カント『純粋理性批判』 完全解読 1-1  
                               竹田青嗣



T 先験的原理論

第一部門 先験的感性論

(1)緒言   

 まず、ここで使われる基本の術語について解説しておく。
人間の認識が「対象」(Gegenstand)をとらえる基本の方法は「直観」(Anschauung)による。対象が意識を「触発」(Affizieren)する(モノが意識に触れてくる)ことで、はじめて人は対象の像を受け取るからだ(これが感覚による直観)。この対象の感覚(Empfindung)の能力を、「感性」(Sinnlich-keit)」と呼ぼう。
さて、「対象」はただ感性によって受け取られるだけではない。つぎにそれは、「悟性」(Ver-stand)によって思考される。つまり悟性の働きから「概念」(Begriff)が生じるのだ。
とはいえ、人間の思考は「直観」からはじまるので、結局「感性」が人間の思惟一般の最も基礎だといえる。およそ、「対象」は、まず感性によって与えられるからだ。
 対象によって意識に生じた像(表象)は「感覚」と呼ばれる。また、感覚による対象の経験を「経験的直観」と呼び、この経験のありようを「現象」と呼ぶことにする(⇒カントでは、経験による認識は、「物自体」が人間の感性を通して“現われた”ものなので、「現象」と呼ばれる)。
 つぎに、感覚として現われる対象のありようを、「現象の質料」(素材)と「現象の形式」(形式)という二つの柱(契機)で考えよう。というのは、感覚として入ってくる質感(素材)は雑多で多様だが、それは一定の形に整理されてはじめて、はっきりした「対象」の形となるからだ(*)。
 ところで、この形式化する能力は、じつは感覚それ自体が持っているわけではない。感覚の素材=「質料」はア・ポステリオリ(後天的・経験的)なもの、つまり経験によってはじめて与えられるものだが、これを形式化する枠組み自体は「アプリオリ」(先天的・生得的)で、人間の感性にそなわったものと考えるべきだからだ。
 したがってわれわれは、この雑多で多様な感覚を整理して「対象」へと仕上げる形式性のありようを、それ自体として考察できるはずだ。これを「純粋形式」と呼ぶと、このような「純粋形式」のあり方を、われわれはそれなりに思い描くことができる。つまり「直観」することができる。これは感覚的な像を含まない一つの独自の直観だから、「純粋直観」と呼んでおこう。
 だが、どのようなものが「純粋直観」と呼べるだろうか。たとえば、ある物体の感覚的な直観から、実体とか、力とか、可分性といった観念を取り除いてみよう。さらに不可入性、堅さ、色などといった性質をもみな取り払ってみる。それでも残っている経験的な直観があるだろうか。それはつまり、「延長」と「形態」、つまり一定の大きさ(量)と形である。これをまとめて言うと、「空間性」ということになる。
 これはどんな物体にも、経験的直観として共通する最後のもの、だから、純粋な形式つまり「純粋直観」として残るものだといえよう。別の言い方をすると、「空間性」は、感覚によって経験的に与えられるものではなく、むしろ人が事物対象を感覚するための「形式的条件」だと言えるだろう。 
 このような意味で、「アプリオリな感性の諸原理に関する学を、私は先験的感性論と名づける。」88 こうして、感性のアプリオリな原理(*)は、したがって、人間の一切の対象認識(つまり世界認識)の最も土台的な基礎をなすものであることが分かる。
 感性のアプリオリな形式性は、「空間」と「時間」であることがすぐに示される。また、人間の認識原理の探求において、「先験的感性論」は、純粋思惟のアプリオリな原理を扱う「先験的論理学」と対をなすものである。

(*)印象の質感とそれがまとめあげられて一つのモノの形になる。
(*)「アプリオリ」は、一般的には、無前提に、先天的に、もともと、という意味。「トランセンデンタルtranscendental」はもう一段強い意味で、「先験的」あるいは「超越論的」。カントでは「先験的」という訳が、経験以前に、という感度が伝わってよいと思えるので、ここでは「先験的」とする。「感性のアプリオリな原理」とは、だから、「感性が、生来的にもつ働きについての原理」というほどの意味。


第一節 空間について

(2)空間概念の形而上学的解明

まず、おおきな区分を示そう。
@事物などの外的対象は、「外感」(=外的感官、視覚、聴覚、触覚など)によって受け取る。
A自分の内的状態(心の状態)は「内感」によって受けとる。
 このとき、「外感」の受け取りは必ず空間という基本形式をもち、「内感」の受け取りは、空間という基本形式をもつ、といえる。
 では時間と空間とは何なのか。これは昔からの難問である。それは現実存在なのか、あるいは単に物と物との関係だろうか、あるいはまたそれは「物自体」(★)なのか。このことをいま考察し、解明しようと思う。ただし、この解明は、「形而上学解明」とその展開形としての「先験的解明」(超越論的解明)とをもつ。
(★)「物自体」はカントの独自の概念。人間は「対象」を自分の感性(五官)を通してのみ認識する。
しかし、たとえば神のような存在を想定すると、人間の認識(五官)の能力は“制限されたもの”(=不完全)だから、「対象」のすべてを完全に認識しているとは言えない。「対象」の「完全な認識」は、「神」のように「制限されない認識」をもつ存在にしか可能ではない。こう考えるとき、「完全な認識としての対象」が「対象それ自体」つまり「物自体」と呼ばれる。

 まず「形而上学的解明」。これは、空間が人間にとって「アプリオリに与えられたもの」(★)であることを解明するもの。
(★)空間が「アプリオリに与えられたもの」とは、それが経験のつみ重ねで形成されたものではないこと、もともと、はじめからそのような表象として人間の観念にそなえられている、というほどの意味。

1)「空間」はわれわれの経験から抽象された観念だという説がある。しかしこの説は、じつは原因と結果を取り違えている。たしかに、事物についての経験は、事物の並びや隔たりというものを教える。だから経験が「空間」という観念を作るような気がする。しかしよく考えると、そもそも並びや隔たりという関係の表象(イメージ)がわれわれに形成されるには、まず「空間」という表象それ自身が必要なのだ。だから、事物の経験が空間表象をもたらすのではなく、その逆である。
 
2) 「空間の中に対象がまったく存在しないと考えるのは、かくべつむずかしいことではない、しかし空間そのものがまったく存在しないと考えることは、絶対に不可能である。」90 このこともまた、「空間」は現象から作り上げられる観念などではなく、あらゆる事物の現象の土台となっている「アプリオリな表象」であると言える。つまりそれはもともと人間の観念にそなわる根本形式であって、この根本形式が、われわれの空間と事物の経験を可能にしているのだ。

3) ふつう、概念は、多くの丸いものの経験から、「円」とか「球」という概念が抽象されると言われる(ライプニッツやロック)。しかし空間については、われわれはそれを唯一のものとしてしか表象(イメージ)できない。たしかに多くの空間という表現はあるが、それは唯一の空間の多くの部分を意味しているにすぎない。だからふつうの概念のように、多様な空間の経験があって、そこから「空間」という概念が取り出されるのではない。われわれにとって空間は唯一のものであり、だからそこから多様な空間が抽出されるのだ。つまり、われわれのさまざまな空間の表象(イメージ)の根底には、必ず唯一の空間についてのアプリオリな直観が存在する、と言うのが正しい。だから空間は「純粋直感」だといえる。のちに論ずるが、幾何学の直観がアプリオリなものなのも、まさしくこの理由による。

4) われわれにとって空間は、「無限」のものとして表象されている。なるほど、どんな概念も無数の表象をもつことができる。しかし、どんな概念も、それ自身がこの「無限の表象」を含むようなものではない。(たとえば、われわれは無数の「物」の表象をもてるが、「物」の概念自体は一切の事物を含んだものではなく、一つ一つの「物」を表象する。ところが「空間」の概念は、個別の空間をも指すが、同時につねに、一切の個別の空間を含む「空間全体」をいつも指している。このことを考えても、空間は、個別の事象を寄せ集めた経験的に形成された概念ではない。それが空間が「アプリオリな直観」だということの意味だ。(⇒ちょっと分かりにくい)


(3)空間概念の先験的解明
 あるアプリオリな原理から別のアプリオリな原理が綜合的に導かれるとき(★)、これを先験的解明と呼ぼう。ここでは、われわれが既にもっている幾何学的なアプリオリから空間の本質を解明してみる。
(★「アプリオリな原理」は、ここでは、それ以上の根拠をたどれない最も根底の原理、ぐらいに理解するとよい。最も根本的原理から合理的な推論によってつぎのランクの根本的原理が導かれる。)

 幾何学は「空間の諸性質を綜合的に、しかもアプリオリに規定する学」92だ。だとすれば、幾何学は、空間の本質についてある重要なことをわれわれに教えるはずだ。
 ふつうは、単なる概念自体から、それに関係するさまざまなことがらを厳密な仕方で取り出すことはできない。ところが幾何学では、われわれの内的な「空間表象」だけを土台としてそこに含まれる諸概念を無限に展開できる。点、直線、平面、円、多角形、垂線、等々の諸関係など。こういうことが可能なのは、まさしく空間が「アプリオリな直観」だからである。
 誰も知るように、こうして取り出された幾何学的命題はすべて必然的な命題であって、経験によってはじめて確かめられるものではない。たとえば、「空間は三次元をもつ」という命題は、経験的判断ではないし、推論によってえられたものでもない。これはアプリオリな空間表象にもとづくアプリオリな(総合)命題である。(★経験とは関係なく、われわれの脳裏に存在するいわば「それ自体としての空間のイメージ」から作り出された、「それ自体としての諸概念」である。)
 これをどう考えればよいか。一切の外的対象(事物)は、必ず空間的直観をともなっている。これはつまり、「空間」は、経験から形成された直観ではなくて、われわれの外的経験の基本形式であるということだ。幾何学はそのことをよく教えている。(★⇒絵が描かれるにはふつう必ず白地のキャンバスが必要だが、空間とは、さまざまな事物がその上に描かれる白地のキャンバスのようなものだ。それがなければ、個々の対象の絵が存在しえない。)

上記のことから生じる結論

a) 空間は「物自体」ではない。(★「物自体」は、神のみぞ知る事物のほんとうのあり方。人間は限定された仕方でしか事物を認識できない) 空間は、人間の感性が事物を受け取る(認識する)その基本の形式性である。人間は事物を、「空間的枠組み」の中でのみ認識する。
(★つまり、空間は、⇒主観の風船の形式。神の認識は、一切の形式から自由になっている。)

b) 空間は外感による一切の事物認識(現象)の「形式」である。言い換えれば、「感性の主観的条件」である。
 主観は「対象」に触発され(=直観)それを受け取るが、それを「空間」という形式の中で受け取る。それがわれわれが事物を「経験する」ということ。現象が生じる。対象は「空間」という形式の中で直観されるから、「空間」はあらゆる事物直観を可能にしているものという意味で、「純粋直観」と呼ぼう。
 逆に言うと、物が物としてわれわれに現われるには、必ず「空間」という形式を取らざるをえない。「空間」は、事物直観を可能にするその形式、基礎条件である。もう少し厳密に言えば、「空間」は、「物」を可能ならしめるものではなく、物の「現象」を可能ならしめるものである。(★⇒「感性」(空間・時間)は物の「存在条件」ではなく、物の「現象条件」である、と言える。)
 こうして、「空間」という直観の形式は、われわれにとって「実在性(Realita:t)をもつと同時に、観念性(Idealita:t)をももつ」と言える。つまり、空間は、われわれにとっては、「実在的」なものでもあるが、同時にそれは一つのアプリオリな観念でもある。(⇒「空間」は人間の主観の風船の形式、だから「物自体」には属さない。そこでは無である。) 「従って、物自体は、経験においてはまったく問題にならないのである。」97



第二節 時間について

(4)時間概念の形而上学的解明

1) 空間の本性について述べたので、つぎは「時間」について。結論的には、時間は空間とともに、「感性の基本形式」と言える。
 時間もまた、空間と同様、経験から抽象された経験的概念ではない。時間表象もまたアプリオリな直観の形式であり、これがなければ人間は、事物の継起性(順序)や同時性などを認識できない。

2) 空間的形式がなければ事物は経験されない(現象しない)が、時間も同じで、それは経験、つまり「現象」の根本形式である。(★⇒カントでは、「現象」は、対象が人間の経験に現われ出ること)「時間」という形式性がなければ、どんな経験も可能でない。

3) アプリオリな空間直観が幾何学を可能にしていたように、時間一般に関する数学的公理もアプリオリな時間直観によって可能となっている。たとえば、多くの時点が同時的ではなく継時的であること、それらは必ず前後関係をもつこと、など。これらは経験によってではなくアプリオリに認識されることだ。
 だからわれわれはつぎのように言うことができる。経験的知覚は、あるものがかくかくであることを教えるが、アプリオリな直観は、あるものがかくあるべきことを教える、と。

4) 時間はまた、論証的な概念でも一般概念でもない。これも空間と同じで、多くの時間があると言えるが、それらは必ず唯一の時間の部分でありそのうちにある。たとえば、「多くの異なる時間は同時に存在しえない」という命題は、経験から生じた概念ではなく、われわれのアプリオリな時間表象に由来している。

5) 時間が無限である、ということは、われわれが経験する一定の時間とは、必ず無限の時間のうちでの限定された量(長さ)の時間だ、ということでもある。つまり、部分的時間は、限定されない時間形式の中ではじめて表象される。ここでも、時間表象は人間の経験のアプリオリな形式であり、それが個々の時間表象を可能にしていると言うほかはない。


(5)時間概念の先験的解明

 これについては、すでに述べた時間の形而上学的解明の4 が、これにあたる。ただ、変化や運動の表象もまた、アプリオリな時間直観なしには成立しない、ということをここでつけ加えておく。
 物体の変化のみならず、あらゆる「変化」は、時間直観という形式においてはじめて可能である。だからこの純粋な時間概念が、一般力学の多くのアプリオリな認識の土台となっているのだ。

(6)これらの概念から生じる結論

a) 時間は、それ自体存在する存在(物自体)でもないし、物の属性でもない。むしろそれは物の経験を可能にしている人間の直観の根本形式である。だからそれはアプリオリに表象されうるし、そこからアプリオリな綜合判断も取り出せる。
b) 時間は内感の形式である。つまりわれわれの内的状態の直観形式である。この内的直観は「空間」のような明確なイメージ(表象)をもたないので、われわれはそれを(⇒一定の方向に伸び続ける)直線のイメージでつかむ。そしてここから時間のアプリオリな公理を取り出している。だから、時間は内感の形式なのだが、われわれは時間の関係を、外的直観の形式で代行的に表象しているのである。

c) かくして時間もまた、「一切の現象一般のアプリオリな形式的条件である」と言える。ただしそれは、われわれの内的(心の)現象の形式条件であり、このことでいわば間接的に外的現象の条件となっている。したがって、われわれはこう言うことができる。「感覚の一切の対象は、時間のうちにあり、また必然的に時間関係に従っている。」101と。
 時間もまた、空間と同様、が、物自体としては「無」ということになる。(⇒実体としては存在しない)。つまり、時間という存在は、人間の経験世界(=現象)においてのみ存在するものと言える。だから時間は「事物」ではなく、事物の現象の、根本的形式条件なのである。われわれは「一切の物は時間のうちにある」と言うことはできない。時間は「物」と同じレベルで存在するのではないから。 したがって、われわれの考えでは、時間は経験としてだけ実在するが、それは絶対的に実在するものではない。
 時間は「物」とともに存在するのではなく、「物」の現象の先験的条件である。物自体はそれ自体としてではなく、「時間という形式」においてのみ感性にもたらされる。これをわれわれは「時間の先験的観念性」と呼ぼう。(★⇒巨大な容器の中に多くの事物が存在するように、時間の中に事物が存在するのではない。これはじつは空間も同じ、空間はその中にさまざまな事物が入っている大きな容器なのではなく、事物一般の経験の形式性だ、とカントは主張している。)


(7)説明

時間は実在しないという自分の考えへの反論として、時間は“現実的なもの”だという主張がある。たしかに時間は「現実的」なものではあるが、それは主観的な実在性なのであって、“対象そのもの”として実在するのではない。
 反論者たちの錯誤の原因は以下である。彼らは、われわれの対象の経験というものが二つの側面をもつことを理解しない。すなわち第一に、対象それ自体の諸性質ということ。第二に、その対象の諸性質をわれわれが直観する形式という側面である。この直観の形式は、対象それ自体の性質としてではなく、われわれの主観のあり方なのだ。すなわち、「時間と空間とは、一切の感性的直観の両つの純粋形式であり、これによってアプリオリな綜合的認識が可能になるのである。」105 
 だから、われわれが経験する「対象」(事物)は、あくまでこの形式を通して現われた対象であって、「物自体」ではない。
 空間・時間はそれ自体として存在するという仮説をとれば、とういうことになるだろうか。それは、時間と空間という二つの永遠かつ無限な実体が実在している、という奇妙なことを想定することになる。それは実体ではなく、一切の事物の経験を可能にする直観の形式性として存在するだけなのだ。
 またこの想定は、幾何学や数学など、アプリオリな認識判断の必然的な確実性を否定することになってしまう。時間・空間が物自体に属するもの(それ自体存在する実体)だとすると、それは人間がアプリオリに認識することができないものになり、したがって幾何学的なアプリオリというものはなくなってしまうだろう。
 最後に、感性のアプリオリな直観的形式が時間・空間の二つ以外にないことは、感性に関する他の一切の概念を検討すれば明らかである。たとえば運動や変化なども一見根本的なものに見えるが、それらはあくまで経験から形成されるものある。


第二部門 先験的論理学

緒言 先験的論理学の構想
T 論理学一般について


(★⇒カントによる人間の認識(能力)の全体は、@感性 A悟性 B理性 という構造をもっている。
大きくは以下のよう。
 @感性は、人間が自分の感官を通して事物対象を表象受け取る能力(直観の能力)。
 A悟性は、感性的直観による表象を統合して、判断にもたらす能力
 B理性は、判断された諸対象から、これを推論して世界の全体像に迫ろうとする能力  )


 「感性」は、対象によって触発された表象(像)を受け取るわれわれの感官の能力だが、すでに見たように、それは時間・空間という基本的な形式性を持っている。だが、人間の認識は、この感性的表象の能力に加えて、これをまとめあげる「悟性」の能力をもつ。つまり、対象(事物)の認識は、「感性」と「悟性」という二つの働きの結びつきによって可能となっている。「感性」はいわば受動的な働きだが、「悟性」は自発的、能動的な働きだといえる。すでにわれわれは「感性」の本質的な原則について、「先験的感性論」という形で考察したが、「悟性」の本質の考察については、これを「先験的論理学」と呼ぼう。(★⇒論理学と呼ばれるのは、人間の判断は、「A は B である-ない」とか「AはBかもしれない」といった、論理的な述語形式として示されるからである) 

 ここで論じられる「先験的論理学」の大きな構図は以下の通り。

(先験的感性論)
 「感性」→直観(受容) ┬→経験的 ……感覚(質料)
            └→純粋  ……形式性 時間・空間
(先験的論理学)       
 「悟性」→概念(能作) ┬→経験的 ……
            └→純粋  ……形式性 「カテゴリー」

*一般的悟性使用の論理学→悟性一般の本質学 

「論理学」─→「一般論理学」 ┬─→「純粋論理学」
               │  (悟性、理性による論理・判断のアプリオリな基本規則についての学)
               │   →分析論(形式論理学)
               │   →弁証論(詭弁論)
               │
               └─→「応用論理学」 (経験的) 
                   (主観の心理学→経験的原理についての学)

─→「先験的(超越論的)論理学」 認識の根本的起源(根源)についての学
   →分析論 (カテゴリー論)
   →原則論 (判断力)
        →弁証論 (アンチノミー)


 従来の論理学、つまり一般論理学は、大きく「純粋論理学」と「応用論理学」に区別されるが、前者だけが学問として成立する。ここでは論理学者はつぎの二つの規準を心得ておく必要がある。
@「純粋論理学」は、認識の内容や対象の一切の差異を度外視して、判断の(アプリオリな)形式性だけを論じる。
A「純粋論理学」は、経験的原理を含まず、完全にアプリオリなものでなければならない。
 これに対して、ここで「応用論理学」と呼ばれるものは、悟性の具体的使用、すなわち「主観の偶然的条件によって規定された悟性使用」126についての規則を扱うものだ。つまり、注意力、注意の結果、誤謬の原因、疑問、確信などの状態がどんな具合であるかを考察するが、これは経験的にのみ与えられる諸規則である(★⇒おそらく、スピノザやヒュームなどが行なっている、主観内部の哲学的心理学のこと)
 純粋論理学に対する応用論理学の関係は、ちょうど純粋道徳哲学に対する「徳論」(実用的倫理学=情意、欲望などと道徳の関係などを考察する)に対する関係と同じ。(⇒純粋道徳哲学は、道徳の先験的原理の導出(定言命法など)、徳論はその応用編としての具体的な道徳論、これは経験的なものを含む。)

(★⇒カントが行なおうとしているのは、従来の一般論理学における「純粋論理学」ではなく、人間の認識能力の根本原則、その可能性の原則を問う、彼独自の哲学的論理学としての「先験的(超越論的)論理学」。人間の論理(判断)の能力を可能にしているものが何であるのかについての哲学。これがカントの先験的論理学。 )


U 先験的論理学について

 これまでの「一般論理学」では、認識についてのすべての具体的な内容を捨象して、その論理的な形式性の規則だけを取りだそうとする。しかし、「感性」が、純粋直観(時間・空間という形式性)と経験的直観(具体的な事物の直観)とに区分されたように、「悟性」(思惟)もまた「純粋思惟」と「経験的思惟」とに区分することができる。経験的な思惟は、認識対象の具体的内実を問題とする。だから経験的思惟のあり方を扱う応用論理学では、人間間の認識がいったいどのような出発点(起源)から生じ、どう進歩していったか、といったことがらを問題にすることができる。しかし純粋論理学では、思惟の「アプリオリな形式性」だけを考察するので、その対象が、アプリオリなものであれ経験的なものであれこれを度外視して、人間の一切の判断について、その論理形式や規則だけを問題にするのである。(⇒三段論法その他)
 ところで、ここで一つ十分注意しておくべきことがある。つまりそれは、ここでいう「先験的(=超越論的)な認識」とは「アプリオリな認識」と同じ意味ではないということだ。われわれの言う「先験的認識」とは、「ある種の対象がアプリオリにのみ適用され可能であること、またなぜそうであるのか」ということについての本質的な認識、を意味する。たとえば、幾何学における認識は、空間の表象のアプリオリに基づくので、それ自体「アプリオリな認識」であることをすでに述べた。だが、この幾何学の諸認識を「先験的な認識」と呼ぶことはできない。たとえば、「空間」の「先験性」とは、人間の空間表象自体が先験的な形式として可能となっており、まったく経験的なものではないこと、またどんな具体的な事物対象の経験も必ず「空間」という形式を通して現われる、といった認識の根本原則それ自体を指している。したがって、先験的、経験的という区分は、あくまで認識の根本原理、つまり人間認識の本質的批判に関係した区分であって、さまざまな認識対象に、先験的な対象と経験的な対象があるのではない。

(★⇒「アプリオリ」と「先験的」はカントの用法にもやや混同があって分かりにくい。しかし一般的には、「アプリオリ」は、単に「絶対的」、「必然的」とおき、「先験的」は、人間認識が基本的に「経験」を越えたを枠組みをもつというカント的な観点、という意味に受け取るとよい。つまり、カント的な、経験を超えた認識原理という見方が、先験的(超越論的)観点。「数学のアプリオリな論理」は、数学の絶対的に必然的な論理の形式、「先験的論理学」は、人間の論理能力が経験に関わりなく、本来そなえている認識や判断の基礎原理が何か、についての論理学、と理解すればよい。)  さて、このようなわけで、われわれがここで考えたいのは、従来の論理形式の一般規則だけを扱う「純粋論理学」ではなく、あらゆる対象について、その悟性的な判断一般を可能にしている概念のアプリオリな枠組みについての学の理念である。この学をわれわれは「先験的(超越論的)論理学」と呼ぼうと思う。(★⇒事前に言うと、それは「悟性」(判断)については「先験的分析論」と呼ばれ、「理性」(推論)については「先験的弁証論」と呼ばれることになる。)
 

V 一般論理学を分析論と弁証論とに区別することについて

≪ ≫認識にかんして、 昔から「真理とは何か」という難問が存在していて、誰でも知っている。そして、一般的には「真理とは認識とその対象との一致である」という定義が認められている。しかし、じつは問題はむしろ、ある認識が真理であることを示す普遍的な「標識」は何であるか、ということである。というのは、「真理とは何か」という問いを追いつめると、「認識と対象の一致」が「真理」であるという従来の定義はほとんど無意味であることが分かる。ここで真に問題なのは、むしろ「正しい認識」の普遍的な「標識」をどう言えばよいか、ということだからだ。しかしまたこの点を明確にすることがきわめて難しい。その理由は以下である。
もし真理が「ある認識とそれに相関する対象との一致」ということなら、認識というものはすべて個別的なものになってしまうだろう。つまり、一切の対象に妥当するような具体的な認識は存在しえない。だから、われわれが問えるのは、まず、さまざまな認識が真理であることを示すその普遍的な「標識」が何か、ということであり、したがって、総じて「認識」が「対象」と一致するためのその形式的、普遍的な一般条件は何か、ということが問題となのである。
こうして、真理の「標識」とは、まずは真理の形式、すなわち思惟の一般形式として取り出すほかはない。しかしまたここにも問題がある。というのは、思惟の一般形式に適合する認識はすべて「真理」である、とは言えないからである。つまり、論理的に整合的な判断は、真理の「必要条件」であっても「十分条件」ではないということだ。このことをまず押さえておく必要がある。

ところで、「一般論理学」は、悟性や理性の判断の一般的な規則を、個々の要素に区分しながら一切の論理的判断の原則として示す。これをわれわれは一般論理学の「分析論」と名づけよう。(⇒矛盾律や背中律等々のこと。) しかしこの判断の論理的な原則は、いま述べたように真理の形式的条件であって、十分条件ではない。正しい認識を得るためには、一般にわれわれは、まず個々の対象についての具体的な知識をあつめ、これを論理的に適切に使用しつつまとめ上げることで、はじめてあることがらの実質的な認識をつかむ。だから、論理の形式性だけをあつかう一般論理学の分析論は、真理認識の形式的条件、つまり必要条件を満たすだけであって、個々の対象の真理の十分条件とはなりえない。
しかし、判断についての論理的な形式的規則についての学を、認識の真理についての絶対的条件・規準と見なし、これによって客観的真理を獲得できるかのような錯誤が昔から存在してきた。形式的条件にすぎない論理形式の学を、客観的な真理を獲得するための絶対的「道具」(オルガノン)と見なして利用する論理学が、「弁証論」と呼ばれてやはり昔から存在している。この意味で、いわゆる弁証論は「仮象の論理学」であり、ギリシャでは(ソフィスト的)詭弁術という形をとった。われわれは、後に、この「仮象の論理学」(詭弁的な論理学)に対する原理的批判を、「先験的弁証論」という形で行なうだろう。

「真理の標徴は真理の形式、換言すれば思惟一般の形式のみに関する」131
(⇒従来の「真理」の標識は、論理的思考の方法の一般的形式性だけしか問題にしていない。それは必要条件でしかない。)

★語句解説 「対象の表象」は、ある認識対象についてわれわれが受け取る「像」と考えればよい。
リンゴの表象は、リンゴを知覚するとき、われわれの脳裏に現われているそのリンゴのありありした像(=表象) ふつうは感性的な知覚物の像を「対象の表象」と呼んでいる。


第二部 第二篇 純粋理性の弁証的推理について  (未改訂 引用不可)

第二章 純粋理性のアンチノミー

すでに先験的弁証論のはじめに述べたように、純粋理性の弁証的推理は理性の推論の基本形式にしたがって、以下のような区分をもっていた。
 1.「表象一般の主観的条件の無条件的統一」(主観あるいは心)
 
(
→定言的理性推理=私は〜である)

 2.「現象における客観的条件の無条件的統一」(宇宙=世界)
 
(
仮言的推理=こうなれば、必ずこうなる)

3.「一切の存在一般の客観的条件の無条件的統一」(根本原因=神)

1.の「私」についての先験的推理から現れる理念は「魂の不死」だが、これは、反対命題はもたないという特質をもち、その点でいわば「唯心論」に利を与えている。しかし結局のところ誤謬推理として現れざるをえないことは、見てきたとおりである。

しかし、つぎに2. の現象としての世界の全体についての弁証論を考察するのだが、ここでは、理性は世界という現象の無条件的な全体的統一を主張し、しかし自己矛盾に陥ってその要求を断念せざるをえなくなることが分かる。この自己矛盾は、わざとする詭弁や欺瞞なのではなく、いわば人間理性がその推論の本性によって必然的に陥ってしまうような種類の矛盾だといわねばならない。この必然的な矛盾のために、われわれは、一方的な仮象の結論(「魂の不死」の理念ではそうなった)に安住するというのではないにせよ、今度は、一方で、寛喜論的絶望に身を任せるか、それとも、二つのうちのどちらかの説に独断論的に荷担して、その対立の意味を考察せずに放置するかという態度をとる。どちらも共に健全な哲学の死を意味するが、懐疑論的な誤謬に陥るよりは、どちらかの説に固執するほうが、まだ哲学の安楽死といえるかもしれない(⇒少なくとも、こらからは世界の理念を完全に断念して放棄するわけではないから)。そもあれ、この自己矛盾の対立の本質を理解できないことこそ、一方で懐疑論が、またもう一方で哲学的独断論が連綿と続いてきたことの根本的理由である。

さて、私は、この世界という現象の客観的条件の統一の理念(世界の全体はかくかくの仕方で存在するに違いないという理念)を、「先験的世界概念」とよぶことにする。「世界全体」という概念は、そもそも現象の無条件的全体の概念にかかわるからであり、それはまた、あくまで現象の経験的綜合に関係するからである。

これに対して、およそ存在しうる一切の事物の成立条件の絶対的全体性(一切の事物の存在と変化の根拠の絶対的総体)は、「純粋理性の理想」と呼びたい。両者は、ともに「世界」の全体性の概念であるが、その内実は違っている。

先の「私」の存在についての「純粋理性の誤謬推理」が「弁証的(理性的)心理学」を性格づけていたが、と呼んだが、つぎに見る「純粋理性のアンチノミー」は、「先験的(理性的)宇宙論」を性格づけるものだ。これによってわれわれは、理性が宇宙全体について思い描く先験的理念が、現象とは相容れない仮象にすぎないことをよく理解することになるだろう。

()


第二節 純粋理性の矛盾論 

第一アンチノミー(先験的理念の第一の自己矛盾)

[正命題]   世界は時間的な始まりをもち、また空間的にも限界を有する。

[反対命題] 世界は時間的な始まりをもたないし、また空間的にも限界をもたない。 即ち世界は時間的にも空間的にも無限である。

〈正命題の証明〉 (時間・空間的限界をもつ)
世界は時間的はじまりをもつし、また空間的な限界をもつ。

まず、世界は時間的始まりをもつ。 篠田訳→「仮に世界は時間的始まりをもたないと想定してみよう。そうすると、与えられたどんな時点をとってみても、それまでに無窮の時間がすでに経過している、従ってまた世界における物の相続継起する状態の無限の系列が過ぎ去ったことになる。 しかし系列の無限ということは、継時的綜合によっては決して完結されえないことを意味する。故に過ぎ去った無限の世界系列は不可能であり、従ってまた世界の始まりは、世界の現実的存在の必然的条件であるということになる。」(篠田英雄訳 ()p106) 


(竹田解説)世界は時間的な始まりをもたないと仮定しよう。すると、どの時点をとっても、そこまでに、すでに無限の時間が経過していることになる。だから事物の時間的な継起の、無限の系列がそこまでに経過している、ということになる。しかし、時間的な継起の無限の系列(たとえば、一秒また一秒というつながりの無限の系列)とは、この「一秒」という単位をいくら付け加えていっても決して完結しない(終わりにゆきつかない)、ということを意味する。だから、事象の無限の系列が過ぎ去る、ということはありえない。このことから、いま世界がいま現に存在している以上、必ず世界の時間的な始まりが存在したと考えるほかはない。 ()
(★⇒原文は以下。  Denn, man nehme an, die Welt habe der Zeit nach keinen Anfang: so ist bis zu jedem gegebenen Zeitpunkte eine Ewigkeit abgelaufen, und mithin eine unendliche Reihe aufeinander folgenden Zusta:nde der Dinge in der Welt verflossen.Nun besteht aber eben darin die Unendlichkeit einer Reihe, dass sie durch sukzessive Synthesis niemals vollendet sein kann.
Also ist eine unendliche verflossene Weltreihe unmo:glich, mithin ein Anfang der Welt eine notwendige Bedingung ihres Daseins; welches zuerst zu beweisen war.


竹田コメント→「現在の時点までに無限の時間が存在しているなら、事物の継起のすべてが終わってしまっているはずだが、現在世界が存在する以上まだ無限の時間が経過しているとは言えない。だから世界に始まりがあったはず」、というなら、一つの一貫した主張で分かりやすい。しかしカントの議論の力点は、無限の時間がたっているなら、一切の変化の系列が終焉しているはず、というのではない。それはむしろ、「無限の時間の経過、つまり無限の事物の継起の経過というものが、そもそも不可能だ」という点にある。つまり「系列の無限ということは、継時的綜合によっては決して完結されえないことを意味する。」。 「無限の継起の系列」とは、一秒とか一時間という単位をどこまでつなげても、決して「完結しない」=“終わらない”ということだから、「無限の時間の系列」が過ぎ去るということがそもそも不可能である。だから、「現在」の時点までに「無限の時間」が存在している、ということも不可能。


「空間」の無限性についても、少しだけ事情が異なるが、推論の基本構造は同じ。あとでまとめて解説する。



つぎに、世界は空間的限界をもつ、の証明。


「空間」についてもまたその反対を想定してみよう。(以下篠田訳→)「そうすると世界は、同時的に実在している物から成る与えられた無限の全体ということになるだろう。ところでいかなる直観についても、その直観の或る限界内で与えられない*ような量の大いさということになると、我々はこれを部分の結合によって考えるよりはかに仕方がないし、またかかる量の全体は 完結された綜合によるかさもなければ単位を単位へ繰返し付け加えることによるかしなければ、どんなにしても考えられ得ないのである**。従って一切の部分的空間を充たしている世界を一つの全体と考えるためには、無限の世界を形成している一切の部分の継時的綜合が完結されていると見なされねばならない、換言すれば、無限の時間は、並存する一切の物を剰すところなく枚挙することによって、経過したものと見なされねばならない──しかしこのことは不可能である。それだから現実的な物の無限の集合は 与えられた全体と見なされ得ないし、従ってまた同時的に与えられているものと見なされ得ない。」(p107)


(⇒竹田解説) 世界は限界を持たないと仮定すると、世界は実在する事物からなる一つの「無限の全体」ということになる。しかし、そもそもある与えられた「無限の全体」なるものは形容矛盾であり、存在しえない。なぜだろうか。

われわれは、直接に直観できる範囲を超えたある大きな事物については、その全体を完結的に表象するか(「宇宙全体」という概念として)、あるいは部分の継起的綜合によってそれを表象するほかない(つまり、一兆円なら、まだ表象可能な一億円という単位を一万回加えてゆく、という仕方で、その大きさを表象できる。)


すると、われわれが世界を「無限の全体」として表象するためには、ある一定の大きさを(たとえば、太陽系の大きさ)一単位として、これをつぎつぎに綜合して完結に至るのでなければならない。しかしこれは不可能だ。なぜなら、「無限の大きさ」とは、そもそもどこまで、単位を継時的に綜合しても決して完結しない、つまり“終わらない”ということだから。(「換言すれば、無限の時間は、併存する一切の物を剰すところなく枚挙することによって、経過したものと見なされねばならない、──しかしこのことは不可能である。」
d. i., eine unendliche Zeit muste, in der Durchzahlung aller koexistierenden Dinge, als abgelaufen angesehen werden;welches unmoglich ist.)

だから、無限の大きさの空間が、一つの全体として同時的に与えられている、ということはそもそも不可能である。したがって世界は、一定の限界をもつと見なされねばならない。



〈反対命題の証明〉 世界は時間的始まりも、空間的限界をもたない。つまり時間的、空間的に無限である。

(「世界は時間的な始まりをもたないし、また空間的にも限界をもたない、即ち世界は時間的にも空間的にも無限である。」(篠田訳106) )

 正命題と同様、まず世界は時間的起点をもつと仮定しよう。すると、事物のまったく存在していない、いわば「空虚な時間」があったことになる。しかしこのような空虚な時間では、事物の生起はおよそ不可能であるはずだ。つまり、そこからは事物の存在はどのような形であれ生じようがない。したがって、世界そのものは絶対的始まりをもたないと考える以外にない。だから過ぎ去った時間は無限である。

つぎに、世界は空間的限界をもたない。ここでもまず、世界は空間的限界をもつと仮定しよう。するとわれわれの世界は、限界をもたないまったく「空虚な空間」に限界づけられ、この「空虚な空間」の中に存在するということになる。しかしこのことはありえない。「そうだとすると、空間における物相互の関係ばかりでなく、空間に対する物の関係もあることになる。ところが世界は絶対的全体であって、そのそとには直観の対象もなければ、従ってまた世界に対する相関者も存在しない。それだから空虚な空間に対する、この世界の関係というのは、けっきょく世界の関係するような対象は存在しないということである。しかしかかる関係は無意味であり、従って空虚な空間によって世界に限界が付せられるということもまた無意味である」。(篠田訳107)


⇒「    」内、竹田解説 なぜなら、われわれの世界がもう一つの別の空間の“中に”ある以上、世界はこの「空虚な空間」と一定の空間的な関係をもっていることになる(われわれの世界は、そのうちの諸事物とともに、空虚な空間の“中”に位置しているから)。しかし、しかしそもそも「空虚な空間」とは、そこにどんな直観の対象も存在せず、およそどんな事物間の関係をもたないような空間なのだから、このようなことは背理である。それゆえ世界は、空間的にも限界をもつということはありえない。

★⇒竹田注 時間的始まりはない、はまだ分かりやすいが、空間の限界に対する議論も明快とは言えない。しかしこの議論の基本は、「世界は時間的始まりをもたない」ことの証明をそのまま移している点にある。つまり、「空虚な時間」のうちではどんな事象の生起もないはずだからそこからは世界が生じえない、を空間に移すとこうなる。「空虚な空間」では、事物どうしのどんな関係も存在しないはずなのに、現実空間を「空虚な空間」が包み込んでいるなら、現実空間の事物が「空虚な空間」自身との間に一定の空間的関係をもっていることになり、これは背理である。

しかし、もう一点注意すべきことは、カントでは空間はあくまで直観の「形式」、つまり人間の経験世界(現象)の「形式」であって、「物自体」の世界とは別のもの。この観点が入り込んで話が余計に煩雑になっている。カントの注では、「空間」と「現象」は、経験の形式と内容という関係にある。そこで、現象としての世界が「空虚な空間」の中に存在するなどというのは、「形式」の"中に"「内容」が存在する、というようなことになってきわめて矛盾である、という言い方をしている。しかしここは基本的に、「現実空間が空虚な空間の中にあるというのは、両者が位置関係をもつことになって、これはありえない」という議論が要点である。この議論が、「空虚な時間」から「現実の時間」が生じるはずがない、という議論とちょうど同じ構造になっている。


★⇒世界の時間・空間についての、カントのアンチノミーの証明を完結に整理すると、以下になる。〔竹田〕

(1)世界の出発点
@世界の出発点がないとする。これまでに無限の時間が過ぎ去っている。Aすると、無限の時間的継起の系列が過ぎ去っていることになる。Bしかし、無限の継起の系列が過ぎ去るということは、ありえない。Cしたがって、無限の時間が経過したということもありえない。Dだから世界の出発点が存在するはず。

(2)
世界の限界
@世界の限界がないとする。つまり世界は無限の量をもつ全体である。Aすると、この「無限の全体」は、その一切の部分の継起的綜合の完結によって与えられている。Bしかし、無限の部分の継起的綜合を完結するには、無限の時間がかかる。C無限の時間がかかるとは、つまりこの綜合が完結しないということである。Dゆえに無限の量をもつ世界の全体というものはありえない。

★⇒このカントの正命題の議論は、次のように「無限の長さの線分」の概念に置き直せば、時間でも、空間でも同じ仕方で理解できるようになる。
@無限の長さの線分はありえない。なぜなら、Aこの線分の全体は、ある単位部分の継起的綜合の無限の系列(無限回の綜合)を含んでいるはず。Bしかし無限回の継起的綜合ということは不可能。なぜなら無限とは、それがけっして完結しないことを意味するから。Cしたがって、無限の長さの線分というものはありえない。Dだから無限の時間ということも、無限の空間なるものも、存在しえない。

こうして「正命題」は、無限の量を表象するには、単位の無限回の綜合(付け加え、枚挙)が必要だが、無限回とはそもそも完結しないこと、終わらないことを意味するので、それは不可能。ゆえに無限の時間、無限の空間というものは存在しえない、という証明になっている。

しかし、無限の量の綜合を完結できない、それゆえ無限の時間は存在しえない、という推論は強弁であろう。なぜなら、「無限の時間を数え終わることができない」は、「無限の時間は存在しえない」とは別問題であり、両者は、等しくはないからだ。

★⇒ 要するに、正命題の議論は、無限な時間と空間の「全体性」という概念自体が背理である、という点にある。「全体」は継起的綜合として完結されねばならないが、しかし「無限な全体」については、綜合が決して完結に至らないからだ、という議論である。

このようにかみ砕いてみると、いずれもそれほど説得的でない。というのは、論理的には、「無限の時間を数え終わることができない」は、ただちに「無限の時間は存在しえない」とイコールではないし、また「無限な空間が存在する」は、必ずしも「その全体が継起的綜合によって完結にいたらねばならない」を意味しないからである。つまり、そもそも「世界は無限の時間である」という命題は、必ずしも「世界は無限の時間の全体である」という主張を意味していない。しかしカントは、「無限な時間(空間)が存在する」を「無限な時間(空間)が一つの全体として存在する」とおき、つぎに「全体」を完結した一定の量と捉えて、そこに論理矛盾を見出していることになる。


第一アンチノミーへの注


〈正命題に対する注〉
ここでの矛盾する論証は、人を欺くための「詭弁」ではない。その証拠に私は、独断論的な誤謬推理(=詭弁論)ならもっと手軽に利用できるような論証をとらなかった。たとえば、量が無限である、ということは、それ以上の大きさの量はないということだ。ところがどんな与えられた量も、それに一を加えてより大きな量にすることができる。だから、ある与えられた全体として無限(最大の量としての)を考えることはできない、というような反対証明である。だが、この証明にはごまかしがある。というのは、われわれが問題としている「無限の全体」とは、量における無限(最大量としての無限)ということを意味していないからだ。むしろ、「無限性」の概念の真の意味は、与えられた量を継時的に綜合しても、決して終わり(完結)にいたらない、ということである。だからわれわれは、まず現在の時点までに無限の時間が過ぎ去ったということはありえず、したがって時間は起点をもつはずだと証明したわけである。


「空間」の無限性について言うと、空間は時間と違って、事物は同時に併存しているから、ここでは系列の継時的綜合ということは一見問題にならないように見える。しかし先にみたように、これを「全体」として直観するためには、やはり各部分を継時的に綜合していくのでなければならない。すると事情はやはり同じことになる。つまり、部分の綜合をいくら重ねても無限の大きさにまで至らせることはできない。だから、与えられた無限の全体ということは背理であり、世界は空間的に有限でなければならないことになるのだ。


★竹田注⇒ この注もやはり説得的といえない。すでに整理したように、正命題のポイントは、無限の時間の「全体」の綜合を完結することはできないから、「無限の長さの全体」ということ自体がありえない、ということ。ここで、カントの「全体」の概念がすでに暗黙に有限性の意味を含んでいるから、「無限な全体」があるというかぎり、それはじつは有限でしかない、と主張していることになる。 「空間の無限」の概念も同じ理由で不可能だということになる。無限は完結しないのでそもそも「全体」をなさない、あるいは、無限の時間と空間が存在するが、それは「無限の全体」ではない、という考えをおくなら、カントの議論は成り立たなくなる可能性がある。


反対命題に対する注

世界は時間的・空間的に無限であるという主張のポイントは、もし有限なら「空虚な時間」と「空虚な空間」という背理的な概念を呼び寄せる、という点にある。ただ、ライプニッツ派の哲学者には、「世界の始まり」や「世界の限界」は、必ずしもその前の「空虚な時間」やその外の「空虚な空間」の存在を想定する必要はないと主張するものがある。それはある点では首肯できる。「時間」「空間」は、直観の形式だから、経験的な対象それ自体そして存在するものではない、と言えるからだ。


だからこの主張に沿うとしても、逆に、現象としての経験世界が「空間それ自体」(空虚な空間)によって限界づけられるということはありえないのである。同じことが「時間」についても言える。時間それ自体は、経験的世界の「形式」だから、「空虚な時間」が内容としての「現象世界」を規定することはありえないのだ。こうして結論としては、もし世界が、時間的にも空間的にも「限界」をもつとすれば、無限かつ空虚なものが、事物の現実的存在を"規定するもの"となってしまうが、それは不可能だということである(⇒つまり、まったくの「空虚な時間」がビッグバンを引き起こし、まったくの「空虚な空間」が具体的な事物の空間を限界づけている、ということになる)


こうして、世界が限界をもつという結論を避けようとする人々が、主な口実とするのは、「感覚界」の代わりに「可想界」なるものを思い描き、このことで、現実的な時間・空間の「限界」という難問を回避しようとするのである(⇒これは十分説明されていない。)


しかしここで問題になっているのは、あくまでわれわれの「現象界」である。問題がわれわれの現象世界(経験世界)であるかぎり、時間・空間という感性的条件を取り払うなら、そもそも感覚しうる一切の世界が消えうせてしまう。だから、ここに「可想界」という考えを置き入れてこの矛盾を回避しようとする考えは、はじめから無効だというほかはない。



第二アンチノミー(先験的理念の第二の自己矛盾) (物質の合成)

[正命題]  「世界においては、合成された実体はすべて単純な部分から成っている、また世界には単純なものか、さもなければ単純なものから成る合成物しか実在しない。」


[
反対命題]  世界におけるいかなる合成物も単純な部分からなるものではない。また世界には、およそ単純なものはまったく存在しない。


正命題の証明 (世界は単純な部分から成る。世界は単純なものとそれから成る合成物から成る)

合成された実体が単純な部分から成っていないと仮定してみよう。この場合、合成ということ自体がないとするとおよそ事物それ自体が存在しえない。そこで、@ 事物はなんらかの仕方で合成されている。 A 合成されているが、その根底には合成なしに存在する「単純なもの」が存在する。の二つが考えられることになる。

ところで、@の場合には、単純なものが存在しなければ、合成された実体的存在物は、また多くの実体から成るということができない(それを合成する実体がまた何かに合成されている、という具合に際限がなくなり、実体はどこにも見出せないことになるから)。したがって、結論は、Aの、「世界における実体的合成物は単純な部分から成る」を取るほかはない。


ここからまたつぎのことが導かれる。


1. 世界における物はすべて単純な存在物である。
2.
 合成はこの単純な存在物の一般的状態である。(さまざまな事物は単純な物の合成体としてある)
3. たとえわれわれが根本的実体を結合状態から取り出して示せなくても、理性はこのような実体を根本単位として認めざるをえない。この実体が、一切の合成の前提となる単純な存在物である。(最小単位としての実体)

正命題に対する注

 ここで、単純なものから合成されて「一」をなしている全体をわたしは「実体的全体」と呼ぼう。すると、空間は合成されたものとは言えない。というのは、空間は、空間は最小単位の大きさがあって、この最小単位としての部分が寄せ集まって全体を作り上げているものではないからだ(空間は点にまで細分されるが、点はどんな量的な部分も持たないから、それがいくら合成されても、一定の部分にならない)。時間の場合もまったく同じで、空間の一定の「全体」も、ある単純なものが集まって全体をなしている、と言うことはできない。だから、われわれは一定の大きさの空間を、観念的合成物と言えても、実在的な合成物と呼ぶことはできない。

したがって、われわれは、自存的な(実体的な)存在についてだけ、それを合成する最も単純な物、を推論できるのであって、これをあらゆる合成物に適用することはできない(つまり、時間や空間その他、観念的な合成物など)。そういうわけで、私の言う「最も単純な部分」はライプニッツの「単子」に似ているが、しかし最も単純なものとしての「私」(意識・魂)という意味では使えない。それは合成物の要素ではないからだ。だからわれわれの「単純なもの」は、むしろ「原子」に近く、だから、この第二アンチノミーの正命題を「先験的原子論」と呼ぶことも可能だろうが、この語は経験的概念を含んでいるので、むしろ私はこれを「単子論の弁証的原則」と名づけておく。


 反対命題の証明 (いかなる合成物も単純なものから成らない。世界には単純な部分は存在しない。)

いかなる合成物も単純な部分から成る、と仮定しよう。一切の「合成」は空間の中でだけ可能だから、ある合成物の占める空間は、それを合成している部分と同じ数の空間からなっている。しかし空間については絶対的に単純な空間は存在しない(⇒空間は無限に細分されるので)。合成物を構成するどの部分もそれぞれ一空間を占めているが、一切の合成物においてその絶対的な最小単位は「単純なもの」でなければならない。したがって、この「単純なもの」がそれぞれ一つの空間を占めることになる。「しかしそれぞれ一つの空間を占める実在的なものは、別々に存在している多様なものを含んでいる。従ってそれは合成されたものである。」
(篠田訳 ()p116) すると、この合成されたものが属性的な合成物(ある空間が線や点を含むような)ではなく、実体的な合成物(具体的な事物)であるかぎり、ここでは、単純なもの」がすでに合成されたものだということになる。これはありえないことだから、このことで、「いかなる合成物も単純なものから成らない」は証明された。


★竹田注⇒このカントの証明は、ふつうにはまず理解できない。カントが言いたいのは、「最も単純なもの」は、実体的なものであるかぎり、「絶対的な最小空間」(つまり点)ではないから、いくら小さくても一定の空間の大きさを占める。しかし実体的なものが一定の空間を占めるかぎり、それは絶対的な単純なものとは言えず、そこに多様なものが含まれているはずだ、ということであろう。


つぎに、「世界には単純なものはまったく存在しない」について。この命題が意味するのは、つまり、「最も単純な実在物」なるものは、決して知覚・経験されるものではなく、したがってどこまでいっても実証されえないこと、だからまたそれはただ理念としてのみ存在しうる、ということである。また、この「最小単位」の客観的実在性を原理的に実証できない以上、これを現象の説明として用いることはできないということでもある。

いま仮に、この理念的な「最小単位」が、経験の対象として見出されるものと仮定しよう。その場合、この対象の直観は、まったく多様なものを含まないような完全に一様な対象(⇒たとえば純粋原子のような)として直観されるはずである。だが、ところで、多様なものが経験的に意識されないからといって、そのことからその対象が絶対的に単純な対象であるという推論を導くことはできない。(⇒たとえば超高性能の電子顕微鏡で、どんな多様性ももたない絶対的に単純な原子的物質を観察できたとして、それが究極の絶対単純原子であるという保証はなされない。) そういうわけで、結局のところ、絶対的に単純な対象は経験には決して人間には与えられず、そうである以上、感覚界には絶対的に単純なものは与えられない、というほかはない。

かくして、反対命題のうちの第二命題(世界のうちにおよそ単純なものはない)の射程は、第一命題(物は単純なものから合成されていない)よりずっと広いものになる。つまり、第一命題は、物の直観から「単純なもの」を否認したが、第二命題は、世界からおよそ単純なものの存在を否認しているからである。


(原文参考⇒ここもきわめてあいまいな箇所)
Also nimmt das Einfache einen Raum ein. Da nun alles Reale, was einen Raum einnimmt, ein auserhalb einander befindliches Mannigfaltiges in sich fast, mithin zusammengesetzt ist, (und zwar als ein reales Zusammengesetztes, nicht aus Akzidenzen,

「ところで、かかる多様なものが意識されないからといって、このことからかかる多様なものはおよそ対象の直観においてまったく不可能であると推論することはできない。ところが絶対的単純性にとっては、かかる多様なものの不可能が欠くことのできない条件である。従って絶対単純性は、たとえどのような知覚にもせよ知覚からは推論せられ得ない、ということになる。」118(篠田)

「それゆえ、単純なものが、一つの空間を占める。ここで、一空間を占める実在的なものは、どれも、それぞれ互いに、外的に存在する多様なものを、そのうちに含み、したがって合成されている。」(竹田)

Da nun von dem Nichtbewustsein eines Mannigfaltigen auf die ganzliche Unmoglichkeit ein solches in irgendeiner Anschauung des selben Objekts, kein Schlus gilt, dieses letztere aber zur absoluten Simplizitat durchaus notig ist, so folgt, das diese aus keiner Wahrnehmung, welche sie auch sei, konne geschlossen werden.(→ここは問題なし。)

⇒「しかしここで、多様なものを意識できないということから、そのような対象についての直観がそれ自体不可能であるということにはならない。だが、絶対的な単純性にとっては、多様なものの直観が不可能であるということが必須なので、絶対的単純性は、それがどのような知覚であれおよそ知覚からは推論されえないことになる。」(竹田訳)

★⇒竹田注:第一の証明「いかなる合成物も単純なものから成らない」についての、カントのきわめて不分明な証明を整理すると、おそらくつぎのようなことになる。)

1.どれほど小さな空間でも分割可能である。
2.最も単純なものは、一つの空間を占める。
3.するとこの最も単純なはずのものも、空間的には分割可能であるのだから、つまり合成されうると見なされる。
あるいは、分割可能な空間を「最も単純な物」が占めることはありえない……。

ともあれ、最小単位のアンチノミーの「証明」は、帰謬論理の性格がかなり強いために、正命題も反対命題も十分な納得を与えるものではなく、双方詭弁を弄しているという感がつよい。

最小単位があるかないか、についてどちらの側も決定的に証明する方法がない、とすっきり言うほうが分かりやすい。Aと決定的には言えないことは、Bであることの積極的証明にはならないが、カントはそうしている。また「空間は直観の形式である」という前提を都合にあわせて持ち込んでいる点も問題を煩雑にしており、明快さを欠く。


★⇒現象学の考えからは、この問題はつぎのようになる。

人間の理性は、世界のうちの諸物を「合成されたもの」と考え、またそれが最小単位の部分から成っているものと、考える。そこには欲望相関的理由がある。人間は自己身体をもち、さまざまな欲望=関心をもち、生活を持つ。そこで、「身体」は、各部分をもち、各部分は各機能をもつもの、と表象する。「身体」は構成物である。その根本理由は、「身体」は不都合があれば、これに対して態度をとり、調整したり、修理したりできるものとして存在するからである。それは対象的企投可能性をもった対象である。およそそのような対象は、人間にとって、「構造体」、「合成されたもの」として思い描かれる。このような「合成されたもの」は、各部分をもたなければならない。基本単位をもたねばならない。事物が基本単位からなる、という世界像は、そのような人間の「身体」「欲望」と事物相関性からくる必然である。しかし、一方で、経験的には、絶対的な最小単位を見出せないという事実が、つねに最小単位への論理的な疑いを残し、哲学的な相対論的懐疑主義の論拠となる。ある事物が、単位から“構成”されるという物の見方は、人間世界にとっては絶対的に必要な考え方であり、この考えを欠くと、人間は事物を構成したり、設計したり、操作したりできない。しかし事物一般が、「事実」として絶対的な最小単位をもつかどうかということは、判定の根拠をもたない問題であり、また人間にとって無意味な問題というほかない。〔竹田〕


反対命題に対する注

物質は無限に分割されうるという命題はまったく数学的な根拠をもつものだが、単子論者からは異論がある。


しかしこの異論はあやしい。彼らはなにより「空間」が直観の根源形式であるということを認めていない。彼らの言い分だと、最も単純なものとして、単なる数学的な「点」のほかに、それが集まると空間を満たすような基礎的な空間部分がある、ということになってしまうだろう(数学的には点が最小単位であって、これはいくら集まっても一定の空間を合成しない)。このような単子論者の議論には、単なる論理的な論証で数学の確実性を否定することはできない、と駁論しておいてもよいのだが、私としては、ただつぎのことを注意しておきたい。

哲学と数学の論理が矛盾する場合、その原因は哲学のほうにある。なぜなら、哲学的議論は、問題の中心が「現象とその条件」にある、ということを忘れているからだ。すなわち、この問題を決着させるためには、合成されたものと単純なもの、といった純粋な悟性的概念によるだけでなく、両者(合成されたものとそれを合成する単純なもの)の直観を見出す必要がある。しかしじつはそれは不可能である。「単純な実体からなる全体」といったものを、われわれは概念としてなら思い描くことができる。しかし、実際の現象としては、われわれは、空間における絶対的に単純な部分、といったものを直観することができないからだ。

だが単子論者たちは、この難点を、つぎのような論法で回避する。つまり、彼らは空間を直観の基本形式とみなさずに、直観によって捉えられた実体を、空間の条件とする。つまり、空間が事物を可能にしているのではなく、「事物」(の単位)こそが空間を可能にしていると考えるのである。だが、われわれはすでに先験的感性論においてこのような前提を明確に否定した。彼らの主張は、いわば経験された物体を「物自体」と考えないかぎりは成り立たないのだ。


(⇒以下は、単純なものと合成されたものの議論を、「私」についての誤謬推理に適用しようとしている。本論ではない。⇒参照必要)

第二命題〈世界にはおよそ単純なものはない〉の証明は、前に問題とした、一つの独断論的な主張、つまり「思惟する私は、単純なものとして実在する」という主張を反駁するものでもある。これは、いわば経験対象としてしか把握できないものを、「実体の絶対的単純性」として証明しようとする主張なのである。しかしこれについて議論を繰り返すのは避けて、ここではつぎのことだけを注意しておきたい。

それは、もしあるものが対象としてのみ考えられて、それに直観的経験による綜合がつけ加わらなければ、多様なものも、その合成ということも決して知覚されえない、ということだ。たとえば私は、「これはかくかくのものだ」という述定において対象を考えるが、この「かくかくのものだ」という述語はそもそも直観的経験によるものであって、それ自身からは実在的な合成ということを直接に証明することはできないのだ。

これを「私」ということにおき直して言うとこうなる。思惟する「私」は、同時に「私」の客観(対象)でもある。だから思惟する自己意識だけでは、自分自身はつねに絶対的単一だから、自分を区分できない。にもかかわらず、直観の対象としての「私」を考えるなら、この「私」は多様な経験的直観(現象)において合成されたもの、というほかない。要するに、したがって「私」が多様なものから合成されたものかどうかを考える場合には、「私」もまた必ずこのように(⇒つまり、現象として)考察する以外にない。


★竹田注⇒ここの議論もとうてい明晰とはいえない。しかし要点は以下のようなことと思える。われわれの認識は、それが具体的な事物の認識であるかぎりは、経験的、直観的認識であって、「絶対的に単純なもの」や、「それから合成された全体」、といった対象を客観的にとらえることはできない、ということ。そういったものは「理念」においてのみ想定されるだけで、原理的に経験できない。ちょうど「私」の絶対的単一性が、想定されるだけで、経験的に認識されるのではないように。


第三アンチノミー(先験的理念の第三の自己矛盾)

「正命題]  「自然法則に従う原因性は、世界の現象がすべてそれから導来せられ得る唯一の原因性ではない。現象を説明するためには、そのほかになお自由による原因性をも想定する必要がある。」(篠田訳)

[反対命題] 「およそ自由というものは存在しない、世界における一切のものは自然法則によってのみ生起する。」(篠田訳126)


〈正命題の証明 〉(→自由はある)


逆に、この世に自然法則に従う原因しかないと仮定してみよう。すると生起する一切のものは、それへと続くはずのその直前の状態をその原因として前提することになる。この直前の状態はまたその原因としてそのまた直前の状態を前提する。このプロセスはごとまでも反復され遡行されるので、自然法則にしたがう原因しかないならば、「第一の始まりというものは決してあり得ない」。すると、この原因から原因へと遡る系列の完全性は成立しないことになる。(「原因から原因へと遡る原因の側における系列の完全性はまったく存在しないことになる。」p127)

だが、そもそも自然法則とは、アプリオリに規定された原則がなければ、何ものも生起しないという意味である(⇒★)。右の仮定では、何かの生起をもたらすアプリオリな原則というものに決してたどれないことになり、ここで唯一の原因性としての自然法則という想定は成り立たなくなる。

したがって、自然法則以外に何かある原因性、それ以前の直前の状態に規定されないような原因性が想定されるほかはない。またこれは、絶対的自発性としての原因でなければならない。すなわちそれは「先験的自由」と呼ぶべきものであり、これがなければ自然現象の継起の系列は、原因の側で決して完結することはない。


(★第三アンチノミーの主題は世界の「関係」だが、ポイントは、自然の絶対的な「因果法則」を逸脱する「自由」が存在するか否か。)

★⇒竹田注 →→ここが問題点「しかし自然法則の主旨は、ア・プリオリに十分に規定された原則がなければ、何ものも生起しない、ということである。それだから一切の原因性は自然法則に従ってのみ可能であるという命題は、この命題の無制限な普遍性を主張すると、自己矛盾に陥ることになる。故に自然法則の原因性は、唯一の原因性として想定せられうるものではない。」(篠田訳128) この文章が明瞭でない。まず「自然法則の主旨は、ア・プリオリに十分に規定された原則がなければ、何ものも生起しない」。これは自然法則とは、自然の生起を規定する原則の存在を意味する。多くの力学的・化学的な法則は、近代になって、人間によってまた独自の方法によって見出されたものだが、いったん見出されるや、もともと自然界に内在していた「原則」「法則」だと考えられことになる。では、このような「原則」や「法則」は一体何によって可能になったのか? と問いたくなる。暗黙の答えは「世界創造者」である。「世界創造者」が存在しなければ、自然世界の存在全体は「偶然的」であり、そこに内在する法則や原則は、すべて明確な「原因」をもたない。だから、「原因から原因へと遡る原因の側における系列の完全性はまったく存在しないことになる。」

要点は、もし、根本原因というものを想定しなければ、「原因‐結果の系列の必然性と完全性」は成立せず、世界のいっさいは、絶対的な必然性、理由なしに存在しており、「原因‐結果」の系列は宙に浮くことになる。つまり、なぜ自然がそのような仕方で存在しているかについて、人間にはまったく分からない、ということになる。→ということであろう。

もっとシンプルに言えば、ここにあるのは、「原因‐結果」という概念は、一連の「自然法則」を根本的に規定する究極原因の存在によってはじめて完結する、そのような究極原因がないのなら、自然は「原因‐結果」の法則に貫かれているのではなく、世界における変化の一切が、単なる自動的連鎖ということになる、という考え。つまり、自然の継起の背進の系列が無限系列であれば、決して「根本原因」にはたどりつけず、「自然法則」の根本原因という概念自体が成り立たない、と言いたいのであろう。


〈反対命題の証明〉 (→自由はない)

逆に、自由という原因性が存在すると仮定しよう。すると原因‐結果の系列はどこかの時点で絶対的はじまりをもつ、と考える以外にない。するとそれは、このはじまりの作用のまえにこれを規定する恒常普遍な法則は何もなかったことになる。しかしそれは不合理である。つまり、第一の始まりは、それと継起的因果関係をまったくもたないある一状態を突然想定することになる。それゆえ「先験的自由なるものは因果律に反する。」(p127 ) またこのような因果的継起の絶対的切断は、経験の統一というものを不可能にする。したがって「絶対的自由がある」といった考えは、空虚な考えである。

絶対的な自然法則に「自由」という原因を持ち込むことは、ある意味で強制からの解放を意味するように見える。しかしこ自然法則に代わって自由の法則が世界に持ち込まれることになるとも言えない。自由が法則として存在すれば、それは結局自然法則と変わらないことになるからだ。要するに、世界は、一切が合法則性に貫かれているか、まったく無法則性なのかのどちらかでしかない。自由という幻影は、たしかに究明をこととする悟性にとっては、原因の系列の無限背進というアポリアを回避してくれる。だが今度は、自然の法則を追放するから、われわれは経験の一貫性や現実性というものをまったく説明できなくなるだろう。

〈正命題に対する注〉
「自由」という言葉は心理学的なはさまざまな内容をもっている。しかし、先験的理念としての「自由」とは端的に「行為の絶対的自発性」という概念を意味するにすぎない。だがこの概念こそ人間の行為の自由を根拠づけるものである。しかしこの理念は哲学にとって長くつまづきの石だった。要するにそれは、世界の存在と変化について、自ら始めるような根本能力(自由)というものが存在するのか否か、という難問だからだ。

だが、少なくともそもそもこの能力がなぜ可能になっているかという問いについてはは、必ず答えが必要だとは言えない。それはちょうど、世界の事象を説明するのに、自然法則の原因性という前提の必要性が、アプリオリに理解されればそれで満足せざるをえないのと同じだ。(⇒つまり、なぜ自然法則がそのようなもとして存在するのかについては、われわれはそこまでは理解できない。それは経験が教えてくれるだけであるから。)

ともあれ、われわれは、世界の始まりがある絶対的自発性の動因(=自由)なしにありえないことを証明したわけだが、この場合、いわゆる最初の「一撃」のあとにつづく一切の状態は自然法則に従うと考えてよい。だが、それでもひとたび絶対的自発性の動因の存在を確認した以上、存続する世界のただ中で、この「自由」の能力の存在しうることを認めない理由はなくなる。

この場合、絶対自発的動因は、世界の始発点にしか存在しえないという主張がありうるが、これは不可能だ。確認された絶対自発性とは、時間の始発に関するものではなく、原因性一般に関するものだからだ。たとえば、私がいま椅子から立ち上がるとする。この出来事がすでにひとつの「自然法則」による事象の系列的生起からの、「逸脱」である。つまり、この私の「自由」の行為は、時間を開始したのではないが、ある事象の変化の系列の絶対的開始と言えるからである。

こうして理性の推論は、自由にもとづく根源的始発点を必然的なものとして主張するが、その必然性は、エピクロスを除いて、ほとんどの古代哲学者たちの自然な確信だった。彼らは世界の根源的始発点を決して自然それ自体から説明しなかった。

〈反対命題に対する注〉(自由はない)

自然全能説は、自由存在説に対してつぎのように主張する。

「もし君たちが、世界において数学的な「第一のもの」(時間の始まり)を認めないなら、世界における力学的な開始点も認める理由もないはずだ」。これに対して、私はこう答えよう。「一体誰が、無限の自然に勝手な限界を加えて、世界の絶対的始発点や系列の絶対的開始点を設定せよと命じたのか? 世界はこれまでずっと無限に続いてきたと考えることは可能であるし、、それを反証するものは何もない。絶対的始発点などということは、われわれの経験の統一に反する想定なのだ。つまり、数学的にも、力学的にも、絶対的自発性を考えるべき理由はどこにもない」、と。

なるほど、われわれは、第一の項といったものなしに、無限の系列の全体ということを、整合的に完結的に説明することは難しい。しかしだからと言って、このことを無理矢理に完全に説明しようとするなら、われわれは他の多くの自然の不可解な現象(さまざまな自然の根源的性質)とか、変化一般の根源的可能性(そもそもなぜ自然に変化が生じるのか)といったことをも、完全に説明しなくてはならなくなる。しかしそれはどだい不可能なのだ。自然はかくあるようにかくあるとしか言えず、それをわれわれはただ経験によって知るだけで、アプリオリには理解できないからである。

また、かりに世界の変化の原因としての先験的自由を認めるとしても、それは世界の外側に存在するものとしか想定できない(こういった、人間には決して認識できない何か存在するということを独断的に想定する考えがつねに存在してきた)(⇒至上者の絶対自由といったもの) だが、たとえそのような超世界的な「自由」が存在すると考えた場合でも、実体としての「自由」というものが世界の内にあると想定することは決してできない。これを想定すれば、なにより、事実や現実とは自然法則に貫かれたものだ、という大原則が崩壊する(⇒自然法則とこれからは自由な自発的原因が世界のうちに並存することになるから)。もしそんなことになれば、たとえば、われわれにとって、夢と現実とを区別する絶対的な規準すら確実なものとしては存在しないことになる。つまり、自然の法則は、自由とはまったく別のものであって、両者を同じ地平に存在するものと考えると、自然法則の一貫性ということが、説明のつかないことになり、成立しないのである。



竹田注⇒この箇所がきわめて不明晰→→「第一の項、即ち他の一切のものがそれに続いて継起するような初項が存在しなくても、かかる無限な導出(⇒由来)が可能であるということは、たとえこの初項が可能であるとしても、我々にとってまったく不可解である。しかしそれだからといって諸君がこの自然の謎を放棄(投げ捨てる)しようとするならば、諸君は諸君にとって同じく不可解な多くの綜合的な根原的性質を〔自然のうちに見出される〕(根原力のような)をも放棄さぜるをえなくなるだろうし、また変化一般の可能すら、諸君の理解を妨げる障碍となるにちがいない。」(篠田 p130)

★「たとえこの初項が可能であるとしても」last sich,は、原佑訳では「そうした奇跡的事態の可能性からみて」と訳されている。

Die Moglichkeit einer solchen unendlichen Abstammung, ohne ein erstes Glied, in Ansehung dessen alles ubrige blos nachfolgend ist, last sich, seiner Moglichkeit nach, nicht begreiflich machen. Aber wenn ihr diese Naturratsel darum wegwerfen wollt, so werdet ihr euch genotigt sehen, viel synthetische Grundbeschaffenheiten zu verwerfen, (Grundkrafte) die ihr ebensowenig begreifen konnt, und selbst die Moglichkeit einer Veranderung uberhaupt mus euch anstossig werden.

 Denn, wenn ihr nicht durch Erfahrung fandet, das sie wirklich ist, so wurdet ihr niemals a priori ersinnen konnen, wie eine solche unaufhorliche Folge von Sein und Nichtsein moglich sei.

(⇒竹田簡約  「一切がそれに続いて生じる第一の点を想定せずに、上述した無限の継起の可能性については、(last sich→たとえそうであるにせよ? ここが意味不明→ たとえ初項が存在するとしたとて、同じく難しい、という意味か?)、これを理解することは難しい。しかし諸君がこの自然の謎を「廃棄」しようとするなら(⇒解明しようとするなら)、多くの事象の綜合的な「根源力」の謎についても「廃棄」せざるをえなくなる(解明せざるをえなくなる)。すると、変化一般ということにさえ、諸君は(説明できなくなって)つまずくことになる。」)

→竹田の理解⇒第一の出発点を想定しないなら、いったいなぜ永遠の事象の因果の連鎖といったこと自体が存在しているのかという問いが現れるが、これに答えることはもちろん難しい。しかし諸君がこの「自然の謎」を投げ捨てて、これを理解しようとするなら、およそ世界のあらゆる事象の根源性を理解しなくてはならなくなるし、そもそも「物の変化」という事象じたいがもう理解不可能なことになり、ここで躓いてしまうだろう。



第四アンチノミー(先験的理念の第四の自己矛盾)

[正命題]  世界には、世界の部分としてかさもなければ世界の原因として、絶対に必然的な存在者であるような何か或るものが実在する。

[反対命題] およそ絶対に必然的な存在者などというものは、世界のうちにも世界のそとにも、世界の原因として実在するものではない。

〈正命題の証明〉 (→必然的存在者はある) (1)

およそ一切の事象の「変化」は、時間的な前後の条件の関係(因果関係)を前提している。するとあるひとつの事象(条件づけられたもの)は、必ずそこから絶対的無条件者にまで遡る条件の完全な系列をもつはずである。この始発点にある絶対的無条件者こそ、必然的なものである。だから、何か変化が存在するかぎり、必ず或る絶対的無条件者が実在すると考える以外にない。

さて、この絶対的無条件者は感覚界に属する。さもないと感覚界の事象の変化が、感覚界に属さない存在からの系列をもつことになってしまう。だとしたら、ある時間的系列の始まりが、この時間に属さない何ものかの存在によって条件づけられることになる。そんなことは不可能である。したがってわれわれは、一切の原因-結果の関係は時間性に属するものであり、だから、一切の変化の絶対的なはじまりとしての何らかの必然的存在が、この現象界のうちに存在すると考えなくてはならない。それが世界の全体なのか、部分として存在するのかはここでは問題でない。



★⇒正命題への竹田コメント……第四アンチノミーの主題は「様態」だが、そのポイントは、世界の存在の「必然性と偶然性」。つまり世界の存在はまったくの偶然なのか、それとも絶対的に必然的なものが存在するのか、という問い。その証明は、宇宙論的証明、つまり因果の連鎖をたどってはじめの絶対的な始発原因にいたるかどうかという議論を用いるので、第三アンチノミーとほとんど同じだが、証明しようとする内実は、第三アンチノミーでは「絶対的自由」があるかないか。第四アンチノミーは「絶対的な必然的存在」=「絶対的始発原因」ということ。

絶対的無条件者」とは、自分は何にも条件づけられないもの、つまり自分の原因となるものをもたない、絶対的原因であるもの。つまり、絶対的始発原因。ふつうは「神」だが、ここではあくまで「絶対的無条件者」という概念で考えられている。これを想定しないと、世界は、原因‐結果の系列がどこまでも続いて、結局、その全体の根本原因や根本的理由は理解できないものになる、ということ。これが正命題の第一のポイント)

第二のポイントは、この「絶対始発原因」はどこか世界の外側(彼岸)にではなく、世界の一部、あるいは全体として存在する、ということ。



〈反対命題の証明〉 (→必然的存在者はない)

世界のうちに(あるいは世界そのものが)何らかの必然的存在者が()あると仮定してみよう。このときつぎの二つが考えられる。


(1)自分の原因となるものをもたない、それ自身無条件的な世界の絶対的始まり(原因)がある、ということになる。しかしこれは時間における現象の一を規定する力学的法則に反する。(⇒これは「時間的始発点はない」と同じ)
(2)
世界変化の系列は絶対的始まりをもたず、したがって一切の部分において偶然的で条件づき(⇒因果系列のうちにある)であるにもかかわらず、世界は、全体として絶対的、必然的、無条件的だということになる。だが、このようなことはありえない。多数のもののうちただ一つでも偶然的なものがあれば、その他のすべても必然的なものでありえないから。()

★⇒この部分、不分明なので、竹田コメント……「なぜなら、もし多数のもののうちのたった一つの部分でも、それ自体必然的な現実的存在をもっていないとすれば、この多数のものの現実的存在もまた必然的であり得ないからである」篠田訳135

カントの意は、おそらく以下。世界のどんな事象も、自己原因ではなく偶然的な存在である。つまり、自分の原因となるものがなければ存在していないもの、他の原因があったためにたまたま自分の存在をもつような存在である。世界の事象のすべてが自分ではない他の原因に依存しているわけだから、その全体が必然的ということはありえない。つまり、「もし多数のもののうちのただ一つのことがらも絶対的必然的存在でないかぎり、(偶然的存在であるかぎり)、その全体は、互いに他の原因に依存した存在でしかないので偶然的存在というほかはない」、ということ。


つぎに世界のそとに必然的な世界原因が存在すると仮定しよう。

この世界原因は、一切の世界変化の根本原因ということになるが、しかし世界変化の系列はあくまで時間内のものなので、世界の外にある世界原因がこの時間系列の根本原因とはなりえず、この仮定は成立しない。したがって、世界の内にも外にも、また世界それ自身としても、絶対的に必然的な存在者はありえない。


★⇒これは正命題の、世界の根本原因があるとすれば、それは世界の内にあるのでなければならない、という議論と同じ。正命題では、だから絶対者は世界のうちに存在しなければならない。反命題では、だから絶対者は世界のうちにも存在しない。

〈正命題に対する注〉
必然的存在者の現実的存在を証明しようとすると、どうしても「宇宙論的証明」が必要とされる。これは、いまある条件づきのものから出発して、その系列の全体性を説明しようとすると、必然性に、完全な無条件的なものへと背進的に遡行しないわけにはいかない、という形をとる。

ただそれが最高存在者(⇒神)であるという理念については、「純粋理性の理想」ところで別に考えねばならない。(⇒だからここでは「絶対的始発原因」) また、この宇宙論的証明における存在者が、世界そのものなのか(⇒スピノザ)、世界と異なるのかについても、別の証明の原則を必要とするのでここでは論じない。とは言え、宇宙論的証明の原則でこれを考えるかぎりは、系列の最終項としての絶対者にゆきつくので、これを系列の外にあるものと考えることはむずかしい。つまり、変化の系列が感性の法則(⇒時間形式)に従うものであるかぎり、それはあくまで時間の内で生起することであり、したがって必然的存在者はこの世界系列の内にある一項と考えるほかはない。


(⇒以下の論証は、世界の外に世界の絶対的原因を考えることの不可能についての証明)
だが、この事情を無視した論理的飛躍を行なう説が多くある。(⇒誰の説かは不明なので、あまり判明でない) 彼らは、世界の変化の系列を経験的な偶然性(たまたまの因果関係)の系列と考えた。しかしこの系列の因果をどこまでもたどってみても、絶対的な第一原因を見出すことはできなかったので、「偶然性」という概念を捨てて、カテゴリーの「絶対的に必然的な原因」という概念を取り上げ、このような絶対的原因が、世界の外側に、可想的なものとして存在すると想定した。絶対原因を世界の外に仮想的なものとしておけば、時間的系列の規定をうけないですむから、世界の変化の絶対的原因だと考えることができるからだ。しかしこのような説がまったく不当であるのは、以下のことを考えれば明らかだ。

純粋な概念の観点からは、あるものの「矛盾対当」が可能であれば、それは偶然と言われる。(もらった犬はオスだった。もらった犬はメスでありえた。?) しかし「経験的偶然性から、可想的偶然性を推論することは不可能である」。篠田訳141 (⇒経験世界の偶然性や必然性から、可想世界の偶然性や必然性を推論することはできないということ。二つの世界は別の論理なので、経験世界の法則を可想世界に適用できない、ということ。)

たとえば、運動していた物体Aが静止して非Aとなるとき、A→その反対の非Aという継起があるので、Aは非Aでもありうる(Aの矛盾対当が可能)ので、Aは偶然的である、という推論は成り立たない。矛盾対当とは、あくまである同じ時点で、AがAでも非Aでもありうる、ということであり、その場合Aは偶然的だと言われるのだ。しかしA→非Aという継起は、時間の前後関係をもつので、これに当てはまらない。またこのような継起の系列は、どこまでたどっても、「偶然性-必然性」のカテゴリーのいう「絶対的な必然的存在」に達することはありえない。

要するに、変化というものは、新しい状態がそれ以前の古い状態の原因なしにそれ自体として生起するということは不可能である、ということを、つまり経験の偶然性を証明するにすぎない。(⇒ここから可想的世界の、必然性や偶然性を推論することはまったく不可能である。)したがって、第一の絶対的原因が想定されるとしても、それは必ず時間的な系列の内側に、つまり、現象の系列として考える以外にないのである。


(★⇒ある論者は、経験的な因果の系列から絶対的な始発原因の存在を措定することを断念し、その代わりに、絶対原因を、世界の外側に、つまり可想界に求めるが、これはカテゴリーの使用の逸脱であって成り立たないということ。)


〈反対命題に対する注〉

現象の系列を遡行して絶対的に必然的な原因にゆきつくことにはこれまで見てきたように大きな困難があるが、それはつまり、いかに因果系列のいちばん始発点に「絶対的な無条件者」をおくことができるか、という困難である(⇒理性は、その始発者はなぜ存在しているのか? と聞こうとするから)。だからそれは「存在論的」な困難ではなく、「宇宙論的」な証明にともなう困難である。


(★⇒ 存在論的証明は、最高存在の存在証明を、「存在」の属性から導出する証明。「宇宙論的証明」は、原因-結果の系列から導出する証明。カントの意は、これは系列を遡って第一項にいたれるか否か、という問題なので、あくまで現象世界=経験世界の因果関係の問題。だから宇宙論的証明における困難だ、ということ。)


そこで、反対命題からは、つぎのことを明らかにすればよいわけだ。


(1)原因系列の遡行は、経験的には、決して絶対的な無条件者で終結するわけにいかないこと。(⇒どこまでも遡れるから)

(2)世界の変化の系列をたどる宇宙論的証明は、この系列における「絶対的な第一原因」の想定とは、結局矛盾することになること。

ところで、このアンチノミーには奇妙な対照が存在する。つまりそれは、正命題と反対命題の証明根拠がまったく同じものであるということだ。これを確認すると、

正命題→必然的存在者は存在する。なぜなら、過ぎ去った時間全体は、一切の条件の系列の全体なので、無条件者(必然的なもの)を含むはずだから。(★@)

反対命題→必然的存在者は存在しない。なぜなら、過ぎ去った時間全体は一切の条件の系列を含むが、どの条件もまた自分を条件づけるものをもっているから。(★A)

この対立の原因はつぎのようなことだ。正命題は、条件の系列の「絶対的全体性」ということに重きをおき、そこで絶対的必然的存在者が導かれることになる。反対命題は、一切の条件の系列の偶然性(どの時点も自分の条件者をもつ)に重きをおき、すると絶対者はどこにも存在しないことになる。

だが、二つの推論は、じつは「常識」とよく一致している。常識も一つの対象を考察するのに、しばしば二つの矛盾する異なった立場に分裂する。ド・メランは二人の天文学者のつぎのような説を紹介している。つまり、一方は、「月は地球に常に同じ側を向けているので、地球に向いた軸を中心に自転している」。他方は「月は地球に常に同じ側を向けているので、軸を中心に自転していない」。

二つの推論自体は、観察の立場の取りようでどちらも正しかったと言える。


★竹田注⇒二つの命題の推論について。@は、ある時間は、これを規定する(条件づける)前の時間を必要とする。以下同様、この系列はどこまでも遡行するが、それが絶対的「全体性」をもつ、という点を重視すれば、「自分を規定する条件をもたないような、絶対的なもの(必然的存在)が存在すると考える以外はない。でないと完結しない。Aは 同じくどこまでも遡行するが、ある時間は必ず自分の条件者をもつ、という点を重視すれば、自分を条件づけるものをもたない絶対的必然者はどこにも存在しない、という推論。しかし基本は、第一アンチノミーの場合と、ほぼ同じ。第一原因(条件者)がある。と、第一原因(条件者)はない。という二つの推論が成り立つということ。