犬端渉さんに「NHK講座面白いですね」とお話していたら、じゃあモカ君何か書いてみたら?と言っていただいたので、頑張って書こうと思っているうちにだいぶ時間が経ってしまいました。そうしたら、管理人エッセイに「よろしくね!」のコメントが。うああーもう逃げられない、ということで、一念発起して感想文を書かせて頂きました。
竹田先生の今回の「カルチャーアワー」NHK講座は、テーマがどれも魅力的でした。モカはどの回も大変興味深く聴いていました。先生はいつも大変そうでしたが(いつも講演前に栄養ドリンクを飲んでいました)、聴いているこちらにとっては大変実りあるものでした。以下、竹田先生の全3回の講義を振り返って、私が受けとったこと・感じたことを書いてみることにします。
モカ(moka)
人生とは、生と死から織り成す意味と可能性との結実である。
― 竹田青嗣NHK「カルチャーアワー」の講義感想として
今回のNHK講座は【人生とどう向き合うか】というテーマのもので、竹田先生が担当した3回の講義は、第1回【幸福と不幸】=ルソー、第2回【絶望】=キルケゴール、第3回【死】=トルストイというように、それぞれの思想家たちの思想に触れながら、「人生と向き合う」諸契機について哲学していこう、という試みのものだった。
人間にとって幸福とは何であろうか。それは、日々の生活の喜びと、内的な自由、すなわち「関係において自立している」ことだ、とルソーは考えた。
依存的な関係からは、「私にとっての生きる<ほんとう>」を追求する自由を得ることはできない。「私が誰とどこで、どのように生きていくか」ということを主体的に選び取っていけるということ。関係的な自由の中に、「私にとっての幸福」を直観しうるということ。そうした「関係の自由と自立」こそが、近代人が「幸福」を得るうえでの「本質契機」ではないか。
「人間の生は関係の網の目である」というヘーゲル哲学のエッセンスを竹田先生は良く引き合いに出す。なるほど、人は人間関係の中から、それぞれの「幸福」を模索しようとしているのかも知れない。そうして人は、いわば「幸福」の可能性の糸を紡ぎ合って長い長いマフラーを編んでいるかのように思える。
だが、ルソー自身は「本当の恋」をすることはできなかった、とも告白しているそうだ。なるほど、自由であり、自立していて、そこからよりよい関係を選びとったり、つくっていくことができれば、それはたしかに幸福なことだとは思う。でもそれは、そんなに簡単なことではない。
近代人は歴史上初めて、自分にとっての自由というものへ、生の可能性を求めることができるようになった。しかし、人間的な自由が解放されたということは、生の自己決定と幸福の追求が認められるという光の面だけでなく、むしろ人間同士の欲望関係の中を生きねばならない、という影の側面をももっている。ルソーはそのことも同時に直観していたのだと思う。
そして、キルケゴールはこの「影」について考えつめた思想家なのかもしれない。
マフラーが綺麗に編めればいいけど、ほつれる、破れる、燃える、消えてしまう。みんながいっしょに編み合っているマフラーに、自分は自分の可能性の糸を編み合わせることができない。そもそも編むための道具がなかったら?編むべきマフラーを見いだせなかったら?自分が関わるといつもほつれて、みんなの迷惑になるとしたら?
人生の中で関係の網の目を編む、ということは、決して簡単なことではない。人は時に人であること事体に絶望する。自分自身に絶望して、孤独の極みに立ったとき、極限的な己の<信仰>というものが試されなくてはならない。絶望に飲まれているときには、どんな気休めの言葉も届かない。言葉が届かないということがすなわち絶望なのだ。
・・・このような世界の果てで、それでもなお何か自分が信ずべきものがあるだろうか?何か信じずにはいられないようなものがあるといえるだろうか。―キルケゴールはそれを「可能性だ」と、考えたのだと思う。
哲学は絶望の意味を考える。そうして、生の絶望の意味を「問う」ことによって、生が現実的に可能性を見出しうるその道筋を見出そうとする。それが、生きるための哲学というものではないか、と思った。
人間の生の諸可能性というものは、徹頭徹尾おのれの死にゆく存在であるという必然性に規定されている。ところで、「死ぬ」ということが、かくも恐ろしいものとして意識されてくるのは何故だろうか?
―竹田先生はトルストイの『イワン・イリッチの死』のある箇所を読み上げた。それは本当に深く私の胸に響くものがあった。
人は死にゆく存在である。しかも、根本的なところでは、人はいつ自分が死ぬかは分からない。価値あるもののうちに自分の生が充たされているときには、人は死を恐れるものではない。しかし、私の存在が「負めあり」の意識を引きずっているとすれば、死はもはやそれ以上に自分がよいことをなし得る可能性をもたない終焉である。そこには返しがたい苦しみがある。ある場合には、それは果てしなく許されることのない永遠の暗闇でさえあるだろう。
逆に言えば、人の生に悔いがなければ死は恐ろしくならないと言えるかも知れない。だが、悔いのない人生を生き抜けるほど、人は誰でも条件が良かったり、要領が良かったり、運が良かったりするのではない。
こうして生と死を構造的・条件的にもっている私は、そしてなお、どのように私を生きようというのだろうか。―ここには<実存>の契機があるように私には思われる。
生と死とは人間にとっての単なる「規定」ではない。むしろ、死という「闇」によって、生のもつ意味と私のなし得る可能性とが―それがどんなに些細なことであったとしても、―「光」として浮かび上がってくるのである。
3回の講座を通して、私が感じたものは、人間が生き、死んでいくことのもつ様々な【意味】の本質である。人は、人との関係のなかから生きることの意義や幸福を見出そうとしている。それが失敗したときにもまた、生きていることの意味を受けとり直せる可能性が生のうちにはある。闇としての死は、「可能性の終焉」を告げると同時に、私が生まれ、生きていることの歩みとその意味とを教えてくれる。そして現にある光としての生は、私の歩みゆきとその意味とを、現在という可能性の中へ結びつけるのである。
こう書いていて、私は、私のお婆ちゃんの死の間際を思いだした。お婆ちゃんは、いろいろあって、私のお母さんやお父さんと上手く関係が作れなかった。ガンコでもあった。
でも、自分が死んでいく者として、うすうすは、自分の存在の何たるかについて自覚的なところがあったと思う。お婆ちゃんは死に近づくにつれあまり文句を言わなくなった。家族はしかし結構冷たい態度を取ってしまったりもした。そんなお婆ちゃんが亡くなって、お婆ちゃんが眠っていたベッドの脇に、チラシで折り込まれたいくつかの【鶴】があるのをお母さんが見つけた。お母さんはそれを見て泣いていた。その時、お母さんが泣いていることの意味はよく分からなかったけれども、そのしわしわのよれよれな形をした【鶴】の存在が、不思議なほど深く自分の胸を突いたことを今でも良く覚えている。