最新講演録

竹田青嗣インタビュー

美醜とは人間にとってなにか

―「美醜」の問題について、現象学的な立場からの理解を語る―



《 概要 》


 1. 美醜とは人間にとってなにか
 2. 「美醜」の価値序列は編み変えられる
 3. 価値序列自体が差別なのではない
 4. ミスコンを否定できるか
 5. 外見による就職差別をどう考えるのか
 6. 「性的弱者」は社会的に解決されるべき問題


1. 美醜とは人間にとってなにか



伏見  竹田さんには美醜をめぐる問題について、原理的なところからお話をいただければと思っています。まず、「美」「美しい」とはどういうことを言うのか、という根本的なところからお願いいたします。

竹田  それには、なぜ人間は美醜という価値を必要とするのか、という話しをする必要があるので。ちょっと回り道をして僕の考えを述べてみます。

 人間と動物の存在のいちばん大きな違いはなんでしょうか。いろいろ言えるけれど、もっとも重要なのは、人間が「真・善・美」といった独自の「価値」の秩序をもっていることです。人間がこういう価値審級(真善美といった価値の秩序)をもっていることが、人間の欲望の本質を規定しています。なぜそうなのかについて、プラトン以来、昔から多くの哲学者たちが仮説を立ててきましたが、それほど十分な展開は見られなかった。ぼくの考えでは、この問題に有効な方法をもっているのは現象学です。でも方法については詳しく言えないので、僕の基本的な考えをざっと言います。動物にとっての世界を「環境世界」と言うなら、人間の世界の本質は、「関係世界」であるということです。「環境世界」は、「身体」に対して一義的な相関関係を持ちますが、関係世界では、この関係は多元的、多義的で、だから人間の身体は「幻想的な身体」です。人間の関係世界は、基本的には他者との「関係」世界ですが、これは人間が「自我」をもつことから来ています。動物の主体はいわば「身体」ですが、人間の主体は「自我」なのです。動物は「身体性」にエロスの源泉をもつけれど、人間ではむしろ「自我」がエロスの源泉になっている。

 それで、人間の「関係」は何が原理になっているかというと、「他者」との「幻想関係」です。自分が他者をどう評価し他者が自分をどう評価するか、そういう関係が基礎ですが、この関係は、暗黙の約定関係、簡単に言うと暗黙のルール関係と言えます。でもそれが約定関係、ルール関係だということは意識されていません。神がもっとも偉い、とか、男が女より偉いとか、子供は親の命令に従うべき、といったことは、自然の摂理ではなくて、ルール関係、暗黙の約定ですね。つまり、人間の関係世界は、総じてそういう暗黙の、また明示的なルール関係の網の目なんです。また、この網の目を作る基本契機が「言葉」です。人間の関係はそういう暗黙のルール関係の網の目ですが、これに対応して「自我」もある意味でルールの網の目です。これはつっこむと複雑になるので基本線だけ言います。人間の自我は幻想的なもので、その内実は自己了解と関係了解の網の目です。そしてそれが感受化(身体化)されているところが人間の「自我」の本質です。それで、この感受化された関係了解の網の目が「「真・善・美」という人間の価値の秩序(価値審級)なのです。

 「真・善・美」は、プラトンの言い方なので、ちょっと古めかしく聞こえるかもしれないけれど、この言い方はじつは相当正確です。人間世界は、強い弱い、優劣、という秩序もあるけれど、人間的価値ということで言えばまず「よい」ということと「美」ということですね。「よし悪し」と、「美醜」という価値。もう一つは、「真と偽」。これは、必ずしも「事実」と「間違い」ということではなくて、「ほんとう」と「ほんとうではない」ということです。それが人間の心の価値の秩序の中心です。

 「美」とは何なのか、ということで言えば、それは独自の重要性をもっている。つまり、「美」とは人間のエロス的な欲望の「対象」なんですが、特に感性的、感覚的な表象、イメージとしてそれは人間の心を引きつけるものです。つまり、「身体性」、「感受性」に快を与えるもの、気持ち良さを与えるもの、そういうものをわれわれは「美」と呼んでいるわけです。現象学に「本質直観」という方法があるんですが、これで考えていくと、さしあたり、「善」と「美」はともに、人間のエロス的欲望の対象性だということになります。ふたつは実際には入り交じっているけれど、大きく分ければこう言えます。われわれが求めたくなるものが「意味」的な対象性となっているとき、それは「よいもの」とか「善」と呼ばれ、「身体性」「感受性」の対象となっているとき、それを「美」と呼んでいると言えます。現象学の考えではだいたいそういうことになります。


伏見  その「美」という言葉と、「エロス」という言葉は、イコールではないのですか。

竹田  「エロス」というのは、要するにワクワクする感じですね。自分を引きつける対象があるときにかき立てられるその情動性といえばいいでしょうか。「エロス」は、狭い意味では性的な魅惑力のことですが、ひろくは、生き物が何らかの快の情動によって対象に惹きつけられる、という意味での力動と考えればいいと思います。人間も含めてあらゆる動物の生の基本原理は「エロス」であるというのが、ぼくの考えの基本です。あらゆる動物生は、エロス的可能性を求める力動と、不安や苦痛を遠ざけようとする力動の中で生きており、これをエロス原則と呼んでいます。フロイトが人間の生の根本動因をリビドーと呼びましたが、リビドーは性的な衝動力で、これでは狭すぎるというのがぼくの考え、です。とくに人間のエロス原理は動物とは違って、身体的、性的な「快」を対象とする領域はかなり狭くて、むしろさまざまな「意味」を対象とします。つまりエロス的対象が幻想的なんです。その中で、視覚や聴覚のイメージ性が問題となるような対象を、ふつうわれわれは「美」と呼んでいるんです。「美」の意味はもちろん転移しますが、もとはそういうことです。

伏見  大きなエロスの中に「美」というのがあるということでしょうか。

竹田  エロスというのは、基本は主体と対象の間の引きつけの力というニュアンスですね。だから、対象となるものが「美」と言ったらいいでしょうか。

伏見  なるほど。ところで、この特集では「ブス」という言葉を使っていますが、「醜」の方はどのように定義されるのでしょうか。

竹田  人間が基本的には避けたい、不安を起こすとか苦痛を予感させる、あるいはあまり近づきたくないもの、というのが基本ですね。美しいものが、なんだか知らないけどとにかく人を魅きつける力があるとすれば、反対で遠ざけたいものと言えます。というのは、はじめ親は子供に「きれい―きたない」という秩序を、「きたない!」という禁止ではじめます。だから「きたない」は、その領域への不安をもたらすものなのです。この領域はだから、一方で恐れの対象ですが、もう一方で忌むべきもの(オブジェクション)であり、総体として嫌悪の対象となるわけです。


2. 「美醜」の価値序列は編み変えられる


伏見  「美醜」の価値序列みたいなものは、アプリオリに存在しているものではなくて編み変えられると先ほどおっしゃいましたが、それは変わるものなんですか。

竹田  なぜ人間には「美醜」の価値秩序があるのかというとこで言ってみます。大雑把に言うと……動物の主体意識はいわば「身体」が主人になっている。性欲とか食欲とか、直接的な欲望が自我を動かしている。エロス対象とエロス目標がほぼ固定されているわけです。だから動物の場合「自我」というより「意識」と言ったほうがいい。「意識」はエロス的力動に基本的に奉仕する形になっている。「意識」が「身体性」に従属しているわけです。人間では事情が異なります。ここでも「意識」を土台として規定しているのは「身体」ですが、にもかかわらず、人間は生育をはじめると、このような動物原理からは逸脱していきます。はじめエロス対象もエロス目標も自分の「身体」から離れませんが、やがてそれは他者(母親)との関係性に転移していきます。自分の「身体」が快い、から、「誰か」(母親)との「関係感情」が快い、へとエロス目標が移動するわけです。この「関係のエロス」の座をなすのが人間の「自我」で、それはいわば幻想的な「身体意識」なのです。空腹を満たしたいとか、身体的な快さを求めるとかいうプリミティブな「身体エロス」は土台としてはなくなりませんが、その占める割合はどんどん小さくなります。問題なのは、「誰か」(母親)から可愛がられるか、認められるか、ということになる。だから「自我」が主人で「身体」は「自我」のエロス的欲求充足を満たすための「手段」のようになります。「身体」が「自我」に従属するのです。生育の過程で人間の「身体」が能力開発の場としてお解きなのである。問題になるのはそのためです。

 ともあれ、そんなわけで人間のエロス目標は、自己身体ではなくて「自我」なのです。そこでエロス対象は、根本的には「他者」ということになります。それで人間は動物のように、まわりの環境世界との間でエロス対象を見出すのではなくて、他者との関係の世界中でエロスを見出していくわけです。「関係世界」が人間のエロス的対象と目標の世界です。ところがこの「関係の世界」は環境世界とちがって、幻想的なものです。どういう意味で幻想的かというと、それはいわば「意味の網の目」なのです。それは固定性も一義性ももたない。それはどんどん変様されるようなものです。だから、動物のエロスは、主体と世界の関係がほとんど一義的なのに対して、人間のエロスは、主体と関係世界の相互的な変様を基盤とするような多義的で相関的な関係です。この相関的な多義性は、「自己アイデンティティ」というものを基軸として編み上げられるのです。

 それで、「美醜」の価値秩序がなぜ人間世界に存在するのかということですが、ぼくの仮説で言いますと、それは、人間の「身体」というのは、エロス感受の場ですが、人間関係が相互了解関係の網の目であるとすると(これが意味の網の目ということですが)、人間の「身体」の感受能力もまた、「自我」のあり方によって変様されるのです。つまり人間の「身体」もまた「幻想的な身体」なのです。動物の「身体」が主として、快苦、安心-不安という秩序に奉仕しているとすると、人間の身体性(感受能力)は、この「自我」論的変様として、美醜、善悪、真偽(ほんとう-いつわり)という秩序の中で生きるわけです。鳥のオスの羽が美しかったりするのは、動物も「美」という感覚を持っているからなんだという意見もあるんですけれど、しかしそれは人間が持っているような幻想的な「美」ではありません。

 さっき人間の「自我」は、「関係のエロス」の座となると言いましたが、少し例を挙げて言うと、人間のいちばんはじめの「関係」はふつう母親との関係ですね。はじめ乳幼児は、お母さんがいないととにかく泣く。泣くことによってお母さんを呼びよせるわけですね。泣くというのは子どもの一つの能力(=できる)です。子どもはこの能力によって生きてるんですが、あるところまでいくと泣くのを我慢しなければいけなくなる。初めは泣くのを我慢するのはいやなんですが、ちょっと我慢することを覚えると、母親との関係が気持ちよくなる。これが「関係のエロス」の起点です。もちろんこれは象徴的な思弁で、実際はもう少し複雑な関係が介在すると思いますが。要するに、直接的な「自己のエロス」を一時断念(抑止)できると、母親との関係感情が「こころよく」なる。この経験が、幼児にはじめの「関係のエロス」を与える。母親の禁止やいうことをきくと、「愛される」。これが内面化されて、「自我」が出てくるわけです。エロスは、はじめは自我の身体性に固着してるけれど、直接的な「身体性」の乗り超えとして、だんだん関係感情に転移してくる。それで、てっとりばやくいうと、もう一方で人間には、象徴能力という独自のものがありますが、この「関係感情」の「こころよい」が、象徴能力と結びついてあるイメージや「形象」に転移することで、「きれい-きたない」という秩序が生じます。つまり関係が「こころよい」が、形象化、感覚化されたものが「美」というものになる。美を「本質観取」するとそんなことが出てきます。「うつくしいもの」は「こころよいもの」とは違います。それは、直接性を失って、主体の「むこう」に、大なり小なり「憧れ」の対象となって存在しています。それは直接、食べたり触れたりできないで、見る対象、聞く対象になって、直接的な身体的欲求満足から「隔てられている」わけです。


伏見  「好み」というのはどういうものなんですか。たとえば、メス猫でも好きなオス猫と嫌いなオス猫とがいるように、動物にも「好み」があるように見えるんですが。それと美的なものとの関係というのは?

竹田  猫の「好み」もある意味で美的なものと言えるかもしれないけれど、それは根本的には人間世界の「美醜」からのアナロジーでしょうね。猫の好みは、生物学的な個体差だと思いますが、人間の好みはいわば「趣味判断」的な個体差ですね。「たで食う虫は好きずき」という言葉があるけれど、この美的趣味(=美意識)の違いの本質は何かと言うと、こんな感じになります。「美」は人間のエロス的対象の最たるものです。とくに人間のエロティックな対象は「美」的なものです(男女差がありますが)。ところがもともと「美」は幻想的なもので、何が各人にとって「美」であるか大きな個体差があります。フロイトは、子供はもともと性対象において多形倒錯で、人間の「性対象」はエディプス関係(による性発達のあり方)に応じて決定されるといいましたが、これになぞらえて言うと、各人にとって「美」は、その人の「ロマン的世界像」の形成に応じて変わるのです。ロマン的世界は、子供が必ず通過する現実との「挫折感覚」(はじめは誰もが世界の主人公なので)から生じる、いわば「生の世界」に対するはじめの憧れの世界です。これはじつはすでに言葉(物語やイメージ)によって編まれたものです。だからそれは動物の趣味と本質がちがうのです。

 したがって、人間の「美醜」の感覚は本質的に変様しうるものです。どんどん変わっていくし、むしろ「美的な感受性」(=人間の感受的な身体性)が変わっていくということが、人間のエロスの本質です。ついでに言うと「自己アイデンティティ」は、この人間の感受の身体性の変様の基体です。人間の「自我」と「感受性=身体性」の関係は独特です。人間の「感受性」は幻想的な身体性であって、いわばそのひとの「美醜」、「善悪」、「真偽」の根本的なルールをなしている。これが本質的には人間の「自我」を支えている。だけど人間の幻想的な身体性はまた、人間の「自己」の意識的な活動(他者との関係行為)を通してしか自分の「身体性」を変様させられない。そんな具合です。だけど、この、人間が他者関係を通じて自分の「身体性」を変様させていく、言い換えると自分の美醜や善悪のルールを絶えず刷新していく、ということが人間の生のもっとも根本的な本質なんです。

 ともあれ、そういうわけで、「美醜」の感覚がまったく変わらなければ、人間はそもそも他者と関係というものを持てない。これが好きだとか、これがいやだということが一義的にセットされているとしたら、人間は悲しいものですね。自分も、自分の関係の世界も変化させたり、展開させたり決してできないわけですから。


伏見  そうすると、人間にとって「絶対的な美」というものはあり得ないわけですか。

竹田  そうですね。ただ、あくまで「美醜」というのは関係世界を由来としているわけですから、ただ、「よりよい美」というものは必ずあります。「絶対的な美」というのは、、無限大と同じで極限理念です、それはじっさいの数としては存在しない。でも、もっと美しいというのはある。

伏見  「美の普遍性」というのはないわけですか。

竹田  「美の普遍性」というのはあります。ただ誤解が多いんですが、普遍性というのは絶対性という意味ではない。さっき言ったように「美」は美意識的な幻想的身体性によっているから、ぜんぜん固定的なものではない。だけど、美の「本質」は、「関係のこころよい」ということが起点であり、その展開形としての各人のロマン的世界-憧れの構造を根にもっている。だから、美醜の秩序は、生き物の「エロス的可能性―苦痛・不安」という全体的秩序の中で、「ロマン的可能性―不安・オブジェクション」というエロス的な惹きつけと遠ざけの原理として必ず動いている。だから、そういう構造的な本質として必ず普遍性をもっているということです。

 つまり美それ自体に、「普遍的な美」というものがどこかにあるということではなくて、誰でも自分なりの仕方で美というものを経験し、美しいというものに憧れたりする経験を持ち、一人一人の人間が抱く美というものの意味には必ず共通項がある。それが普遍性ということです。

伏見  すみません……「絶対的な美」はないが、「普遍的な美」はあるというところがよくわからないのですが……?

竹田  「普遍的な美」というようなものはなくて、「美」という秩序には普遍性がある、といえばいいでしょうか。もう一度言うと、人間の世界は、環境世界ではなくて関係世界ですね。他者との関係の中で「自己」を形成し、「自己」を通して自分の感受性、身体性を編み上げていく。この行為自体が人間の生の「エロス」の源泉です。美醜の秩序は、世間一般のルールというのではなくて、本質的には人間の感受性の根本ルール(善悪・真偽と並んで)ですね。だから人間の世界は「価値審級」の世界なんです。したがって、人間の世界がある限り、けっして「美醜」という序列はなくならない。「普遍的な美」というと「美」の絶対基準があるように感じられますが、そういうことではなく美醜の秩序の普遍性ということで考えればいいと思います。


3. 価値序列自体が差別なのではない


伏見  「序列」とか「ヒエラルキー」とかというのは、最近ではネガティブな言葉として受けとめられていると思うのですが。ヒエラルキーがあるのは良くないと、みんな大体感じている。今の先生の話だと、人間というのは人間である以上価値序列を作るものだということですよね。それはしようがないわけですか。

竹田  しようがないというようなことではなくて、これを否認することは、人間の生とその価値のあり方全体を否認することであって、ニーチェならこれを退嬰的なニヒリズムと呼ぶでしょう。人間的な生のエロスを否認するわけでから。大分前に語学者の田中克彦氏と鼎談をしたとき、まったくこういう考え方を主張徴していました。彼は人間の生より動物の生の方が高等だというわけです。これはよくある反動形成です。

 でも、なぜんそんな突飛もない考えが現われてきたのかははっきりしています。歴史を振り返ると、近代になって初めて、人間は個人であるということが共通了解となり、政治的にも解放されました。それまでの人間というのはタテ社会の中で、必ずなにかに帰属して生きていた。一番上に神がいて、王がいて諸侯がいて領主がいて管理人がいて農民がいる。必ず上の者に帰属していた。要するに、人間の本質は、彼がどこに帰属しているか、ということだった。ところが近代になると、貨幣経済が広がり、生産性が上がり、少しずつ自由市場というものが整備されて、それぞれがどんな職業を選んでも良いということになった。そういうことが、近代における人間の「自己決定」の自由ということの社会的条件です。思想、信条、宗教の自由もそうですが、つまり、その人がどういうものに属していようがそれはその人の趣味であって、大事なのは、自由な個人として互いに相手の「自由」を承認しあう、ということである、と。これが「人権」という考え方の基礎です。

 さて、やっと個人というものが生まれ、市民社会という考え方が定着し、みんなが個人として解放されるかと思ったら、そう簡単にはいかなくて、市民社会から資本主義という怪物が出てきたんですね。最初、それは誰も気がつかなかった。資本主義は貧富の格差をターボ的に拡大しますから、そこから出てくる矛盾は非常な勢いで拡大する。一国内だけの貧富の格差だけではなくて、列強どうしの対外侵略競争、植民地収奪の激化、後発近代国の圧迫とファシズム化といった事態がドンドン出てきた。そこにかつて人類がはじめて経験しするような恐るべき悲惨な状態が現われたわけです。そこでこれはなんとかしなくてはいけないという考えが、19世紀ぐらいから出てくきます。その最大のものが、社会主義思想で、その根本の考えは、自由競争と私的所有がこの資本主義的競争を必然化している。だからこれを禁止して富の分配を全部平等にしようという考え方です。近代社会では富の自由配分を行った結果、貧富の格差が極端に拡大してしまった。ならば、もう1回これをやり直して平等にしようというわけです。

 要点を言うと近代のはじめの根本的な社会理念は「絶対自由」(ヘーゲル)で、近代の終わりの社会理念は「絶対平等」です。この理念にはもちろん大きな意義もあったが、大きな弱点もあった。いまそれをわれわれは少しずつよく考えて、新しい理念を作りだしていかないといけないわけだけど、話しを元にもどすと、「市民社会」の「自由」理念は結局貧富の差を拡大するような自由だという観点から、これへ反動形成して、富の配分を平等にするだけでなく、あらゆるもの、エロスの配分も含めて、何もかも全部平等にすべきだという考え方が出てきたわけですね。これが「絶対平等」の理念です。

 それで、「美しい」とか「美しくない」とかいうようなことも、結局社会的なの源泉だから、こんなものはなくすほうがいい、という考えとして出てきたわけです。しかしこれは非常に危険な考え方です。ニーチェは一切を極度に理想主義的で倫理主義的な内面精神に還元するキリスト教的精神を、生への絶望からくるルサンチマン的反動形成であると言いますが、これもまったく同型の考え方です。

 じっさい中世キリスト教は、長い歴史を通して、大多数の人びとに「絶対的平等」を与えていたわけですが、それは、ごく少数の支配者と、生のエロスを完全に否認された大多数の隷従する人民、という構造と引き替えになっていたのです。ドストエフスキーは、大審問官とキリストの対話でこのことをテーマにしています。

 こういう考え方は歴史上なんども反復されて出てくる考えですが、ある意味で非常に危険であり、また社会という構造への無自覚からきています。それを少し言ってみます。

 もともと生き物の世界は完全に弱肉強食の世界ですね。強いものが弱い者を犠牲にして生き延びる。ところが人間の世界は、さきに述べたようなさまざまな理由で、関係の世界であり、お互いに相手のことを多少なりとも了解しあうということで成り立っている。人間は身体の不安ではなく、「自我」の不安の中で生きている。この「不安」は大なり小なり「了解しあう」という要素があるのです。この互いに存在の不安を「了解可能性」ということが人間関係に一つの大きな要素を作りだします。それがルールということです。

 ルールは、圧倒的な力の差があるところでは成立しない。力が均衡して、互いが不安をもちあうところにはじめの「ルール」が成立可能性になります。ルールというものは、世界が「関係世界」になる根本要素です。要するに、動物における赤裸々な弱肉強食の世界はルール的なものによって、ある「約束」関係の世界変化します。これはどういうことかと言うと、ルールを敷いて、赤裸々な弱肉強食の生存競争のあり方を「ゲーム化」していくということです。このとき「約束関係」のルールとは、強い者が勝つという「原則」ではなく、「よい」「わるい」という人間的「価値」の秩序を世界にもちこむわけです。強いものが勝つという赤裸々な原則の中に、約束を守るものは「よい」、破るものは「わるい」と言われるわけです。象徴的に言えるだけですが、これが人間な価値の社会的起源です。この社会的価値秩序は、もちろんもとは親子関係の「よい、わるい」「きれい、きたない」という個人的な関係のルールを土台にしなければ生じません。

 要するに、「美醜」は「善悪」とならんで、人間が人間的な関係の世界を作っていることの本質契機であって、この秩序をとり払うなら、人間の世界はあっというまに弱肉強食の動物の世界に変化します。ここでもし平等を達成しようとするなら、たった一つ方法があるのです。強大な絶対者を創出して、この絶対的力(権力)をもったもののもとに、残りのすべてが「平等」となる、という方式です。これは、美が何であるか、善がなんであるかについて、絶対的な答えが唯一であるような、絶対的な階序の世界になります。あらゆる専制国家、独裁国家は、これに近づきたがるわけです。

 二〇世紀の社会主義国家は、「絶対平等」という理念を実現しようとして、こういうパターンをなぞってしまった。巨大権力がなければ政治権力の正統性を保てないので、違う考え方は一切排除するということになる。これは近代的な政治統治の正当性とまったく背立します。だから中世的な政治統治の理念型に回帰せざるえない。各人の「自由」はできるだけ制限されないといけない。「自由」は真理の敵とされ、「絶対的な真理」が強調される。「絶対平等」理念は政治統治の正当性と原理的に折り合わないわけです。

 そんなわけで、美醜は差別やヒエラルキーの源泉だからこれを止めようという考えは、この社会はひどすぎるという感覚からくる反動形成的思想で、歴史的には無数に反復されてきたものです。問題は、一切の階序を取り払って絶対平等にするというようなことではないわけです。人間社会が階序をもつことから出てくる諸矛盾をどのようにして絶えず調整し、克服するか、ということです。美醜や善悪は、強い-弱いだけで存在していた秩序に、人間が作りだした新しい価値秩序で、これをを敵視したら、必ずひどい結果になるのです。


伏見  軸が増えたということですか。

竹田  そうも言えますが、むしろ軸をずらしたというのがいいかもしれないですね。

伏見  弱肉強食というのが絶対的な軸だったわけですよね。

竹田  そうです。それは≪(いわば)≫自然ルールで、一番プリミティブなルールだった。

伏見  そのほかに、「善い」とか「美」というものを立てたということではなくて……。

竹田  ほかにではなくて、このプリミティヴなルールを少し変様して、て弱肉強食的原則を緩めた。それは絶対的にはなくせないものですからね。さっきの続きでいうと、人間は「不安」を了解しあって、赤裸々な弱肉強食原則をルールによってゆるめた。その工夫の人類史的な原型を言うと、一つは「なわばり」を敷くということ。互いに相手の領域に入らないという暗黙の約束です。次が「贈与」。お互いに贈与をすることで、敵意がないことを示し合う。次が交易。次に婚姻関係、つまりレヴィ=ストロースが示唆した「女性の交換」ということです。そうやっていろいろな工夫をして、なるべく赤裸々な弱肉強食にならないようにしてきたわけです。

 このルールの考え方を極限まで追いつめるとどこにいくか。ヘーゲルはそういう形で考えて、「自由の相互承認」という概念を出しました。これだけ聞くとなんということもない平凡な考えのように聞こえるかも知れないけれど、そう簡単なものでないのです。これを僕なりに敷衍するとこんなことになります。ヘーゲルの言い方はなかなか面白い。人間はもともと「自由」である、というわけにはいかない。大昔から人間の世界もせめぎあっていて人間は互いに闘争し続けてきた。勝ったものは主人に、負けた者は奴隷になった。それが人間世界の現実だった。しかしそれでも人間の「精神」は動物のそれとは違った本質をもっている。それはどこまでも「自由」たろうとする本性をもっているということである。精神の「自由」とはどういうことか。自由の本質とは「無限性」の意識である、と彼はいいます。単に自分は自立して誰にも従属しない、ということではない。人間の存在はもろく、はかない。必死で生き抜こうとするが、自分よりも強いものに出会ったり、自然の巨大な力のひとなでであっというまに滅んでしまうような存在である。にもかかわらず、人間はそのような自分の存在のあり方自体についてよく理解している。自分の生と全宇宙の関係に思いをいたし、この関係を知るという点では、あくまで世界に対して精神的な主体として立っている。この、自分と世界の関係について、何度でもこれを反芻し、理解し、主体としてその意味を知ろうとする精神の力、これが精神のもつ「無限性」という本性であって、これが人間に自己の「自由」というものをあくまで求めさせる。そのような意味においてのみ、人間は本来「自由」な存在だといえる。

 しかし、この人間の「自由」の本質は、現実世界ではなかなか実現されない。人びとはながく承認をめぐって戦いあい、結局支配と被支配の関係があまねく人間世界を覆ってきた。人間がその「自由」の本性を保ったまま、支配-被支配の関係を克服する原理は何か。

それはただ一つある。互いが互いを「自由」な存在として承認しあうこと。自由の相互承認ということ、これである。人間はそういうことをなしうる可能性をもっているか。もっている。人間は「無限性」を知る唯一の存在であり、この自分の精神の無限性の深い自覚は、必ず他者の精神のうちの「無限性」への共感を可能にするはずだ。人間が互いに他者を「無限性」を知る存在として承認しあうこと、これが近代になってはじめて現われた「人権」の考えの根拠であり、したがって市民社会原理の根拠でもあるわけです。

この考えは理念としては「絶対自由」です。しかし、「絶対自由」の考えは、理念だけでは実現されない。それには現実的な条件があり、この現実的条件を適切にさぐりだし、一つ一つ実現していくというプロセスを辿らなければならない。それが近代社会のルール、互いが互いの生存と生の享受のための努力を認めあい、それが他者の自由を抵触するときにはこれを制限する、というルールの前提です。だから市民社会のルールの原則は、互いが「自由な個人」であるということを認めあっているということです。まさしくその理由で、万人はルールのもとに対等であり、社会の成員全員がルール決定(変更)について対等の権限をもっているわけです。

 市民社会以前のルールの本質は、それがくくり出された一者、王から特権的に与えられるということです。でそのルールの権威の源泉は、神や宗教的な絶対的な権威ですね。つまり、市民社会では、各人の「自由の相互承認」ということだけが、そのルールの根拠であって、そこに超越者がまったくいないということです。

 話が大分回り道しましたが、ぼくが言いたかったのは、「絶対平等」の理念は一見「絶対自由」理念を乗り超えるような理想的な理念型だけれど、原理としては可能性がないということです。つまり、それは、一つには、人間の「精神の無限性」を禁圧する仕方でしか可能でないこと。それからもう一つは、絶対的な特権権力を作り出せないかぎり、ルールの権威の根拠を作り出せないということです。「絶対平等」による社会のいちばん分かりやすい例は、さっき言ったように絶対キリスト教統治ですが、極端な専制や独裁は統治理念としてはみなこれに近づきます。あるいはプラトン的な「哲人王」の国家ですね。でもこれは、必ず「絶対価値」を必要とします。絶対権威と絶対権力を必要とするからそれを正当化する「正しさ」が多様であっては困るわけです。だからここではどうしても「善悪」「美醜」の価値も一元化されるのです。

 ところが、たとえば「よし悪し」の価値秩序というのは、もともと、個々の人間がそれぞれの感受性や美意識をもっているということから来ている。「本質直観」してみると、「よい」の本質は、やはり「関係の快い」を生み出す意味連関のことです。人間はさまざまな趣味、思考、信条をもっている。それは各人の自由何ですね。でも、互いが共存していくためには、その違いを調整していかないといけない。どうするか。多様な違いの中から、相互をできるだけうまく認めあえるような生活のルールを取り出していくことです。この努力が「よい」ということの関係的な原型です。たとえば、なにか問題があったとき、10人くらいいるうちの誰か1人が非常に力も強そうで弁の才もあり、その人が「断固これが正しいんだ」と百万言費やして、ほかの人を議論でどんどん打ち負かして自分の考えを押し通してしまうとする。彼は特権的な人間になります。でも、そういう決め方より、いろんな意見の違いをよく聞き取って、できるだけ矛盾や不満が小さくなるように調整して適切なルールを取り出す人がいるとすると、われわれは、必ずそういう努力のほうを「よい」ものと感じますね。そういう場合、われわれはじつは「よい」の本質をちゃんと知っているわけです。一つの強力なものを置いて、これは絶対だというのをわれわれは「よい」と思わないわけです。

 つまり、「よい、わるい」という価値の源泉には、互いの自由を認めあうこと、人間が才や能力や資質が多様であることを認めたうえで、どうやってできるだけ互いの「関係」を気持ちよくするか、という努力がある。絶対平等を前提とすると、そういう努力は必要もなく、「よい、わるい」は、絶対的威力への帰依の度合いということに帰着します。「自由」ということ、精神の無限性ということ、そして多様な存在からつねに「関係」を改善する努力、人間がそういう世界を生きようとすることが「よい」という価値の根拠です。「美」は一見そう思えないかもしれないけれど、この「よい」の価値の転化形態です。

だから、「美醜」の価値を取り払うなどというのは、まったく本末転倒した議論なんですね。


伏見  そもそも「美」というものの価値序列があるから、差別が生じるんだという議論に対してはどう考えるわけですか。

竹田  はっきりしたことですが、差別は美醜の価値秩序を利用するのであって、この価値秩序が差別の本質ではないということです。差別をなくそうとしるなら、差別の本質をとらえて、これに働きかける他はない。敵となるものを取り違えているわけです。

 差別の本質契機を3つぐらいいえます。まず、アイデンティティ補償というのが、差別の内的な核です。たとえば僕が白人で伏見さんが黒人だとすると、僕が伏見さんを「おまえは黒人だ」とバカにするとき、そのことによって自分のアイデンティティを相対的に持ち上げているわけですね。この相対的な「アイデンティティ補償」というのがまず第一点です。それからこれは「共同性」を利用するということです。つまり、僕は伏見さんを「黒人である」という共同的なレッテルによってバカにできるわけですね。別に僕のほうが何か能力が優れているのでバカにしているのではない。単に自分が白人に属しているということに拠っている。それを可能にしているのは、白人より黒人のほうが偉いという「一般通念」です。したがって、共同的な属性を素材として、その優劣の一般通年を利用して自己の「アイデンティティ補償」を行う、というのが、いちばん原型的な差別の本質契機です。差別の本質は階級や階層支配を固定化する点にある、というのは、大分昔によく言われた古典的な差別論議ですが、これは差別の[付加的な]機能の一つを言ったものにすぎません。

 さて、われわれはなぜ、「差別」を「わるい」もの、あってはならないものと感じるか。大きく言えば二つのことがあります。一つは、近代社会以後、人間ははじめて誰もが対等のメンバーであるという考え方になった。昔はそうではなかった。人間の価値が出自、階層によってもともと異なっているというのはふつうの考えだった。でも近代社会ではまず一社会の成員のメンバーシップという感覚が生まれ、それを起点にして、人間ならば、基本的にはみな同じ人間であるはずだという世界大のメンバーシップ感覚が育て上げられた。

 差別は、われわれが知らないうちに育てているこの世界大のメンバーシップ感覚に抵触するわけです。

 もう一つあります。差別は単なる優越感覚とは違います。自分が何か能力が優れているとか、頑張って結果を残したのでそれをつい誇ってしまう、というのはありがちなことで、これはまあすすめられはしないけれど[まだ]憎めない面がある。[事情によって立場が逆転する可能性があるわけです]でも、差別は自分の功績によって自分を高めるのではない。自分の共同性によって、また共同体間の優劣の一般通念を利用して、「自己アイデンティティ」を補償するわけです。しかもそれは「他人の苦しみ」を引き起こす。つまり他人の苦しみを利用して自己のエロスを補強するわけで、われわれはそういう行為に必ずある「ずるさ」や「みにくさ」を直感します。差別は、まず近代的な人間と社会の基本概念のルールにまず違反し、それから心理的に、人間としての公正(フェアネス)感覚のルールに違反するわけです。そういうこと[が差別の本質であって、だからそれは、共同性と通念的価値の秩序を利用するということです。だから]なので、あらゆる価値的な秩序それ自体が差別の根源だという考えは[転倒した]短絡思考です。差別は、ふたつのことを利用して成立する「共同体への帰属性」ということと、これに属する根拠のない一般的な価値通念です。差別は自己のアイデンティティを補償するために、そういうものをなんでも利用する。でもそれだからといって人間社会の価値の秩序自体をなくせというのは、人間関係をもつと傷つくのでだれともつき合いたくないと考える自己の過剰防衛と同じです。


伏見  そうすると、美しい人は、「美しい」ということで、醜い人を差別している、という言い方はできないわけですか。つまり、その場合には、そこには共同性がくっついていないわけですよね。「美醜」は差別問題にならないということですか。

竹田  「美醜」は差別に利用できるということです。自分が美人でなくても、男は美人でない女性を「おまえはブスだ」と言う。そうやって相手を貶めることによって、自分は一時的に心理的優位に立ちますよね。そういうのはもちろん差別ですが、しかし「美醜」の価値そのものをなくすというようなことが問題ではないわけです。

伏見  「美しい」ということは、一つの共同性にはなるんですか。

竹田  男が不美人の女性に対して「ブス」だという言い方をしたとすると、それは男が、「美人」という共同性と「ブス」という共同性を想定して、いわば男というものは「ブス」なんか相手にしない、という一般通念を強調するすることで相手を傷つけている。そのことで自分の優位を確保しているわけです。だからぎゃくにいうと、全然モテない男が「おまえはブスだ」と言えるかというと、ちょっと言いにくい面があるわけです。

伏見  小浜逸郎さんは、共同体の秩序に反するようなテーマに関しては差別問題という言い方ができるけど、個人のエロス的な価値の分野に入るようなことは「蔑視」であって、差別ではないんだという言い方をなさっていますが。

竹田  細かく言えばそのとおりで、朝鮮人差別と「ブス」差別というのは、大分内実がちがっている。後者は[じつは]共同体的な実体がないので、そのつどの蔑視ということに近くなる。ただ、しかし一般的に差別という言葉が、本当は根拠がないのに、美人-ブスという一般的価値序列を軸に、他人を利用して自分を相対的に持ち上げる、そういうずるい場面を指すということがあるので、これを差別と呼んでもそれほど違和感がないんだと思います。


4. ミスコンを否定できるか


伏見  たとえば、ミスコンというのは「美醜」の差別を強化するような力として作用するということにならないのですか。

竹田  それは基本的にさっき言ったような、美醜の価値秩序自体が差別の根源である、という考え方から出てきた主張です。近代社会は、はじめて各人の「自由」、つまり生の享受と自己決定を、実現する希望の原理として登場したわけですが、ここから資本主義とナショナリスティックな近代国民国家が登場した。ヘーゲルのいう欲望の体系としての市民社会が現われ、それまでは固定的な身分階層と「自由」のなさが問題であったのに、富の格差、配分ということが問題になってきた。そこで富の配分の「平等」という考えがクローズアップされたわけです。ところがこれは理念としてはとうぜん「絶対平等」という方向へ動きます。世の中の矛盾を根源的になくそうとするなら、あらゆる価値秩序を「絶対平等」化すればいいではないか、という思念ですね。

 でもこれは、仮に社会のある局面で価値秩序の平準化ということが有効なモデルとして考えられるとしても、現在の社会的矛盾を批判するときにはじめの公準としてこの考えをもちだすと、それは純粋な理念だけの運動になる。現実化の条件がまったく考えられていないわけです。ぼくの考えでは、社会制度の理念として、「絶対平等」理念は背理です。マルクス主義はまだ富の配分にだけこれを適用したので、このルールを誰がどういう権威で置くことができるかという難問を別にすれば、それなりの重要性があります。でも、少ししっかり考えると、美醜や能力などの個体差を平準化することで社会矛盾を克服しようとする考えは、どんな実現の可能性もないまったくの背理的な理想理念でしかないことが分かります。

 人間社会がそこから出てくる矛盾を克服していくプロセスには、必ず現実的な順序があるわけです。ギリシャのポリス国家のような局面で奴隷制廃止を実行しようとしても、まったく非現実的です。ポリス社会はあっというまにペルシャ帝国に滅ぼされてしまう。でも近代の市民社会では、奴隷制や奴隷的隷従制度はもっとも大事な克服課題で、これが実行されなければ市民社会自体の存立が危ういし、またその実行可能性の土台を社会自体がもっている。また、市民社会が豊かに成熟しその公共性が育てられていく度合いに応じて、つぎに富の配分の問題は必ず少しずつ解決しうるようになる。マルクスの根本的なプランは、そういう段階で実現可能になると思います。そういう順序がある。でも、いまの時点で美醜の秩序、個体差をなくそうとするのは、まったく無意味であるだけでなく、危険があります。というのは、それはいろんな局面で、ある絶対的なユートピア志向を含んだ反=市民社会的感度を作り出すことになるからです。

 いまの時点では、大事なのは、「絶対平等」理念を実現していくというようなことではない。むしろ社会の「流動性」と価値の「多元性」ということです。

 たとえば、現在の社会のいちばん大きな問題点は、なんやかや言っても、すべてがマネーゲームに一元化されているところです。社会を、一定のルール(=支配観念)を基礎とする競争ゲームであると考えると、近代社会は戦争ゲームの社会であり、その前に遡れば、権力のゲームがもっとも重要だった。いまは先進国ではマネーゲームと権力ゲームが、大体癒着する構造になっているけれど、基本的にマネーゲームに付随して権力ゲームがある。

といっても、マネーゲームが最悪のゲームだというのではない。いつでも中心的なゲームルールがあるというのは、社会のつねですが、これが一極集中化すると、いつの時代でも必ず社会の矛盾を噴出させるのです。

 なぜかというと、社会ゲームのルールが一元化すると「お金だけが価値だ、権力だけが価値だ」となる、すると、およそ人間生活の基本ルールである、善悪や美醜のルールは、この社会ゲームのルールの求心力に引き寄せられてねじ曲げられてしまう。「よい」とは、それがもともともっている「関係を気持ちよくする」という本質からねじれて、どれだけお金や権力をうる力があるか、ということに一元化していく。「美」も同じで、美はその根底には「よい」もの「ほんとう」のものへ向かう人間の努力が形象化されたものです。ところが優れた「美」とは、たとえば、その社会の支配イデオロギーをもっともよく表現したもの、というようなことになる。これはキリスト教社会でも独裁国家でも必ずそういうことが起こる。「よい」と「うつくしい」は、もともと生活感情を本質な土壌とする価値秩序です。

 ゲームが一元化し、それが一極集中するほど、この人間的価値審級は生活の中で生き生きと働かないで窒息する。これがいつでも、人びとがもっとも社会を息苦しく、矛盾に満ちたものと考えることの源泉なのです。

 つまり、こんなことではないでしょうか。われわれはいまの資本主義社会をかなりマネーゲームに極限化されたゲームしかと感じている。あらゆる価値が、社会生活の成功、不成功ということに還元されてしまう。成功した人、しそうな人が「男性的」価値を代表し、これに対応して女性ではエロス価値が無意識裡に中心化させられる。男も女も、世俗的成功や美人、不美人であるかどうかだけが価値だとされたら、この基準からもれる七、八割の人間にとって、そんな社会は息苦しいにきまっています。そこで、いっそ美醜や、能力の優劣自体を無化したいという観念が生じるわけです。「絶対平等」理念がその受け皿になる。でも、それは転倒した反動形成です。その考えは結局、人間の個体差やエロス性自体を否認することに行き着くからです。この問題を克服する方向は、実現不可能な絶対平等を求めることではなくて、社会ゲームのルール一元化を多極化すること、それから社会的成功と不成功の流動性を高めることです。いま社会の矛盾の意識はもともとルールの極限化からきているので、これをまず相対化して、ゆるめていくことが大事な方向だと思います。


伏見  ミスコンとかは、ほかのアイテム、価値序列との関係からすると、多元化をうながすという見方もできるけれど、「美」という世界の中では、その一元化を推し進めているということにはならないんですか。

竹田  ぼくはよく言うんですが、セクハラ反対はとても正当な異議申し立てですが、ミスコン[反対]は考え違いです。簡単にいうと、セクハラは、人間が互いに相手の人間としての「自由」自己決定権限を認めあうとい近代社会の基本ルールを完全に違反している。これはふたつのことを利用している。会社や組織の中での権力関係と、男と女の潜在的な体力的差です。セクハラにも自分は反撃されないという「ずるさ」と「みにくさ」がある。ところが、ミスコンは過剰防衛です。

 市民社会の基本原則として、「美」を競い合いたいという人がいたとしたら、そういうのは原則的に許されないといけない。もしミスコンが、差別的な意図でなされているとしたらそれはもちろんだめですよ。でも、いまある多くのミスコンというのは、まずは、自分の容姿を一つの武器として社会的な成功ゲームに参加したいという人のゲームですね。それは認められなければならない。それを禁止する権利は誰にもないのです。ミスコンが他人の痛みを利用してアイデンティティ補償や、心理的優位を確保するものであれば、それは禁止されないといけない。でも、この社会では、誰でも自分なりのアイテムで社会のゲームに参加できる、というのが自由な市民社会原則だからです。


伏見  たとえば、ミスコンがあることの裏返しとして、「ブス」のほうに分類される人が、そのことによって傷つくとか、不快感を感じると主張した場合、その主張はどのように受け止めたらよいのですか。

竹田  それはしょうがないです(笑)。気持ちはわかりますが、その主張は正当性を持ちません。

伏見  その不快感は正当性を持たないんですか。

竹田  不快感を持つのはいいんです。男ならだれでも、あんまりもてるやつをみると腹が立つ(笑)。しかし「だからやってはいけない」という意見は、公共性を持ちません。つまり相手のなにを認め合うか、どういうことが認められないか、という原則から考えないといけないのです。その相手が、他人を傷つけるためにやってるなら、それは公共的に許されない。「差別」は、出自、宗教、信条、その他の属辞によって差別しないという市民社会の基本ルール、基本モラルに違反するからです。でも他人が自分たちでゲームを作って楽しんでるものを、自分の価値感情から不快だからと言ってやめさせることはできません。それを主張したいなら、ミスコンというゲームが、不美人の人たちの基本的な人権を侵しているという事実を明らかにすることが必要になります。それは無理でしょう。


伏見  そのゲームの価値の中から排除されるということは、ゲーム自体を否定する根拠にはならないんですね。

竹田  その通りです。美人というのは、いつの時代でも、美の一般規範つまりラング(=言葉の辞書的な意味)みたいなものですね。でも人間はこの言葉の一般規範(ラング)を使って、言葉を自分固有の意味を伝えるものとして使っている。それと同じで、人間の美しさというものは、そういう一般的、世間的な「美人」の価値とは必ずしもぴったり同じでない。あんまりモテない人も、どこかでこれぞ自分の相手だと思えるような人に出会ったりするということもある。またモテる人が必ず幸わせに生きているわけでもない。それが人間生活のじっさいの様相で、生活には一般規範的通念にはない多義性があるわけです。自分はいまの世の中の通念的な美的価値からはずれている。だからその美的価値自体をなしにしてしまいたいと思うとしたら、それは、その人の価値観が世間的な美の一般規範に同化されているからで、あんまりさわやかではない。他のアイテムではなくて、一般的美人性によって、社会のゲームの中に参加したいという人たちのゲームを反対する正当な理由は、だから、ただ面白くない気持ちは分かるという以外にはないわけです。気をつけないといけないのは、美醜の秩序が悪の根源で、これを廃止すべきであり、そういう考えに反対する人間は反動的人間だと考える人がいるとすれば、それは極めて危険な考えだということです。それは自由な市民社会の原則への違反だし、思想の形としては全体主義的です。


5. 外見による就職差別をどう考えるのか


伏見  男性が女性に対して「おまえはブスだから」というのは、差別だということでしたが、たとえば、誰かと向かい合ったときに、瞬間的に「気持ち悪い」とか「怖い」という気持ちが生じるようなことがあったとします。そういうことはどうでしょうか。

竹田  たとえば、あまり慣れない人が重度の身体障害者の外見を見て、なんとなく変だとか気持ち悪いとか感じたとして、それ自体はある程度仕方がないことです。でももちろんその「気持ちの悪さ」の感じがどこから来ていて、どういう意味をもっているかを考えてみることは、よい機会だと思います。ある見慣れないものを見て、不安や不快を感じることは、身体性の問題なのでそれ自体はどうしようもない。でも、つぎにこの気持ちをそのまま表現すれば相手が傷つくということくらいは、ある程度成長した人間なら分かることですね。

 だから、誰かがそういう気持ちをもったときに、それは「間違っている」などと言わない方がいい。それは、差別問題に変な罪悪感やおびえをもたらすだけです。差別問題でいちばん大事なのは、その問題を「聖化」してはいけないということです。なぜなら、つい差別したり、されたりするということは、誰でももっている生活のなかの普遍的感情です。これを誰でもが自分の問題として考えることが、この社会の中でのルールやモラルの問題を考える基本なんですね。ですから、要は、不快感をもったことがいけないのではなくて、それを無遠慮に表明してしまうのが人間としてよい態度だと言えない、ということです。それから、身障者の人たちとつき合っているうちに、だんだんそのそういう「不快感」や「嫌悪感」はなくなってくる。そういう経験があれば、はじめの「不快感」や「嫌悪感」は絶対的でないということが分かってくる。そういう経験が大事なんですね。


伏見  就職などで、「ブス」より「美人」のほうが優先されることがままあると僕は聞くんですが、そういうことで排除されることは差別になるんですか。

竹田  そういう判定官がいるとしたら、それは会社に対しての背任行為ですね(笑)。つまり、会社のために必要な人材をとらないで、自分の趣味で美人を選んでるわけですから。

伏見  でも、サービス業などで、たとえば、ウエイトレスは注文を受け、注文された品物を配るという行為においては美醜は関係ないにしても、その人の美しさが集客に貢献するというようなことが期待される場合もあるわけですよね。

竹田  それはもちろんありますね。そういう場合は、なるべく美しい人を採るということが基準で、仕事の上でそういうことが社会通念として認められている限り差別的と考える理由はありません。

伏見  ということは、そこのところの線引きというのはどのように考えればいいのでしょうか。社会通念として、水商売だったら外見の「美しさ」が採用でのポイントとして認められるとか、ウエイトレスまではしようがないとか、では、フライトアテンダントならどうだとか。

竹田  社会通念というのは、たとえば、誰が考えても、こういうところには美しい人を置いたほうが商売上よいと判断するだろう、ということですね。しかし「ウエイトレスは必ず美人であるべきだ」というような社会通念は、それほど説得力はない。ただ嫌密な線引きは出来ないでしょうね。

伏見  今回の特集で、外見が変形している方などの就職難の問題が出たんです。悲しいことですが、悪意がなくても、こちらがあまり快とは感じられない外形というのあるわけですよね。就職でそのことで評価を得られないというような状況を、どういうふうに考えていったらいいのか、と。

竹田  それは やはり市民社会の成熟度の問題だと思います。市民社会の大原則は「自由」の相互承認ということですが、これは、単に何でもしていいという「自由」を認めあうことではない。人間の「自由」の本質は、先ほど言ったように各人が自己の精神の「無限性」を自覚しているということであり、それがまた他者もまた自分と同じく精神の「無限性」をもった存在であるという了解の可能性になっている。いまの感覚からは、たとえば、黒人だから、精神的に劣った存在だ、という無意識的観念をもっている人は大分少なくなった。エレファントマンという映画があったけれど、はじめの反応は、彼を人間でない「怪物」のような存在と受け取る人もいたかも知れない。でも、各人の自分の「自由」や「無限性」の自覚が成熟していくなら、多くの人が、そういう人間もまた人間であり、したがって、どのような苦しみの中で生きているのかという内面の無限性への共感を自然にもてるようになる。市民社会は、そういう可能性を展開させていくような社会の原理のうちにあるわけです。

 逆に考えてみましょう。われわれはしばしば、「われわれ」と「かれら」という枠組みをもって他人を見る。古典的な「白人」は、「黒人」を「われわれ」とは違った「かれら」と感じ、自分たちのメンバーシップの内部で認めあっている人間としての尊厳を認めない。「あいつら」は、所詮「クロ」だ、とか「チャンコロ」だ、とか「毛唐」だ、と言うとき、人びとは、相手を自由と尊厳をもった「人間」として認めていないわけです。何かそうさせているのか。そういうことが長く続いてきた根本の理由は何か。第一にあげるべきは、「共同体」の内的な求心力ということです。人類にとって共同体は普遍的な存在です。人間は言語とか宗教とか、いろんな理由で、さまざまな共同体に別れて生きてきた。

 共同体は相互の不安から、つねに求心力を高めようとする。だからまた、つねに共同体アイデンティティというものを必要とする。それが、人間を、「われわれ」と「あいつら」として分け隔てる考えの源泉です。ただ人間は、古代から、人間であるかぎりみな同じである、という思想自体は持っていた。仏教でもキリスト教とかいう世界宗教は、その観念のはじめの発明者だった。それでも、この考えは、二〇世紀にいたるまで、普遍的にはなっていない。共同体どうしの軋轢の原理がまだ充分克服されていないからです。市民社会の原理は、世界宗教のような単なる理念ではなく、はじめにこれを克服する原理的プランを出した。それが、各人の共同体への属性は趣味的なこととして相互承認しあって、社会人としては、出自、宗教、信条、民族、言語かかわりなく、同じ尊厳をもった対等な人間として認めあう、という原則です。この原則は、べつに理想的な絵空事というのではないんですね。人間は市民社会の中でさまざまな意味での「自由」を実現する。そのことは、自己存在の「自由」のより深い自覚を育てる。そのことが必ずまた、他者の「自由」、つまり他者もまた、精神の無限性をもって生きているということへの共感を必ずはぐくむはずだ、という理路になっている。いまさかんに各人の「自己決定」の権利ということが言われているようですが、たいていかなり無限定な原則でいわれていると思います。人間はもともと「自由」なんだという言い方に近い。でもほんとうは、その内実はいま言ったようなことです。

 ですから、まだまだいまの資本主義社会は、競争原理の激しすぎる社会で、就職一つをとっても、少しでも他人より劣ったアイテムをもっていたら、け落とされるということがある。でも、市民社会の原則が成熟していくに応じて、世の中にはさまざまな能力や個体差をもってさまざまな人間がいるが、社会は、どんな人間でも、それなりに楽しく生きていけるような場所であったほうがよい、という感覚が育っていく。共同体的観念は相対化され、「われわれ」と「あいつら」という枠組みは希薄になっていく。そういうことが社会が成熟していくプロセスの軸ですね。

 それが、これも、現在なかなかそうならないという苛立ちから、「絶対平等」の路線で考えると、美醜や能力の秩序自体が不平等の原因だから、それをなくすべき、という発想になるわけです。でもそれは、よい思考法とはいえない。

 たとえば、ある経営者が、ウエイトレスはやっぱり美人のほうが儲かると考え、多少コストをかけてそういう人を採用したとする。それを差別だということは妥当でない。そんなことを言い始めると、しまいに職種の違い自体が差別的だということに必ずなります。価値秩序の無化ということではなくて、多元化ということがこの問題の原理です。価値の多元化というのは、一般的にはいままでは不利だと思われていた人でも、いろいろな場所で自分なりの特性を発揮できる多くのオプションがある、ということです。[ですから、この問題の]指針はこうです。その批判の原則が、いまの市民社会や資本主義を完全に否定して、まったくユートピア的な社会をめがけるような批判か、いまの市民社会のルール原理を成熟させて、「自由」の相互承認をより深いものにしていくような批判かということですね。


6. 「性的弱者」は社会的に解決されるべき問題


伏見  「性的弱者」という言い方が最近はありますが、それは社会的に解決される問題なのでしょうか。

竹田  「性的弱者」をエロスな弱者ととって、ある局面では社会的に解決されうる面がある。まず一つは、不美人というのは50年ぐらい経ったら、整形施術の進歩によってそうとう解消される問題だと思います。それに、美人不美人の問題は競争ではない。そういうのは、一般規範におもねりすぎです。要するに女性から言えば、男性が「この人はステキだな」と感じる魅力が多少あればそれでいいからです。エロス的な引きつけの力がぜんぜんないと、その人は他者とエロティシズムを与えあう機会から阻害されている。もっとモテたいなどというのは趣味ですが、性的なエロスを与えあうというそういう機会均等は、一般的にできるだけ広げられたほうがいい。でも、たとえば、30年前といまと比べると、女性のエロス的な魅力度は格段に上がってると思いますね。つまり、昔は、ちょっと魅力があるなと思える女性は、若い女性で、三割足らずで、いまは四割くらいになってるような気がします。女性的魅力一般を否認するのではなくて、整形施術でも何でも使って、人が愛しあえる入り口を広げることが妥当な考え方ですね。

 あと、いまは売春と言われていることですが……これも、よく男性の性行動の問題だという言い方がされているけれど、それはまったくピントがはずれている。いま援助交際ということが言われていますね。その内面的な問題は別として言うと、これは売春の成熟形態です。つまりそれは、よい方向に変化しているものと言えます。というのは「売春」というのは、根本的には、男性の性欲望と女性の性欲望の形態的な不一致から生じているものです。簡単にいえば、一夫多妻制か多夫一妻制があって、これが閉鎖システムでなければ、つまり重なってもいいなら、売春というものは存在しえません。どちらかの性を中心にして、複数の相手と、閉鎖的にではなく交渉しあえるなら、売春の必要はないわけです。

 でも、そういう開放形の性関係のルールは歴史的にはほとんどなかった。その理由はもちろん財産や富の配分の制限から来ているわけです。一夫多妻制は、財産が長子だけに限定的に受け継がれるというようなシステムの中でだけ可能です。

 一夫一婦制というのは、中世のキリスト教的な封建社会の秩序の中では比較的はまったルールだった。それは、性の欲望を最小に限定して、大多数の人間の拡大再生産的でない財産形態に適合している。しかし近代社会になって個が解放されると、性欲というものも解放された。それは、言葉や観念によって解放されたということではなくて、社会構造の変化によって、恋愛の欲望も性の欲望も解放されたわけです。観念的にそれは「ロマンティック・イデオロギー」だとか呑気なことを言ってる人もいますが、下部構造の変化が人間の欲望の全般的な変化をもたらしたので、単なる幻想とかいうようなものではありません。

 人間の欲望は幻想的な欲望であって、通路が開かれると欲望の力動性が生じる。エロス、つまり美的対象は、人間の感情のリリシズムを喚起するようなものであって、「聖なるものの威力と絶対性」を失った近代の人間にとって、もはやそれなしでは生きていけない新しい希求の対象となった。ところが男女の性的なルールは、昔のままでなかなか変化しない。プロテスタントで、聖職者の結婚や、ふつうの人の離婚のルールが変化したのは、そういう対応の一つですが、それはそれほど根本的には起こらなかった。要するに、男女の性的な欲望の不均衡、格差は、近代になって特に男性の欲望が解放されたために、一挙に大きくなった。都市における「売春」の蔓延はその結果です。

 でいまの、援助交際ですが、売春の一形態ではあるけれど、女性が多少男を選べるようなシステムになった。これは、女性の生活能力が一般的に向上したことと、女性自体の性欲求が自覚され承認されたことによるわけです。売春の行為がともかくも「自己決定」的な要素として可能になってきた、ということは方向としてはよいことと言わざるをえない。また「売春」を一般的に倫理的な「悪」の問題として語るのは、やはりピントがずれている。それは男女の性欲望の不均衡から生じるので、これを少しずつでも解消できないかぎり「売春」はなくならない。そして、それは社会における性の慣習的、制度的ルール一般の問題です。

 もちろん世の中は不平等にできているので、いくらでもモテる人もいれば、全然モテない人もいる。しかし、考え方としては、できるだけ多くの人がエロス的な欲求を満たす機会が与えられるという方向が妥当です。売春は男の不純な性欲に原因があるとか、ふしだらな女の性行動に問題がある、などと考える人がいるとすれば、それは他者への無理解によるのです。近代社会は人間の性欲望を普遍的に解放した。いままでの性のルールの中で、性欲求の不均衡は飛躍的に大きくなった。多くの人間がその「自由」を侵害されないような仕方で、少しずつルールを変えたり機会を広げたりする必要があるわけです。「売春」を倫理的問題と捉えるかぎり、人間の性衝動自体を敵視したり、そのエロス的対象である「美醜」の価値を敵視したりという、奇怪な方向に考え方がずれていくことになります。

 ちなみに、人類は16世紀から20世紀までは、富の分配が最大の問題になっていました(それまでは、宗教的権威の正統性を作り上げることがもっとも大事な問題だった)21世紀からは、富の分配の問題はまだまだ続きますが、エロスの分配の問題というのが、つぎに現われる中心問題になると思います。いまの日本の状況は、そういう徴候をはっきり示している。しかしこれはあくまでもルール形成の問題なんですね。


伏見  わかりました。本日は長い時間、どうもありがとうございました。

所収:『QUEER JAPAN Vol.3』竹田青嗣インタビュー 美醜とは人間にとって何か (勁草書房)2000年10月発行


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