沸き立つ精神の力
こんにちは、 朝日カルチャーセンターの『精神現象学』解読講座受講生‘まいむ’です。
楽しみにしていた通称「ヘーゲル完全解読講座」が始まりました。朝カル名物・竹田・西講座は、‘まいむ’自身もふくめ受講歴が長い人が多いのですが、今回は初めて参加という方も相当いるようで、総勢90人に近い受講生で教室は熱気むんむん。しかし講義のほうもその熱意に応える充実度満点の内容だったので、思わず感想を書きたくなり、拙いながら投稿させていただくことにしました。
ありがたいことにこれからこの拙文をお読みくださる方に予めお知らせですが、この文のなかで緑色の部分は先生方が解説されたり主張された内容を要約したもの(録音していたわけではないので不正確だと思います。間違い、不足があれば是非ご指摘ください)、黒の部分は一般的報告や‘まいむ’が感じたり考えたりしたことです。
まずは講師の先生方から提案。案内チラシでは前期に『完全解読 ヘーゲル精神現象学』、10月からの後期は『法哲学』をやることになっているが、できれば通しで一年間完全解読をやることにしたいということ。事前の案内と違うというので先生方はずいぶん遠慮がちに提案をだされていましたが、個人的には異議のあろうはずはないと予測していました。一年間通しで完全解読をやって『精神現象学』の全体像をつかめればこれに越したことはないし、それはあとで法哲学などを読むときもきっと役に立つはず。
挙手で提案の可否が問われたところ、満場一致(見たところ、ですが)で受け入れられたのは‘まいむ’の予想どおりです。
次に導入として、「ヘーゲルをどう読むか」という内容で竹田先生の解説がありました。哲学は難しいことをいろいろ言っているが、それを噛み砕いて原理にしてはじめて生きる。 「噛み砕いて」というのはどういうことかちょっと分からなかったのですが、ふだんあまり哲学書など読まない人たちにも届く、ふつうの表現、ふつうの言葉で事柄の核心をつかむ、というようなことでしょうか。哲学や思想の本質的な部分が一般の人々のあいだに浸透し、みんながそれぞれの仕方で検証し納得して、受け入れたり受け入れなかったりする、それが「原理にして、生きる」ということなのではないでしょうか。
ちなみに竹田先生の言う「原理」は真理のように絶対正しいこととか変わらないこととかいうことではなく(もちろん、いわゆるイスラム原理主義などの「原理」とは無縁)、世界や自分のあり方を問い直したり再検証する必要に迫られたときにとる基本の態度、思考方法だということです。みんなで検証しあって誰もがいちばん納得できる基本線を取り出すということだから、ある意味科学の原理にも共通して、神秘的なところは全然ないわけですね(‘まいむ’はこの辺がときどきまだ混乱するのですが…)。
それでヘーゲルですが、ヘーゲルは近代社会の原理として「自由」を取り出したということに大きな功績がある。すべては神から与えられた秩序であるというキリスト教の理念をいったんチャラにして、近代社会は人間を自由にするシステムであると明言した。
こうしてヘーゲルの時代以来、人間社会には自由の原理が貫かれるはずだったのだが、実際にそこから生まれたのは資本主義とそれに基づく不平等、今でいえば格差社会(したがって不自由)だった。この辺をきちんと哲学的に理論化するという意味でいちばん大きな功績を残したのはマルクス。
しかし資本主義はほんとうに、格差や不均衡を養分にして展開するしかないのか、そのマルクスの原理は正しいのか、別の原理はないのか、それはまだ誰も言えない。現代の経済学はその問いに答えていない。
誰かこれについて考えがある人は教えてください、などと竹田先生は言っていましたが、このことについて、たとえ大枠であれ哲学的な意味でひとつのアイディアを示せる人は、竹田先生を措いてはいないでしょう。先生、頑張ってください。
ヘーゲルに至るまで近代思想ではいくつか大事な「原理」が出ていた。ホッブズの自然状態(普遍闘争)・自然権・自然法。ルソーの普遍意志論。カントのアンチノミー。
そしてヘーゲル自身、いくつか決定的な「原理」を出している。
いちばん大きいのはやはり、人間精神の本質は自由、したがって歴史の動因の本質は自由、ということだ。
というわけで、実際の講義では、ヘーゲルが『精神現象学』という一冊の書物を使って、この重要な原理をどのように根拠づけていったか、その道筋が見えてくることでしょう。
以上について西先生がちょっとコメント。
今の社会で、たとえば環境問題や南北問題も含め、どういう未来を展望できるかということが大事だが、現代哲学はそれに応えていない。とくに現代フランス思想などは、そういう展望を出すことそのものを抑制してしまう。もちろんそれには社会主義社会の惨状など理由はあるのだが。現代思想はそういう課題に真剣に向き合わずにきた。哲学や思想はそれに向き合わないと、単なる趣味になってしまう。
ほんとうにそうですね。今世の中全体になにかこうどんより停滞した空気がある。もちろん経済的なこととかいろいろ理由はあるでしょうけれど、それだけでなく、とくに若い人たちのあいだに、世の中はどうなるか、自分はどういう社会にしたいかとか、そういう展望がないことが閉塞感の大きな原因かもしれません。たとえヒントであれ、何かこれなら自分や社会を変えていけるというビジョンがあれば、そしてそれをきちんと取り上げて、みんなで考えてゆける開かれた空間があれば……と思わざるを得ません。
さていよいよ、『精神現象学』そのものの成り立ちを、西先生が「意識経験の学について」という標題で説明されます。ヘーゲルのひとつの結論は、あらゆる対象は意識の中に登場して経験されるということ。弁証法とか世界精神とか有名な言葉に捉われていると、ついこのある意味シンプルな提起を忘れそうになりますが、そうだったんですね。そういう意味ではフッサールをすでに先取りしていたのですね。
「真理(客観認識)」というものをどう考えるかという議論のゲームは、西洋思想のなかにずっとあった。たとえばヒュームの場合は、客観(対象)などというものは実在せず、ひとつの信憑にすぎない。カントになると、客観はあるのだが、それ自体は人間は認識できない、人間は共通フォーマットの眼鏡をかけているようなもので、そこからものへの共通理解は生まれるのだが、もの自体に到達することはない。
ところがヘーゲルによれば、もの自体は認識できないとカントは言うが、そのことを経験しているのも意識主体。もの自体も実は意識のなかにあるのだ。すべての経験の根源的な場が意識である。
ではヘーゲルにとって真理はどういうもので、どこへ行くのか。人間の意識経験は固定ではなくてある動因があり、今までの経験からはみ出したことを経験すると、必ず新たな知を形成し、展開してゆく。真理というのはいわばそうした経験の進み行きの必然性だ。
意識の中心である自己は、絶えず自己同一性を保ちながら(昨日の自分と今日の自分ではやったことも考えたことも違うがやはり同じ自分)、他と関わり合い自己を変容させてゆく。
これについては竹田先生からもコメントがあった。現代思想のキーワードは〈構造〉と〈力〉。
この〈力〉、つまり変化の動因は、後には「自由」であると言われるが、『精神現象学』では「他と関わり合いながら自己同一であること」という原理である。たとえば対人的には、自己価値・承認をめぐる死を賭けた闘争に勝ち抜き、強力な自己をつくってゆく、というのが一例。
短い時間のなかでヘーゲルのダイナミックな体系を垣間見られた気がしました。今後はただ垣間見るだけでなく、先生や皆さんと『解読』を読むうちにこの過程がつぶさに明らかになってくるのだと思うとワクワクします。
竹田・西講座の魅力は、単に古典を読んで知識を蓄えるということでなく、哲学者たちが苦闘の末に編み出した原理が、先生方の説明を通じて今の私たちの生き方や考え方にきちんと届き、力を与えてくれる、そのことなのですが、今回はとくにそうなるという予感がします。
西先生も触れていましたが、ここに集まる80数名の人々は職場や学校や家庭でたぶん問題や課題を抱えていたり、場合によっては生きづらさを感じている。ここで直接の答えが見つからなくても、何か手がかりがあるのではないかと希望をもってやってくる。その希望を持続させてくれるのが、力のある哲学なんですね。ヘーゲルはたぶん私たちを諦めさせない。
唐突ですが、哲学や思想にも愛がなければいけないと思うのです(もちろん愛そのものが「原理」だと言うのではありません)。とりわけ同じ時代を生きる市井の人々への愛が。「たといわれ預言する力あり、またすべての奥義とすべての知識とに達し、また山を移すほどの大いなる信仰ありとも、愛なくば数うるに足らず」(コリント前書13-3)。ヘーゲルは、あの怖い顔に似合わず、きっと世界と人間に対する愛と熱をもった人だったのではないかと、‘まいむ’は想像しています。でなければ人間の本質は自由だなんて言えるはずはない。
とにかく、これを機会に怠け心にむち打ち、『精神現象学』にしっかり取り組んでみたいと思います。皆さまよろしくお願いします。
ちなみに、お気づきの方もいると思いますが、この小文のタイトルは『精神現象学』末尾の例の有名なシラーの詩から、一部を拝借したものです。拙い感想文の標題としてはくらくらするほど僭越ですが、講座そのものの内容はまさにこの雰囲気を反映していると思い、使わせてもらうことにしました。