2007 4/21 (NHK文化センター連続講座「人生とどう向き合うか」について)
管理人様へ
NHK文化センターの連続講座「人生とどう向き合うか」の最終回4月11日(水)に出席した一人です。4月15日付の管理人日記を読み、すこし考えたことがあってお便りさせていただきます。
いやあこの講座、ほんとに面白かったですよね。私はとりわけ、ジェーン・オースティンの話が出たとき、ナヌナヌ?と思わず耳をそばだててしまいました。
オースティンをはじめ、ヴィクトリア時代の英国小説はとても好きなので、まずは名前が出ただけでやったー、という感じ。でも、それと、トルストイや「死とどう向き合うか」というテーマとどういう関係にあるの? 単なる脱線じゃないの? という疑惑がムクムクと私のなかにわき上がっているのを抑えることができませんでした。
しかししかし……それはみごと杞憂に終わりました。
「近代」の矛盾があふれ出した19世紀の半ばから終わりの頃、ロシアとイギリスと国は違っていても、変化する時代についていけずに旧習をまもる世間のなかで、人間にとって大事なものが欠落崩壊していく。そうした世間の価値観そのままには生きられず、自分には不利であると知りつつ自分の「ほんとう」を追求し続ける男女の群れ。この辺り、イギリスの小説は、さすがに近代の先頭を走っていた国だけあってほんとうによくその姿を描いていると思います。しかも女性の目を通して。
その位相で、『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』、『クロイツェル・ソナタ』が、『高慢と偏見』やそしてたぶん『ジェーン・エア』や『嵐が丘』にもつながっていくのではないかと思います。これらの小説の主人公は誰もが、本人たちにはどうにもできない大きな矛盾のなかで、ほんとうの愛、ほんとうの自分を求める「悩める近代の自我」だから。
しかし、それ自体としてはよいにちがいない「近代的自我」の裏の顔としてそれと表裏一体に、それまではそれほどみんな考えなかっただろう死の不安というものが垣間見えてくる。彼らの「生の矛盾」を最終的に解決してくれる「来世」や「天国」はもうないのだから。
ジェーン・オースティンの場合はその矛盾は、よき夫を見出しよき結婚をすることで終わり、トルストイの場合は人を助け楽にすることで終わる(済みません、イワン・イリッチは読んでないんですが、竹田先生の解説で知り得た限りで)。しかし物語の上でどう終わるかは問題ではないのでしょう。近代は人間の「ほんとう」を追求する上でいい条件をいろいろ提示したけれど、反面大きな代償を払うことも求めたということなのですね。
「生の矛盾」に対する感受性が高まるほど死の不安への感度も高まり、そして第一次大戦をくぐり抜けた若者たちによって、ハイデガーの死の哲学は市民権を得てゆく、そんな道行きを考えることも許されるのでしょうか。
それでは、今となっては社会的に極大の矛盾というものに突き当たっていない現代の若者たちは、死というものをどう受けとめているのか、その辺は今後の課題として語り合ってみたいことでした。
講座のメイン・ポイントでないところで妙に勢い込んで反応してしまったような気もしますが、改めて刺激に満ちた竹田先生の講座、そしてこの講座に言及することによりこんなふうに考えるきっかけを与えてくださった管理人様に感謝です。
社会人ンン十年の一ウェブ読者より