『無意識』と呼んでいるか?」といったことが中心問題になる、と山竹は論じている。そこでは、自己像のズレ一般、つまり自分の自己像(自己理解)と他者の自己像のズレにある「実体性」をひっくり返して取り扱われることになる。たとえば、「神経症」の問題はどう扱うか? 従来は、不安の認知があり、関係態度と自己認知のズレがあると考えられてきた。その構図のもとでは、たとえば、強迫神経症は不安感が原因とされ、それにより手を洗うという問題行動が起こり、不安が解消されないことになると考えられてきた。また、不安神経症は、悪夢・金縛り・病状模倣といった問題行動から、不安の原因の認知に歪みあると考えられえ、不安過剰となり、身体化に至っているとされてきた。フロイト心理学の理解では、そうした問題は性的誘惑・父親への同性愛・去勢コンプレックス・リビドーの肛門期固着という諸概念で説明されてきたが、それではうまく説明できない場合も少なくないという。
山竹は、こうしたテーマに現象学を応用してどのような議論を展開しているのだろうか? 山竹によれば、現象学を応用すると、従来の「トラウマ→不安身体→関係不調」という理解は、「関係不調→不安身体→トラウマ」に逆転されるという。そして、現象学によってつかみ出された治癒の本質について、「自己了解」から関係不安、そして防衛・ルサンチ・攻撃性についての「自己了解」(物語化)に至ることであると論じている。また、人間関係による関係体制の変更についても指摘し、治療者は分析者・カウンセラーの役割を果たし、自己了解・関係了解のための言語ゲームに参加する必要性を指摘している。
以上、行岡、山竹の議論の概要を示してきたが、彼らの主張のエッセンスは実証主義としての「人間学」(心理学)ではなく、本質学としての人間学、つまり現象学的人間論を構築しようという点にあるといえるだろう。そのためには、@「言語ゲーム」としての人間関係、あるいは了解を育て上げる関係のゲーム、A「了解のゲーム」としての人間関係、という現象学的な観点から医療や治療のあり方について検討し、その原理論を再構築していく必要があると思える。
5。認識対象の現象学的本質論
以上、認識問題の解明から信念対立の克服へ、という論点で現象学について論じてきたが、これらの考えの基底にあるのは、現象学的な「対象」の本質論という観点である。現象学の原理論的な射程を理解してもらうために、現象学的な観点による「対象の本質論」の基本的骨格を述べたいと思う。「われわれはさまざまな認識対象をもつが、認識対象は、その「対象の本質」に応じて、認識方法が異ならねばならない」というのが、認識対象の本質論の骨子である。以下、ここでは、「自然事物」、「事象」、「社会」、「歴史」、「文化」、「芸術」、「心(人間)」といった諸認識対象が、どのような本質をもち、したがってどのような方法(概念装置)で捉えられるべきかについて、簡潔に見てゆこう。本論では時間の制限もあり、自然事物、事象(社会的事象)、心(人間)の三項目を扱うことにする。
1)自然事物
自然事物が、人間にとってもっている「対象の本質」は(つまり自然科学の対象としての自然事物の本質は)、現象学的に(あるいは欲望相関論的に)、「利用可能性・対処可能性一般」と定義できる。それらの対象としての本質は、それらが、人間(あるいは生き物)にとって、もっと厳密には、人間・生き物の身体性にとっての利用可能性、対処可能性一般、(どのように利用されうるか、対処されうるか)、という観点と相関的にのみ体系的に把握されうる(もちろんほかのどんな任意の観点によっても捉えられる──たとえば、聖性、面白さ、不気味さ等々──、しかしこのような分類、階型の体系は、自然科学の記述とはとはなりえない)。自然事物は自然科学の対象としては、構成単位・関係の秩序・因果性・構造・力・法則といった基礎概念によって構成され、なかでも「因果性」、「構造」、「法則」、「力」の概念は基底的である。これらは基本的に一義的概念として確定される。その公準は、人間・身体にとっての「一般的利用・対処可能性」にあり、そのためにわれわれにとって「広範かつ高度な共通了解」が成立しうる。言いかえれば、自然世界では「客観世界」という概念が成立しうる。
2)「事象=事態」
「事象」は事態とも言いかえられる。ここで「事態」は主として「社会的事象=事態」を意味する。それはある「事態」(出来事・事件)が人間の社会生活に引き起こす「意味」の変容の"客観的総体性"ともいえる。あるいは、新しく生じている「意味的変化」の客観性一般のことである(ある事柄の持続自体が一つの意味をなすこともある)。「事態」は、社会上、生活上のルール関係、利害関係、心理関係に何らかの意味上の変化をもたらすものである。何らの意味上の変化をもたらさない出来事をわれわれは「事態」(事件・出来事)とは見なさない。したがって事態とは、たとえば、必ず何らかの試み、その成功・失敗、約束の遵守・違反、アクシデント、犯罪、不道徳行為、等々である。
事象=事態は、つねに一定の「観点相関的」(関心相関的)な「意味」の連関、あるいはその総体である。そして、この観点相関性の共有可能性が、また共通了解可能性が、「事象=事態」の「客観性」(=事実)とみなされる。この共有可能性、共通了解可能性は、社会関係の中で成立している生活上の「一般的価値」によって根拠づけられる。これこれは「よいこと」、これこれは「わるいこと」、についての社会的価値の一般性である。そこで「事態」の客観性・一般性を把握するための基本術語は、生起した「事実」の確定とこの「事実」についての「善悪」、「功利」、「優劣」という価値連関についての因果性の定式、という形式をとる。だが「事実の確定」事態が、暗黙のうちに、一定の一般価値による評価の観点によって可能となっている。したがってなんらかの価値相関的観点が、「事態」の事実の確定に先行する。
どのような社会も、生活上の関係的価値の一般性をすでに一定の仕方で形成しており、そのかぎりで、さまざまな「事態」について一定の「共通了解」が成立している可能性がある。しかしこの価値評価の連関は、自然事物の場合対象ほど「一義的」な連関ではないので、自然科学ほどの「客観性」は成立しない。逆にいえば、共同体的(社会的・文化的)一般価値が異なるところでは「共通了解」は成立しない(宗教、慣習、世界像、価値観の違いは、事態の見方を変化させる)。
3)心(人間)
「心」は一方で「対象化される」という特徴を持つ。しかし、もう一方で、それ自体絶えず「対象化するもの」(意識する、思考する、欲望する、等々)という本質を持っている。そして、この「対象化する当のもの」であるということが、「心」の固有の本質であることはいうまでもない。心は「対象」としても現われるが、それ以上に対象化するもの「主体agent」である。
ここで、心とその他の諸対象の関係について考えよう。「事物」は基本的に人間の「身体」「欲望・関心」の「相関者」であり、「事象=事態」は、人間の「社会生活一般」の「相関者」である。そして「心」は「事物」や 「事象=事態」がその相関者であるところの当の「主体」である。しかし同時に、人間の「心」は対象化されうる、つまり対象的存在たりうる。
たとえば、販売戦略の相関者としての人間の「心」は、インセンティブやモチベーションなどの概念で把握されねばならない。この場合「心」は対象的存在である。さて、「治癒」の体系としての心理学では、人間の「心」は操作可能性としての「対象」となる。つまりいかに効率的に、効果的に治癒するかという目的にとっての「相関者」として「心」は把握されねばならず、ここでは「治癒」についての経験則が基本原理となる。
これに対して、他方、対象化する主体としての「心」をあつかう場合、「心」の学は、これを「対象化する主体」(情動、感覚、思考、判断、感情をもつ主体)として捉えねばならない。「心的なものの本質」は、「対象化すること」であり、「心」の認識は、この「対象化すること」の本質の把握を意味する。
「対象化する本質」としての「心」には大きく3つの契機を想定できる(最も基礎的な事物対象化としての「心」は省く)。
@ 自己自身を対象化する主体としての「心」──「自己意識」
A 対他的な相互規定的な対象化の関係としての「心」──対他的「関係意識」
B エロス的感受性としての「心」──「幻想的身体性」(「エロス的身体性」)である。
人間的「身体」が「修練」によってその諸能力を展開してゆくように、人間の「心」も美醜・よしあしについての「感受力」(審美性・倫理性)を展開させる。これを「エロス的身体性」(感受性・審美性・倫理性の展開)と呼ぶ。
「心」の本質の認識=把握では、事物対象のときに有効であった「構成単位」、「連結秩序」、「因果連関性」、「構造」といった自然科学の術語系は無効である。対象化する「心」の本質認識においては、「心」それ自体が何であるか、という形而上学的問いは問題にならない。「心」が作り為す「関係」の本質を捉えることが、すなわち「対象化する心」の本質を捉えることである。そして、ここでは、自己了解および対他的関係了解の原理を記述する術語系列である「エロス」、「欲望」、「自己価値」、「親和性」、「愛」、「認知」、「承認」、「価値」、「ルール」等々の術語系が必要となる。
さらに、この「心的関係」の認識論が、「社会」の認識論の基礎理論とならなくてはならない本質的な理由がある。社会は一つの「事実」ではなく、絶えず編み換えられる意味連関の総体であるからだ。つまり、対象化する主体としての「心」の本質論、「心的関係」の本質論を基礎として「社会事象」の認識論が立てられねばならない。
最後につけ加えると、「心」の認識・了解は、伝統的哲学では形而上学的「存在論」として行なわれてきた。これは「心とは何か」、「心の存在とは何か」という無媒介の本質論を行なう。ニーチェがこの形而上学的存在論の最も根底的な批判者として登場した。それは二十世紀に消滅しかけたが、後期ハイデガーが再び形而上学的存在論の再興を試みた。しかしこの試みは、哲学史の展開の中ではもはや逆行不可能になっている。
参考文献
竹田青嗣『現象学入門』(NHKブックス)
竹田青嗣『現象学は〈思考の原理〉である』(ちくま新書)
竹田青嗣『はじめての現象学』(海鳥社)
西研『哲学的思考』(ちくま学芸文庫)
山竹伸二『〈本当の自分〉の現象学』(NHKブックス)
行岡哲男『言語ゲームとしての医療論──現象学的処方箋』(仮タイトル)(朝日新書)
竹田青嗣・山竹伸二『フロイト入門」(NHKブックス 近刊予定)