最新講演録
竹田です。肩書きには文芸評論家とありますが、四年くらい前から考えるところがあって、文芸評論を少し休業にして、ここのところずっと哲学をやっています。
武田さんとは少しおつき合いがあって、この真宗の教学の研究会での話を依頼されたんですが、私が哲学で、ずっと考えているようなことが、はたしてどのくらいここで役に立つのかということはそれほどよく分かりません。しかし、日本の宗教史の中で真宗というものが果たした大きな役割は、ヨーロッパの歴史の中で、人文主義、宗教改革、啓蒙思想、近代哲学といったもの果たした重要な役割と当然類比的に考えられるところがあると思います。歴史の中で時代が大きく動くとき、人間の新しい新しい苦しみというものが生じ、それが非常に大きくなっていくということがある。するとどうしても新しい考え方が生まれなくてはならない。法然や親鸞もそういう形で出てきた思想家であって、それは宗教という形をとってはいるけれど、私から見るとそれは大きな時代思想という形で見えるわけです。 私は日本思想について専門的にしゃべる資格はないわけのですが、ヨーロッパ思想の全般像に関しては、一応専門分野なので、ヨーロッパの中で同じような問題が出てきたときにどういう考え方が出てきたのかということについては、お話ができると思います。 一つ大きな輪郭を言いますと、ヨーロッパの近代思想の焦点というのは二つあって、それまでキリスト教の教義論的な権威、あるいは権力と国家権力とが合わさってヨーロッパの身分社会や封建社会を作っていたわけですが、社会的、経済的な事情がどんどん動いて、人間の新しい苦しみが始まった。つまり、新しい社会の形を何としてでも作らなくてはいけないという要求が出てきて、結局、ヨーロッパの市民社会型の社会が出てくることになるわけです。要するに、それまでの社会、あるいは世界に対する考え方を全て新しく作り直す必要にせまられたわけです。 キリスト教というのは長い歴史を持っていて、非常に大きな知の体系を作り上げていたために、なかなか一筋縄ではいかなくて、新しい社会思想というのは非常に大きな力技を要した。近代のヨーロッパの思想というのは、そういう時代を動かす社会思想だったというのが一つの大きな特質です。それは一方で、「社会」についての従来の概念をまったく書き換える必要があっただけでなく、「人間」とは何か、ということについても、伝統的なキリスト教的な概念を全てひっくり返してしまった。全部やり直したわけです。 その要点をひとことで言えば、それまで「人間」とは要するに、被造物であった。神が創ったものだったわけです。それを各人が「自由」と「尊厳」をもった「個人」であるという考え方に書き換えた。まさしくこれも人間概念のコペルニクス的な転回と言えるものでした。 ヨーロッパの近代の歴史というのは、大きく言って、人々が徐々に、どんな人間も自由な存在であるということを自覚していき、それを現実社会の中で実現化していく過程だったと言えます。もちろん、この自由にはいろんなレベルがあります。一番、素朴なレベルでは移動の自由だったり、所有の自由だったり、職業選択の自由であったり、それから政治的な諸権利が出てきます。そこからだんだん精神的な自由に至るわけですが、そういったさまざまな意味での自由を実現しようとして、一筋縄ではいかない長い戦いが行われたプロセスだと言えます。啓蒙思想、近代哲学 実証科学などの潮流は、すべてこの人間の自由の現実化の条件ということにかかわっているのです。 もう一つ大きな問題があります。人間の自由というものが自覚され、それが徐々に実現していく過程で、それまで人間を規定していた古い倫理的な意味というものが必然的に解体されていくことになる。ある意味で自由が社会の中で少しずつ実現していくその程度に応じて、もう一方では人間の生の意味、あるいは倫理の根拠といったものは解体していく。そういうことがことが起こってくるわけです。十九世紀の終わりにニーチェがこれをヨーロッパのニヒリズムと呼びましたが、この人間の意味の問題をどう考えるかということが、ヨーロッパの哲学思想の、これはまったく新しいテーマとして浮かび上がってきます。各人の「自由」を実現していくというのがヨーロッパ近代社会の大きな道筋であったとすると、これと呼応して人間の生の意味は曖昧になり、希薄になり解体していく。これを何かの形で保証し、後ろ盾を作っていかなくてはいけないということです。そこで新しい社会の思想と同時に、人間についての新しい思想というものが現われなければならなかった。この二つのフレームワークで考えると、ヨーロッパ思想の大きな骨組みがほぼ明瞭になります。 それで、最近自分が最も興味を持っていることで、この近代の「人間」思想の努力の一つ代表として、近代哲学者たちの「倫理」についての理論ということを取り上げてみたい、というのが今日の骨子です。とくにヘーゲルの「良心」という考えを中心にしてお話してみたいと思っています。 ヘーゲルという哲学者は、近代哲学最大の哲学者という評価はほぼ定まっているんですが、現代思想の中ではすっかり悪者になっていて、ほとんど見捨てられています。どういうふうに見捨てられているかというと、ヘーゲルというのは、ヨーロッパの近代国家のナショナリズムの完成者であるという評価が一つ。つまり、国家主義的イデオロギーを擁護する哲学者だという評価です。それから悪しきドイツ観念論の完成者であるという評価がもうひとつの柱です。ドイツ観念論というのは、例えば、フィヒテやシェリングやヤコービ、また、シュライエルマッハーなど人が有名ですが、あまり喜ばしいものではない。簡単に言いますと、ヨーロッパ近代思想、ヨーロッパの実証哲学に対する一種の反動的ロマン主義思想です。科学思想や現代哲学を伝統的な精神主義や神学的思想と統合しようとするような、そういう思考です。ヘーゲルはその最後の完成者であるとみなされている。たとえば、ヘーゲルは、論理学と自然哲学と精神哲学という三つの柱を作って、その全体を汎神論的に統一した人だと一般的には言われています。こういうヘーゲル像は、私も若い時からずっと教えられてきたもので、今でもほとんどの人がそう思っている。私の信頼すべき友人なども、そう言う人が多い。しかし私はここ五、六年ほどの間、少し機会があって同僚の西研とヘーゲルをずっと読み直して来ましたが、そのようなヘーゲル像はきわめて誤解に満ちたもので、ヘーゲルはほとんど理解されていない、というのが強い印象です。 ヘーゲルが大きく誤解されているには、それなりの理由があります。まず異様に難解な文体。当時の哲学の全体体系と弁証法的三段論法の文法。そして、ヘーゲルが擁護しようとしたドイツ国家が、その後典型的な近代ナショナリズム国家‐ファシズム国家に進んでいったことです。ヘーゲルはドイツ国家がそうであったような絶対主義思想、全体主義思想の擁護者だというイメージが、主にフランス現代思想のヘーゲル解釈から広まって、あとはマルクス主義が全盛になる中、誰もヘーゲルを本気で読む人がいなくなったということがあると思います。しかし今日は、ヘーゲル解釈の誤りについて論証するのがテーマでないので、とりあえず、これまで言われているのとはぜんぜん違った形で、ヘーゲル思想について話すことになります。西‐竹田解釈によるヘーゲルと考えていただいて結構です。 ただ、少しだけ言っておくと、ヨーロッパの現代思想つまりポストモダン思想は、ヘーゲル‐マルクス主義と続いて来たヨーロッパ思想の正統を、自分たちが乗り超えるという意識で新しい仕事をしました。しかし彼らがヘーゲルを完全に誤解しているとしたらやっかいです。私の考えでは、ポストモダン思想はヘーゲルを乗り超えるどころか、反対でヘーゲルの考えのほうがポストモダン思想の限界を克服する原理を持っている。でもそのことはまだほとんど理解されていないという状態だと思います。 まず、ヘーゲルという哲学者の全体像を少し喋ってみます。さっき言ったようにヘーゲルにはいろんな悪評がついて回っていますが、その一つは、ヘーゲルは知的な形而上学主義者であって「絶対知」すなわち「完全な知のあり方」が存在する、と主張している、という意見です。これはフランスのヘーゲル学者コジェーヴなどが盛んに流布した像です。ヘーゲルでは、個々の知識は完全な全体というものがあって意味をもつ。全体についての完全な知が個々の「真理」を規定している、というのです。論理学者のラッセルなどもこういうヘーゲル像の代表的な吹聴者です。これはヘーゲルにもそう思われる理由がある。彼の論理学の体系、哲学の体系全体がそんなふうな感覚を持たせるように作られている。もう一つは、ヘーゲルの「絶対知」とか「絶対本質」とかいった大仰なターミノロジーです。でも実際にヘーゲルの言っていることを理解してみると、ヘーゲルはそのような考え方の持ち主では、ぜんぜんないことが分かります。 たとえば弁証法という有名な考え方があります。これは形式論理学に対抗してヘーゲル独自の思考の技術として立てられたものです。これをかみ砕いて言うとこんな感じになります。まず、われわれは大昔から「真理」というものを、何か絶対的で、完全な存在としてイメージする自然な傾向がある。言葉を厳密に使えばいつか必ずこの完全な真理に到達できるはずだ、と。これは根本的に間違った考え。また、この反動形態の一つとして、「真理」というものはもちろん存在するけれど、決して言葉では表現できないものだ、というイメージが出てくる。両者はペアである。どちらも完全で絶対的な真理=事実というものを暗黙のうちに想定している。 ヘーゲルの言い方では、「真理」とは(そのようなどこかに存在している「絶対的な真実」といったものではなく)、ただ「言葉の運動」(概念の運動)の中でだけ生まれ出てくる。弁証法は「テーゼ」→「アンチテーゼ」→「ジンテーゼ」という動き(運動)の形を取ります。これはどういうことか。誰かがあることがらに関して、万物の原理は「水」だ、と言ってみる。するとこの「テーゼ」が言われ、表現されたことで、この言葉がもっている不十分性や矛盾が意識されるようになる。すると新しい「テーゼ」が持ち出される(万物の原理は「無限なるもの」だ)すると、両者は言葉の上で対立する。この対立や矛盾が意識されて、さらにそれを克服する新しい原理(キーワード)が提出される。そのような言葉の運動を通して、われわれは少しずつ世界の理解というものを、深く豊かなものにしていく。弁証法とはこのような発想のものであって、それが形式論理学に対立するものとして提出されたのは、きわめて本質的なことです。現代思想や現代分析哲学ではいまだに形式論理による分析が基本方法ですし(メタ論理学というべきものになっている)、ヘーゲルの主意はほとんど理解されていません。 ヘーゲルの「真理」の考え方は、近代認識論における、ニーチェ‐フッサールによる「反=客観認識主義」の根本的転回を十分にくぐったものでないため、「真理」概念がややあいまいです。しかし、「真理」を事実=真実に対応するものでないという明確な自覚、それが言葉の運動による共通了解の創出であるという自覚において、画期的なものと言えるのです。ヘーゲルが絶対真理主義であるという主張は、ヘーゲルの弁証法の本質からはまったく背理的な言い分です。 つぎに「絶対知」という考え方。この術語は、たしかにヘーゲルは、ある最終的な絶対的な知のあり方を想定しているという主張をそれらしいものに見せています。しかし、これもひとことで言うと、ヘーゲルの「絶対知」という術語は、近代思想における、啓蒙的精神と信仰的精神の「統合」、相互承認ということを意味しているにすぎません。啓蒙的精神は、近代の啓蒙主義、合理主義、実証主義(フランス・イギリス中心)の考えを指しており、信仰的精神は、そのリアクションとして現われた、ドイツロマン派やドイツ観念論の思潮を暗に示唆しています。前者は、唯物論的かつ理性主義的ですが、後者は唯心論的で精神主義的、ロマン主義的です。ヘーゲルは、近代におけるこれら二つの思潮にはそれぞれの理由があり表面上対立しあっているが、両者の和解と総合が可能だと考えていました。この総合の可能性を象徴するのが「絶対知」の概念ですが、これは彼の弁証法の考えからいうと自然な流れです。 近代思想としてのヘーゲル思想には、言われているような絶対的「形而上学」も、「絶対真理」的考えもまったく見出すことができません。その代わりに彼は、近代的な人間概念を、徹底的に新しい「原理」で編み直しました。 まず一つ言うと、彼の目のつけどころで大事なのは、社会というものを、徹底的に関係の網の目として捉えようとした点です。社会関係というのは、すべて人間の関係の網の目であって、もっと言えば承認の網の目であると。人間どうしが相互にさまざまなことを承認していく、認め合っていく、この承認の網の目が社会関係であるという考え方を出した。 これは彼の『精神現象学』を読み進んでいくと強く印象づけられることです。人間ははじめは自分自身を「自由」な存在だと思っていない。共同体は宗教や神を生み出すが、それは自分の内的な本質を、外的な実在物として見ているだけである。やがて人間は、自分の本質を「自由」な存在として少しずつ自覚しはじめる。その自覚はすぐにはやってこない。それは例えば、ローマ的市民の考えや、神のもとに万人は平等というキリスト教(世界宗教、啓示宗教)の形をとる。 ヘーゲルの考えでは、人間の歴史は、人間同士が徐々に、人間にはさまざまな能力の差はあるが、にもかかわらず、人間それ自身としては、互いに独立した自由な個人であることを認め合う、つまりメンバーシップを確認しあうというプロセスだと考えるのがいい。その承認の網の目がだんだん広がっていくというのが歴史の進展の意味であって、それこそが歴史の最も中心的な意味だ、という考え方を提出したわけです。事実としてではなく、社会の考え方の原理としてです。そしてこの考え方は、たしかに非常に普遍的な意味を持っていると思えます。 大事なのはここでヘーゲルが、社会や歴史が事実としてどのようなものかではなく、社会というものをどう考えればいいかについての、一つの考え方の原理をはっきり提出しているということです。ヘーゲルの考え方では、これは、人間とは何かという原理をまず設定し、そこから社会関係の原理にはせ登っていくという仕方で進んでいくのがよいということです。 ヘーゲルは、人間は本来自由だというのではない、むしろ「自由たろうと求める本性」を持っているのだ、と考える。人間は本来自由だという考え方は、近代思想では非常にポピュラーな考え方です。初期啓蒙主義から社会主義、アナキズムに至るまで、人間というのは本来自由な存在だという考え方が非常に幅広くある。現在で相当あります。ヘーゲルは、そういう近代思想の「自由」についての考え方の中で、ひときわ光彩を放っている。 人間は本来自由だとは言えないが、人間の精神のあり方の本質が自由なんだと言うんです。 じつは、人間精神が自由への本性を持っているために、人間社会独自の支配=隷属関係、権力関係が生まれる。しかし同じその本性が、人間社会をして徐々に各人の自由を実現する方向へと推し進めてきた。歴史の大きな流れを見ると、そう考えるのが妥当であることがよく分かる。そういう言い方です。歴史とは、人間関係という経験の総体的な流れである。人間は直ちに平等で平和な社会を作り上げるほど賢くもないが、しかし歴史という大きな経験の流れの中で、なんとか各人の自由を少しずつ確保していくほどの知恵は持っていた。近代の共和制や市民社会の考え方は、そういう長く苦い経験の大きな成果であって、各人による自由の相互承認という考え方こそ、人間どうしが互いに自由を確保する原理的な考えであることの自覚の表明である、と。 もう一つ、ヘーゲルで非常に興味深いのは、人間の生の目標といいますか、生の意味と言いますか、そのような問題についても早くから問題意識を持っていて、これを人間の精神の本性は何か、という形で考えている。これに対するヘーゲルの解答は「絶対本質 das absolute Wesen 」という言葉で示されています。 これは非常に誤解を呼ぶ言葉で、また実際に誤解をずっと招いている。スタンダードである金子武蔵の日本語訳では「絶対実在」という訳になっていて、さらに理解しにくくなっている。「絶対知」にしても「絶対本質」にしても、何か絶対ということが強調されすぎてしまうんですね。「絶対本質」という言葉を、どう言い換えればいいのかということを暫く考えていたんですが、一番適切な言い換えは「ほんとう」とか「超越」という言葉ではないかと思います。 これは『精神現象学』という書物の中心的なテーマでもある。ヘーゲルによれば、人間の精神はあくまで「自己意識の自由」という基礎を持っていて、誰もが自分の、また自己価値の自由なあり方を求めて生きている。それは世俗的には立身出世や金銭欲や支配欲、権力欲などの形をとる。また歴史的には、社会システムの徐々なる変化として現象する。しかしもう一方で、見逃せないことがある。人間の自己意識への自由は、ほんとうの自分の存在理由、存在価値といったものを目がけてもいる。これは、歴史的には、芸術、文化、宗教といった形式をとる。とくに重要なのは宗教である。宗教はヨーロッパでは、キリスト教絶対主義の形をとりました。だからそれは理念としては形而上学的神学の理念として表現されてきた。近代の合理主義や実証主義は、これを蒙昧なものとして捨ててうまおうとしけれど、それはゆきすぎである。宗教の本質は、自分を何かほんとうのもの、至上のものに一致させたいという人間の自然な欲望の現われである。そこには人間の本質が啓蒙主義的な仕方とはべつの形で表現されている。こうしてヘーゲルは、「自己意識の自由」という契機と「絶対本質」(超越)という契機をつなげようとします。ここがヘーゲルの際立った独創と言ってよいと思います。
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