講座報告「現象学的心理学の可能性V」

講師:竹田青嗣・山竹伸二(at朝日カルチャー横浜 2010/07/17 Sat. 15:3020:00 )
報告者:小井沼広嗣


半年に一回のペースで開講されている心理学講座の最終回。その講座の内容を、以下のアウトラインに沿って、ご紹介いたします。残念ながら今回、講座に参加できなかった方々にも、その内容をお伝えできれば、と思います。(なお、要約の都合上、ここでの報告は実際行われた講義の流れとは若干異なっていることをお断りしておきます。)


一、従来の現象学的心理学の諸理論の解説とその評価(山竹講師)
二、フッサール現象学の方法的核心である「現象学的還元」「本質観取」の解説(竹田講師)
三、「心」という対象認識の本質論、とりわけエロス的身体論について(竹田講師)
四、心理療法の諸理論の解説と、心理的治療の共通原理について(山竹講師)


【一、現象学的心理学の諸理論(山竹)】

〈現代の心理学の諸潮流〉
現代の心理学の潮流は、「実証的心理学」「深層心理学」「現象学的心理学」と、三つに大別することができる。歴史をひも解くと、まず、20世紀の前半は、フロイトの影響のもと、深層心理学が圧倒的に強かった。けれども後半になると、深層心理学の旗色が次第に悪くなる。その理由としては、(無意識の概念に基づく)仮説がちっとも検証されないことと、治療の精度が必ずしも向上しなかったこと、が挙げられる。深層心理学にかわって興隆したのが実証的心理学だが、それに少し遅れて「第三の立場」として登場したのが現象学的心理学である。とはいえ依然、実証的心理学と深層心理学が心理学の二代潮流で、現象学的心理学はマイナーだ。

現象学的心理学からすると、実証的心理学に対しては、客観性ばかり重視して個々人の主観や意味の領域を捨象していること、また、精神分析に対しては、検証されない仮説にこだわりすぎていること、フロイトの精神分析は過去決定論に陥っていること、などが批判される。

現象学的なアプローチによる心理学には大きく分けて三つある。@(狭義の)現象学的心理学、A現象学的精神病理学、B現象学的な心理療法。(広義の現象学的心理学はこの三つの総称)

〈@ 現象学的心理学〉
(狭義の)現象学的心理学はジオルジらの現象学的心理学を意味するが、その方法はディルタイらの記述心理学を受け継いでおり、近年さかんに研究されている質的心理学もほぼ同じ方法に基いている。

a)記述心理学:これは、ディルタイやブレンターノが創始したもの。彼らは、自然科学とは異なる仕方での新しい人間科学(精神科学)の必要性を主張した。心理学はその基礎をなすもので、「人間の主観に現れる意味の領域を記述する」、という方法をとった。これが、フッサール現象学の登場につながることとなる。
b)現象学的心理学:キーンやジオルジといった人がこの立場の代表者。とはいえ、彼らにおいては、フッサールの提唱した「超越論的還元」や「本質観取」という方法がしっかり受けとられているとは言いがたい。たとえば、キーンは「本質観取」を、「先入観を排して個人の経験の本質を取り出すこと」といったふうに捉えているし、ジオルジの方法は、「当事者の主観の記述」という意味で、ディルタイ、ブレンターノ流の記述心理学の方法とそれほど変わらない。
c)質的心理学:最も新しい立場ではあるが、その基本の方法はやはり記述心理学的で、「個人の経験の記述」といった性格が強い。

〈A 現象学的精神病理学〉
ヤスパースを先駆として、ミンコフスキーやビンスワンガー、メダルト・ボス、ブランケンブルク、木村敏などがその代表者。彼らの多くはフッサールよりもハイデガーから強い影響を受けており、そのためか、あまり「本質観取」といった言葉を表立っては使わない。けれども、(たとえばブランケンブルクによる分裂病論、木村敏による分裂病者の時間性の解明など、)「本質」分析としてなかなか優れたものも多い。とはいえ、科学的・実証的な研究が主流になるにつれ、現在は単なる古典となりつつあるのが残念なところ。

〈B 現象学的な心理療法(人間性心理学)〉
この立場の特徴は、「どうやったら治るのか」という実践的な態度と、客観主義とは異なり、患者の主観的な意味や価値を重視する点にある。来談者中心療法(ロジャーズ)、フォーカシング(ジェンドリン)、ロゴセラピー(フランクル)などが挙げられる。これらは、「自己への気づき」を重視し、患者のこれまでの考え方を変えることで治療を促そうとする。ここには(後述する)「自己了解」につながる考え方が示されており、一番大事なところが押さえられている。ただし「本当の自分」という考え方がやや実体化されて捉えられている点は問題である。

〈従来の現象学的心理学の評価〉
これまでの現象学的心理学の評価をまとめよう。
まず、評価すべき点としては、
@人間の探求に不可欠な「意味と価値」を主題化したこと(実証科学が切り捨ててきた問題)、
A対象となる人物の主観的世界の理解に一定の貢献をしたこと(質的研究、現象学的精神病理学)、
B心の病に対して一定の治療成果をあげたこと(人間性心理学)。

次に、問題となる点を挙げると、
@「本質直観」(本質観取)への誤解、
A「超越論的(現象学的)還元」への誤解、

という二点になる。たとえば、本質直観については、「患者の内面に対する直観的理解」として捉えられていたりする。けれども、(詳しい解説はこの後、竹田さんの方からなされるが、)本質観取の本義は、個別的な体験の意味を捉えることではなく、共通了解しうる普遍性(=本質)を見出そうとする点にある。だとすると、結局のところ、これまでの現象学的心理学では、本質観取は実際には使われてこなかった、と言える。また、現象学的還元の概念については、対象となる当事者の経験に寄り添うための「先入見の排除」という意味で使われており、こちらも、しっかり理解されているとはいいがたい。


【二、現象学再考(竹田)】

〈本講義のモチーフ〉
そもそもこの講座を開くにいたった動機は次の点にある。今日の現象学的心理学は、「人間の心は実証的にはとらえられない」という自覚から出発し、主観性・関係・意味といったものの重要性を主張している点で、それなりに功績が認められる。けれども、それらの諸理論の多くは、ハイデガー、ガダマー、ポンティなどに依拠しているが、フッサール現象学の方法の土台はしっかり汲み取られておらず、(山竹さんが今、指摘したように)多々混乱が見られる。ハイデガーやポンティが駄目だと言うつもりはまったくないが、現象学の方法の核心部分は、フッサールの提唱した「現象学的還元」と「本質観取」の二方法に凝縮されているので、これがしっかり受け取られれば、現象学的心理学はもっと本質的な展開ができるはずだ、という確信が我々にはあった。

〈現象学的還元〉
まず、現象学的還元とは何か。ここでは還元を、フッサール自身の説明の仕方とは異なるが、「実存的世界」と「客観的世界」という二重の世界像によって示してみたい。

まず、乳児から子ども、子どもから大人への移り変わりを考えてみよう。乳児の生きている世界は、直接経験の世界だけ(たとえば、目の前にあるお母さんのおっぱい)。次に、子どもになると、第一次的・根源的世界のほかに、二次的に形成された世界像が出てくる。たとえば、子どもにとっての直接経験が、いま駒(コマ)で遊んでいることだとすると、彼は、その向こうに自分の家があり学校があることをも知っている。この際、重要なのは、二次的な世界像というのは、経験の蓄積による時間的形成物だということ。

さらに、子どもから大人になると、二次的世界像がさらに拡大する。(たとえば、私は21世紀という時代に、日本という国の東京という場所の一角にいる、といった認識。)ここで重要なのは、こうした子どもから大人への成長の過程で、第一次的世界と第二次的世界との根拠関係に逆転が起きることだ。つまり、第一次的な直接経験の世界は私個人の“主観的な”世界で、二次的世界のほうが確固とした“客観的な”世界として受けとられる、という逆転が起きる。

そこで現象学は、直接世界にたちもどって、いかにして第二次世界が形成されているのかの本質を取り出そうとする。それが還元の意味。だがその際、単に直接世界にもどってそれを記述すればそれでいい、というのではない。というのも、還元にはしっかりした認識論的モチーフがあるからだ。つまり、現象学のモチーフは、各人がいだく客観的世界像についての信念対立を解きほぐすことを目的としているのであり、還元は、そうした信念対立がどこで生じてしまったのかをたどるための方法なのである。

〈本質観取〉
次に本質観取。この方法は一言でいうと、ある概念や経験や事象のうちの「分節秩序」を解明することだといえる。具体的には、それらの意味を自らの主観性に立ち返って内省しつつ、そのなかで他者と共通している部分、「他人も必ずこう受け取っているはずだ」といえる部分を取り出す、ということ。本質観取は、ある「真理」を言い当てることではない。というのも、本質観取は、「共通了解の創出」を目的とした言語ゲームであり、「どういう共通了解を生み出す必要があるか」という目的・観点との相関において、対象の本質を捉える必要があるからだ。

本質観取は、目的相関をもち、また共通了解を作り出していくための大きな方法だということ、このことが今の現象学的心理学ではあまりはっきりと捉えられていない。この点は、これまでの現象学的心理学がわるいというより、むしろ、これから我々が提示していくべき課題だと思う。


【三、「心」という認識対象の本質(竹田)】

〈認識対象の本質論〉

自然科学では客観的認識というのが一般に成立しているのに、人文科学(人間科学)では客観認識、共通了解というのがなかなか成立しない。そのため、心理学や心理療法も今のところ、宗教の宗派のように、どんどん分岐していき、乱立している状態が続いている。そこで、心理療法の原理やその有効性を考えるにあたっては、まず「心」の本質を捉え、その上で方法論を立て直す必要性がある。ここで、私(竹田)が考える「認識対象の本質論」を簡単に紹介したい。

私は認識対象の本質を、その相違にもとづいて、「自然事物」「社会事象」「心」に分類する。そのうち、「心」という対象の独自性は、心が「対象化されるもの」であると同時に、「対象化するその当のもの」だという点にある。心は世界や身体の内部にあるという見方もできるが、逆に、心は世界を作り出しているその根拠、世界経験の主体でもある。心はまずこの二重性から捉える必要がある。

なお、「心は対象化する本質であるがゆえに、それ自体を認識する(=対象化する)ことはできない」といった主張も多々あるが(たとえばフーコー)、そのように考える必要はない。対象化するその“働き”の本質は捉えることはできる。

〈対象化する本質としての「心」〉
私は、対象化する本質としての心を、a)自己意識論、b)関係意識論、c)エロス身体論、という三つの観点で整理したい。

a)自己意識論: 自己意識(自我)の基底は「欲望」にある(なお、この考えの先駆はへーゲル)。自我の欲望の本質は、自己の価値確認の欲望である点にあり、自己価値は、他者の承認を介してしか充たされない。それゆえ、自己の欲望は、「価値確認の欲望⇒承認の欲望⇒他者の欲望」という筋道をとることとなる。また、「自己は欲望である」ことの帰結として、「世界はエロスの対象として立ち現れてくる」ということになる。
b)関係意識論: これは自他の相互規定的関係の本質論ともいえる。最初は親子関係(母子関係)で、親が一方的に与え、子は一方的に受け取る。世界は原初的には「快・不快」によって分節化されるが、親からルールが与えられることで、次第に「よい・わるい」「きれい・汚い」の秩序が形成されていく。こうして、子は、親子関係を介して、規範やルールを内面化していくこととなる。
c)エロス的身体論: これはフロイトの「無意識」に相当する箇所なので、ここでフロイト思想のエッセンスについて列挙しておこう。

〈フロイト思想のエッセンス〉
・人間は性的(エロス的)存在であること。「人間の本質は実存了解にある」と定式化したのはハイデガーだが、フロイトにも同じ洞察 がある。
・人間の「エロス的身体性」は、人間関係(特に親子関係)の時間性の中で形成されるものだということ。
・人間は自分のエロス的身体性の形成過程を意識できないこと。人間は、気がついたらこれこれの欲望や感受性をすでにもっている。だ がそこには生来的なものだけではなく、時間的に形成されたものも含まれている。
・心の病は、欲望や感受性の形成過程の不調の結果として発症すること。
・人間は、この幻想的欲望とエロス性の形成過程を、ただ他者関係のなかでのみ対象化できること。 精神疾患の患者が治療者(分析医 )を必要とするのはこのためで、ここに「精神分析」の意味がある。

〈エロス的身体性〉
(以上のフロイト思想にも示されているとおり、)人間がエロス的な身体性をもつ、というのは、与えられたルールがたまり、内面化されていくということ。たとえば、幼児ははじめ、泣くことで欲求充足をしようとしてするが、やがて、泣くのをがまんして母親から「いい子ね」と言われることに新たな快を見出すようになる。これは、欲望の「中心性」の変容とも言うべきもので、これによって、新しい関係性が創出する。

エロス的身体論は、内面化されたルールがどのように発展していくのか、という観点を可能とする。心の病をエロス的身体論から考えると、他者関係のなかでトラブルを生みやすい身体性が形成されてしまうことに要因が求められる。不安を打ち消そうと、防衛性や攻撃性が非常に強くなる。

ここで、エロス的身体の編み変わりということを、ソシュールを補助線に説明してみたい。ソシュールは人間の言語活動を、ラングとパロールに区別した。ラングとは言語の一般ルールのことで、パロールとは個々の発話行為のこと。両者には弁証法的な相互依存関係がある。一方で、そのつどのパロールが成り立つためには、人々が共通のラングを共有していなければならない。他方で、ラングの妥当性はそれ自体にあるのではなく、個々のパロールを通してのみ示され、維持される。さらに、ここで重要なのは、パロールはラングに規制されながらも、その個々の行為の時間的な積み重ねによって、ラングを少しずつ変化させていくということだ。

同様にして、各人のエロス的身体性は、その当人の思考パターンや欲望、感受性、審美性、道徳性などの土台となっているものだが、それは具体的な他者関係(親子・友人・他者一般)を介して、少しずつ編み変わっていく。このような定式(エロス的身体性〔ラングに対応〕⇔具体的な他者関係〔パロールに対応〕)をおくと、様々な心理治療の方法の有効性をシンプルに捉えることができると思う。たとえば、認知行動療法に有効性があるとしたら、まずルールの自覚、そして具体的に関係態度を変えていくことで身体化されたルールの一般体制を変えていく、というプロセスにその理由を見いだすことができる。


【四、心理的治療に共通原理はあるのか(山竹)

〈心理療法の諸潮流〉

現在、心理療法には多種多様な立場があるが、それらは理論的に対立しつつも、どれも一定の治療成果を挙げている。こうした現状を見て、私が抱いた問題関心は、「一見、理論としてはバラバラで相入れないように見えても、どれも同じ程度の治癒の成功率があるとすれば、共通の原理があるのではないか」ということであった。そこで、まずは心理療法の主な潮流を概観し、その後でそれらの共通原理を考えてみたい。

@深層心理学的方法: フロイトを先駆として、自我心理学・対象関係論・ラカン派・新フロイト主義などに分岐していったが、その基本の発想は、「無意識を自覚化させることで病を治す」という点にある。
A実存主義的方法: この立場は、人間の主観的意味、とりわけ「本当の自己への気づき」を重視する。たとえば、ロジャーズが提唱した来談者中心療法では、精神分析のように分析医が自分の解釈を押しつけるのではなく、患者が“自分で”気づくことを重視している。
B実証科学的方法: 行動療法の発想の基本は、「刺激−反応」の因果関係にある(パブロフの犬の実験がその典型例)。心の病も、ある刺激に対してある反応をとるという条件付けが習慣化されたものなので、その逆の条件づけをすればいい、ということになる。このように、行動療法では患者の主観的な意識の領域が度外視されることになるが、これに対し、患者の心の内面をも考慮に入れて、より効果的に行動療法を推し進めようというのが認知行動療法で、これは今日、最もポピュラーなセラピーとなっている。

以上のように、心理療法には様々な立場があるが、近年ではかつてほどの対立や論争はなく、むしろ、「症状に応じて技法を選択すればいい」といった折衷派も登場してきている。また、心理的治療の共通要因を模索するような動きもでてきており、その走りといえるのがジェローム・フランクという人だ。彼は、自己や世界に対する「意味の変容」(患者の主観的な理解の修正)こそ、種々の心理療法に共通する治癒のプロセスだ、と主張しているが、これはなかなか的を得た洞察だといえる。とはいえ「意味の変容」という言い方だけでは不十分なので、以下、現象学の方法を用いつつ、心理的治療の共通原理について、私(山竹)なりの考えを提示してみる。

〈無意識の本質観取】〉
心理的治療の本質を捉えるには、まず、「無意識」の本質を明らかにする必要がある。というのも、代表的な心理療法の多くが「無意識」の概念を重視しているからだ。「無意識」を本質観取する際のポイントは、私たちの日常のなかから、「あれは無意識だった」「自分には無意識の欲望(ないし不安)があった」という経験を取り出してみる、という点にある。それらは、@習慣化した(身体化された)行為、A自律神経反応、B感情、Cイメージ、D他者の反応、という五つに分けることができるが、その本質を一言でいうと、無意識の経験においては「自己了解」が起こっている、ということになる。

〈心理的治療の本質〉
現象学の立場にたつかぎり、無意識とはあくまで“事後的に”想定された自己像なのだが、それは「本当の自分」として確信される。だから、心理療法でなされる無意識の解釈というのは、患者の自己了解を促すものだと理解できる。そこには、弱い自分、親への憎しみなど、自分が認めたくない自分が含まれている。だから、患者の自己了解がうまく進むためには、治療者との信頼関係が必須となる。患者は、治療者に承認されたい(受け入れてほしい、見捨てないでほしい)という気持ちを抱くからこそ、治療者の指摘を受け入れようとするからだ。

以上のことから、「心理療法とは治療者の承認を介した自己了解である」ということが分かる。(認知的アプローチをもたない行動療法でも、患者の自覚の変容は伴っていると考えられる。)

〈心の病とは何か〉
次に、心の病とはそもそも何なのかという問題だが、その本質は、「ある危機的状況に対する不合理な不安と防衛反応」だといえる。人間は、身体的快の危機(事故・事件)、関係的快の危機(友情・愛情の喪失・死別)、自己価値の下落(周囲からの非難・軽蔑)」、といった危機的状況に対して、それを避けようとして何かしらの防衛的な行動をとろうとするが、その際、歪んだルールや行動様式が定着してしまうと、それが心の病を引き起こすもととなる。

〈当為の自己了解と自己ルールの修正〉
だから「自己了解」というとき、何を了解すべきかというと、それは「歪んだ自己ルール」だということになる。強迫神経症などに顕著なように、歪んだ自己ルールは通常、「不合理な当為(〜ねばならない)」として意識される。そうした当為が形成された理由を分析し、その根底にある不安を自覚化することで、その(防衛的な)行動様式には根拠がないことが理解できる。とはいえ、自己ルールは身体化されたものなので、行動様式を変えていかないかぎり、そう簡単には治らない。一定の期間をかけ、身をもって治していく必要がある。
〈一般的他者の視点〉
心理療法によって促される自己了解は、あくまで患者と治療者との二者関係によるもの。けれども、患者はやがては治療者の手を離れ、自由な自己判断によってその後の人生を歩んでいかなければならない。そのとき周囲の人々とうまくやっていくためにも、治療の終盤では、患者が自己理解や自己ルールの適正を、「一般的他者の視点」(「誰もが納得するかどうか」という観点)から内省してみることが必要となる。

〈心理療法の共通原理〉
以上をまとめると、心理療法の共通原理は次の三点だということになる。
@治療者との信頼関係の構築 ⇒ 承認欲望の充足
A欲望と当為の自己了解 → 自己ルールの修正、自由な自己決定
B一般的他者の視点による内省 ⇒ 一般性のある価値判断により承認の可能性が拡大
 ⇒(一過性ではない)自由な自己決定の持続


ここで、私(山竹)が自分の考えを提示したのは、その妥当性をここで理解してほしいというよりも、それが現象学の方法を用いて導き出したものだということを理解していただきたかったから。今、述べてきたことには、「無意識の本質観取」、「当為の本質観取」、「治癒の本質観取」といった本質観取が含まれている。

本来、現象学的心理学は、深層心理学や実証的心理学と並存する一つの立場というよりも、むしろ心理学全体の妥当性を検証するための、基礎となりえるものだ。