「現象学の復興」短縮版
『完全解読「現象学の理念」』あとがき
竹田青嗣
目次
(1)現象学批判 (抄)
(2)「認識問題」の謎 (抄)
(3)「信念対立」の克服 (抄)
(4)「本質学」としての現象学 (抄)
(5)懐疑論の命脈 (抄)
(6)「内在―超越」図式と「確信成立の構造」
(7)世界確信の信憑構造論
(8)現象学批判の錯誤
(9)仮象の論理学 (抄)
(10)結語──本質学としての哲学
(1)現象学批判 (抄)
《フッサールの思想はきわめて実り豊かであり、偉大なインスピレーションの力をもっているが、しかし一流のフッサール研究者ですら、いったい現象学とはそもそもなんであろうかと、いまも絶えず自問している。》
(G・H・ブラント『世界・自我および時間』1955)
現象学とはそもそも何であるのか。この問いをめぐって百説が流布している状態、これがまさしく現在の現象学の現状である。
しかも、二十世紀の半ば以降、構造主義によるフランス現象学への批判とともに、フッサール現象学もまた深刻な地盤沈下をこうむった。現象学は、一方で実証主義の陣営から、意識主義、観念論、独我論として批判され、もう一方で、相対主義を軸とする現代思想の陣営からは、厳密な認識の基礎づけ主義 ★として批判された。さらに、現象学アカデミズムにおいても、「現象学的還元」という根本方法に対する疑義が繰り返し提示されている。
しかし、わたしの仮説では、これら現代の現象学理解と評価は総じて大きな誤解のうちにある。その根本は、現象学的還元という方法に対する理解の根本的なねじれにある。
以下、これら現象学の根本方法に対する批判を念頭におきつつ、現象学的還元の方法がどのような「哲学原理」であり、またそれによって何を成し遂げているのかについて、可能なかぎり簡明なテーゼによってこれを示してみたい。そのことによって現代の現象学批判の妥当性を検証してみたい。
『現象学の理念』にそって問題を整理すれば、以下のようになる。
フッサール現象学がはじめにおいた目標は、近代哲学における「認識問題」の解明ということだった。それは、近代の実証主義が前提する「主客一致」の認識論に対する、哲学の立場からの「認識批判」を意味する。そしてこの最も本質的な「認識批判」を通してフッサールが向かおうとするのは、「事実学」に対する「本質学」である(この理念は、『危機』において最もよく表現されている)。
現象学の立場からする「認識批判」というモチーフは、カントの「認識批判」(『純粋理性批判』)と同じ本質をもっている。カントはその哲学的「認識批判」によって、一方で形而上学的独断論を破壊し、同時にもう一方で普遍認識一般を否定する懐疑論を打倒し、これまで長く続いた両者の不毛な対立を終焉させようとした。
フッサール現象学の方法は、まさしくこのことを、カントの認識批判のもつ欠陥を超えて、より根本的な仕方で成し遂げ、真に新しい本質的な認識論を提示している。しかしその「原理」はこれまで十分に理解されてこなかった。
フッサール現象学における本質的な「認識批判」と「認識論」の基本骨格を描き直すことによって、現象学の新しい可能性を取り出せるかどうかを試みたい。そのことはまた、現代のさまざまな現象学批判の無効性を適切に反駁することになるだろう。
(2)「認識問題」の謎 (抄)
まず『現象学の理念』の記述にそって、フッサールの問題提起を素描してみよう。
(1)哲学には、伝統的に「主客一致の不可能性」という謎、つまり「認識問題の謎」がある。しかし自然科学やその方法を基礎としている近代の実証主義的科学では、「主客一致」を大前提としているために、これをはじめから問題とはしない。
(2)「認識問題の謎」は、ながく相対主義者=懐疑論者によって提出されてきた。認識の客観性と普遍性を擁護しようとする哲学は、この謎を解こうとしてきたが成功しなかった。そのためこの問題はいまだに「謎」として残っている。そしてそのことが、現代の学問における強い相対主義的傾向を支えている。
(3)自然的学問がこの問題を解きえない以上、哲学的思考が、本質的な「認識批判」によってこの謎を解明すべきだが、現象学の方法だけがこの問題をよく解明できる。
懐疑論は一切の認識の根本的根拠を疑問視する。しかし現実には、どんな認識も成立しないわけではなく、自然科学の領域において客観認識は成立している。したがって、われわれはむしろ、なぜこのような「謎」が生じるのかについて本質的な考察を行なわねばならない。こうして、フッサールは以下の課題を提出する。
第一に、認識問題の「謎」を解明するために、本質的な「認識批判」の学を立てねばならないが、ここでは自然的学問の知見はまったく支えとならない。したがって、現象学の方法を確立せねばならない。
第二に、「主客一致の謎」の解明は、一切の認識の根拠が疑わしいという懐疑論の論拠を決定的に反駁する形で行なわれねばならない。
第三に、そのために、「第一の認識」、つまり「絶対的に確実な認識領域」の確保というデカルトの方法を受け継ぐべきである。
フッサールによれば、この絶対的に不可疑な「第一の認識」の領域は、「主観‐客観」図式をいったん排除して、「内在―超越」図式をおいたとき、「内在」の領域において確保される。「内在意識」への現象学的内省を通して、われわれは「絶対的所与性」という概念で定位される「不可疑の要素」を確定できる、とされる。
しかし、『理念』のみならず、『イデーン』以降の主要著作においても、フッサールの「内在―超越」の構図の意味は、十分判明なものとは言えない。それが現象学理解についてのさまざまな異説を呼ぶ大きな理由になっている。
ここには二つのポイントがある。
一つは、フッサールが認識問題を解明する上で、まずデカルトの「コギト」の道を継承したこと。このことは現象学が、デカルト的な独我論的な意識主義★を反復しているという疑問を呼んでいる。 第二に、「絶対的所与性」や「明証的所与性」の概念の、「基礎づけ主義的」色彩。これは結局のところ、現象学が、伝統的な真理主義や厳密な認識の可能性を企てている、という疑念と批判を呼んでいる。
しかし、われわれの観点からは、現象学に対するこれらの批判がどれほど理由のないものではないにせよ、フッサールによる「認識問題の謎」の解明は、完全に正当性をもっている。このことを検証するために、われわれは、哲学的な「認識問題」の基本構図を再確認し、またフッサールの現象学的方法の本質的構図を吟味してみなければならない。
(3)「信念対立」の克服 (抄)
現象学の可能性を再検証するためには、二つの根本的な疑問に答えねばならない。
第一に、フッサールは、「不可疑の領域」を確定するというデカルトの道を継承したが、これはつまり「厳密な基礎づけ主義」という“真理主義的”な目論見ではないだろうか。
第二に、フッサールは、これまでの真理獲得的認識を拒否するために伝統的な「主客一致」図式を廃棄して「内在―超越」という新しい認識図式を置いたが、この構図は一体何か。
近代哲学では、「認識問題の謎」は、デカルトによる「主客一致(的中)」の不可能性のテーゼとしてまず示された。これはつまり「正しい認識は決して存在しえない」、という懐疑論的なアポリアを意味する。このあと、スピノザが世界認識についての形而上学的な独断論を代表し、これに対するアンチテーゼとして、ヒュームが懐疑論的な経験論を強力に代表した。
この「認識論の謎」のアポリアを哲学的な認識本質論によって克服しようとしたのがカントである。彼は「物自体」というアイデアで、認識可能性の領域と不可能性の領域の明確な区分を基礎づけようとした。しかし、この認識論には、ヨーロッパの有神論的世界像の残滓があり、決定的な解決にいたらなかった。その後、現代哲学にいたるまで、実証主義、観念論、懐疑論のあいだで、この問題は解けないアポリアとして残り続けた。
しかし、この「認識問題の謎」の解明の必然的と必要性は、フッサールの論述からは、十分説得的とはいえない。そこでフッサールのモチーフを受け取ってそれを整理してみたい。
「認識問題の謎」の解明という課題は、哲学的な問題としてだけではなく、人間の知性にとって決定的に重要な射程をもっている。フッサール現象学が暗黙のうちにもつ射程を、二つに整理できる。
(1)「信念対立」の克服という課題
(2)「本質学」(意味についての普遍的哲学)の創設という課題。
ヨーロッパの近代は、ふたつの大きな信念対立を重要な契機としてめぐっている。一つは、キリスト教におけるカトリックとプロテスタントという教義の信念対立であり、そもそもこれは近代社会が登場した決定的な原因ともなった。近代ヨーロッパの知性は、自然科学と哲学によってこの問題を克服したように見えたが、十九世紀に入ると、それは、もういちど大きな規模で反復されることになった。まず政治的なイデオロギー対立。そして近代の実証主義的諸学問のあいだの、学派と諸説の対立と混乱であり、これをフッサールはヨーロッパ諸学の危機と呼んだ。
自然科学では、客観的認識とみなされるものがたえず発展してゆくのに、なぜか人文諸科学では、意見の対立は徐々に克服されるどころか、多様な異説が現われてその解決の糸口をつかめないという混乱がますます深刻になっている。また、この人文諸科学の危機を背景に、学問と思想において、相対主義と懐疑論の傾向がいっそう強くなる。それを象徴するように、唯一の正しい世界観を標榜するマルクス主義と、その対抗思想として登場したポストモダン思想の対立は、スピノザ的な世界の独断論と、ヒューム的な相対主義との現代的再演の様相を呈している。
フッサールが現象学の方法による本質的な認識論を、近代の学問思想が解決できないこの根本的な理論対立、信念対立の、根本的な克服の方法と見なしていたことは、『危機』におけるマニフェストではっきりと示されている。
(4)「本質学」としての現象学 (抄)
『現象学の理念』でフッサールは、真の意味での「形而上学」の可能性は、現象学の本質的「認識批判」にかかっている、と述べている。フッサールのいう「形而上学」とは、最も普遍的な存在の意味についての学という意味であって否定的な意味のそれではない。
『危機』においてフッサールは、この意味での「形而上学」の課題こそは、近代哲学の最も本質的な理念であったが、近代の実証科学による人間学は「人間性にとって決定的な意味をもつ問題から、」眼をそらし、この理念をなしくずしにした、と主張する。つまり「単なる事実学は、単なる事実人をつくる。」(『危機』2節)
「本質学」の構想は、生活世界における人間関係の普遍的なアプリオリの学へ届くべきものだった。つまりそれは、人間の生が生成するさまざまな意味と価値についての普遍学を意味していた(生活世界における「根源的意味生成」の探究)。この構想は『危機』において最もよく語られている。フッサールによれば、 哲学は本来、ルネサンスに由来する人間自身の自己存在と生についての自己理解、という理念を含むものとして出発したが、この理念は十九世紀の半ばに挫折した。
その根本理由は「認識問題の謎」(『危機』では「主観性の謎」といわれている)が解明されなかったことにある。このことによって、「主客一致」、つまり客観の正しい認識を学の課題とする実証主義がヨーロッパの学の理念を席巻した、そのことで、哲学が本来求めるべき、人間存在の意味と価値の問題が閑却され、無視されるにいたったのであると。
現象学こそは、本質的な「認識批判」をとおしてこの「謎」を解決し、そのことによって、もういちど哲学を、「事実学」を超えて普遍的な「本質学」として開いてゆくための、礎石となすことができるはずである。これが『危機』において示されているフッサール現象学の根本動機である。
さてしかし、フッサール自身によるこの本質学の構想は、本格的な仕方で十分に展開されたとはいえない。そのために、フッサールのいう「本質学」が何を意味するのかについて、やはり大きな曖昧さを残す原因になっている。しかし、大きくいえば、彼のいう「精神科学」(つまり人文科学)の領域の、事実学的な探究ではなく、本質学的探究を意味する。その最も具体的な像を、われわれはたとえば『危機』での、「生活世界における根源的意味生成」や『イデーン』の第二巻での、「精神的世界の構成」などの概念によって、知ることができる。
ともあれ、フッサール現象学の大きな道程は、根本的な「認識批判」と「認識本質論」をへて、人間世界における「普遍的意味論」へと向かう射程をもっていた。
この道すじを進むためのはじめの前提としてフッサールがとった、「認識の妥当性についての基礎づけ」の試み、とくに懐疑論への対抗としての「絶対的所与性」、「絶対的明証性」の概念の強調は、現象学をして、「絶対的真理の基礎づけ」「厳密な客観的認識の基礎づけ」の学であるという誤解を生じ、現代思想においてさまざまな批判を呼ぶことになった。その代表的例をいくつか挙げることができる(リクール、ローティなど)。つまり、ここでフッサール現象学は、「必当然的な真理」を語りうる根拠を求めて古い形而上学的真理主義へ戻ろうとするロジシズムである、と理解されているのだ。
しかしこれらの現象学批判は、まったくの誤解であるといわねばならない。われわれは、現象学が立ち向かった認識問題の基本構造と、その謎を解明したフッサールの「原理」を明確化することによって、これらの批判を退けることができる。なぜなら、現象学がこの謎を解明した原理は、「真理の基礎づけ」や「客観認識の妥当性の基礎づけ」といった概念とはまったく相容れないものであるからだ。
(5) 懐疑論の命脈 (抄)
「認識問題の謎」を解明することによって、フッサールがめざしていたのは、第一に認識上の「信念対立」の問題を克服すること、第二に、普遍的な「本質学」としての哲学をもういちど構想しなおすことである。
しかし、この二つの問題を吟味する前に、われわれは、当面の関門である「懐疑論」について確認しておく必要がある。
『現象学の理念』で、フッサールはつぎのように話を進める。
哲学において、これまで「認識の不可能性」(謎)の立場を代表してきたのは、相対主義=懐疑論である。自然的学問は「主−客図式」を大前提とするため、この懐疑論の異議をはじめから問題にしない。ここでは客観認識の持続的な拡大が実際に進展しているからだ。
しかし、精神科学(人文科学)の分野では、まさしく学問的認識の全般的な相対性という現象が、実際に生じておりこの問題は生きている。だか、近代の実証主義的人文科学も「主客一致」の立場を方法的基礎とする以上、この「謎」を解明する手段をはじめからもたない。ここから、「方法的懐疑」によって懐疑論を論駁したデカルトの道、つまり「絶対的な確実性の基盤」を求めるという道が強調されることになる。
だが、ここには読者を混乱させるコンテクストがある。
「認識論の謎」を解明するには、懐疑論を完全に反駁できる認識の妥当性の根拠を見出さねばならず、それにはデカルトが示唆した「完全に不可疑な認識」の領域、つまり「第一の認識」を確定する必要がある。そうフッサールは主張する。
しかし、「第一の認識」を見出すことが懐疑論への反駁となるということはまだ理解できるにせよ、それがなぜ「認識問題の謎」を解明することになるかについて、フッサールの議論は十分に説得的とはいえない。なぜなら、デカルトは方法的懐疑によって、コギトという「第一の認識」を見出したが、そこから神の存在証明を行なうことで「主客一致」の可能性を確保したからだ。フッサールがこれと同じ似た道を歩もうとしているのであれば、現象学は結局のところ、厳密な真理主義の再興の企てであるということになる。
しかし、懐疑論への対抗として「第一の認識」を確保するという点では、フッサールはデカルトと等しいが、この「第一の認識」からいかに「認識普遍性の可能性」を根拠づけるかという点では、デカルトとは大きく異なる。このことをフッサールは十分明快に説明していない。
フッサール現象学の原理が、デカルトの方法と決定的に異なる点は、デカルトが暗黙のうちにとっていた「主客一致」構図が完全に棄てられ、「内在―超越」図式がこれに置き換えられているという点にある。そして、この「内在―超越」図式が何を意味するかという点が、現象学理解において最も核心的な問題である。またこの点で、フッサールの方法は、カントの「超越論的観念論」ともまったく異なっている。
フッサール現象学が、伝統的認識論の「主観‐客観」図式を廃棄し、「内在―超越」図式をおいたこと、この核心的な意味は何か。それはつまり、いっさいの「認識」を「客観存在」の正しい把握ではなく、客観存在についての「確信」一般と見なす、という観点にほかならない。
「内在―超越」図式とは、すなわち、いかに「主観」が正しく「客観」に的中するか(認識するか)という観点ではなく、いかに「内在」において「超越」(=確信)が形成されるかを把握する方法、言い換えれば「確信形成」の信憑構造を解明するという方法を意味する。
「一切の認識は確信である」。これを現象学的方法の根本テーゼとしておいてみよう。すると、フッサールが懐疑論に対しておいた反駁の意味がよりいっそう明らかになる。
『理念』においてフッサールはこう主張する。どんな徹底的な懐疑論者でも、じつは自分の存在や世界の存在について暗黙の確信をもっている。それは、だれもが必ずもっている世界についての暗黙の「存在信憑」にほかならない。(フッサールは『イデーン』でそれを「世界の一般定立」と呼ぶ。別のところでは「原信憑Urdoxa」とも呼んでいる。)
懐疑論者が、「世界」についての自分の暗黙の信憑を否認する自由をもつ以上、それを認めるように強要したとて無意味である。そこで現象学は、理論上は誰も世界の「客観存在」を決して証明できないにもかかわらず、だれもがこの世界についての「原信憑」をもっている、その理由と構造を解明すればこの問題は解明される、と考える。(こうして『イデーン』第30節以降におけるフッサールの論述は、内在意識におけるこの「世界信憑」の構造の記述にほかならない。)
『イデーン』あとがきでのフッサールのつぎの言葉は、現象学が、世界と存在についての内的な「確信形成」の、つまりその「信憑構造」の一般理論であることを、よく示している。
《現象学的観念論の唯一の課題と作業は、この世界の意味を解明することにあり、正確に言えば、この世界が万人にとって現実的に存在するものとして妥当しかつ現実的な権利をもって妥当しているゆえんの、ほかならぬその意味を、解明することにあるのである。》32
(6)「内在―超越」図式と「確信成立の構造」
こうして、さしあたりわれわれの課題は、二つある。
第一に、現象学的還元という方法の「原理」をもういちど明確に定位すること。
第二に、現象学的還元の方法から、どのように「本質学」の展開がありうるのかを明示すること。
まず第一に、現象学的還元の「原理」は何か。わたしはこれを二つの要点で考える。
(1)「主−客」図式を廃棄すること。つまり、“外部に”客観存在があり、「主観」はそれを正しく認識する、という図式を取り払うこと。これがエポケーの意味である。
(2)主客図式に換えて、「内在―超越」図式をおく。この意味はすでに述べたように、主観が、外的客観(真実)をいかに正しく捉えているか、ではなく、〈内在意識〉においていかに「確信」としての認識(=超越)が構成されるかの、根本構造を把握すること。
ただしこのとき、「内在―超越」図式を、いわゆるカント的な「認識構成論」と考えてはならない。このことがここで最も重要なポイントである。
ラントグレーベが、フッサールの「超越論的構成」の概念は、つねに動揺して「意味形成と創造との間を」揺れ動いている。というオイゲン・フィンクの指摘を取り上げ、これを現象学の重要な難問として提示したことはよく知られている。(「フッサールの構成論についての反省」『現象学の根本問題』)
フィンクやラントグレーベの疑問は、現象学における「意味」(ノエシス)の“構成”の概念に関して、自発性と受動性のどちらに重点をおくか、という問いをめぐっている。意味は主観が与えるのか、それとも向こうから与えられるのか、ということだ。
しかし、これはただ「内省」によって確定されるべき問題にすぎず、現象学の方法にとって本質的に重要な問題ではない。この問題については、同じ根本的発想によって「認識の本質」を捉えようとした、カントの認識構成論と、フッサールの「構成論」の違いを把握することが最も重要である。 カントの認識構成論は、人間の観念がどのような仕方で“外的なものを”認識として「再構成」しているか”という形をとる。
カントによれば、世界がどう存在しているかは「アプリオリ」に認識できないが、人間の「認識」がいわばどのような“装置”になっているかは、だれもが「アプリオリ」に認識できる。そして、このアプリオリな「認識」だけが、理性による世界認識の限界線を本質的な仕方でわれわれに教える。
カントによれば、人間の認識の仕組みは、感性・悟性・理性というアプリオリな形式をもつ。感性はまた時間・空間というアプリオリな形式性をもち、悟性はカテゴリーというアプリオリな形式性を、最後に理性は、魂の不死、自由、至上存在、という極限的理念の形式性を形成する。人間の理性=観念は、そのような「構成」をもつことを、われわれは知ることができる。これがカントの「認識構成論」である。
ここから導かれる答えは、人間は、世界の極限的、完全なありようを認識できない、したがって、「世界」は「物自体」の概念でおかれ、人間の認識の客観性は、ただ、経験世界の共通性においてのみ確保される、ということだ。
フッサールの認識論はどうか。こちらは、人間の認識はじつはかくかくの「構造」になっています、というカント的な認識能力の「構造」とはまったく違う。
まず、カントは感性・悟性・理性という観念の基本構造とそのおのおのの形式性を「構想」したが、それはつぎのヘーゲルによってただちに否認される。ヘーゲルの認識論の基本構造は、存在、本質、概念であり、カテゴリーもこの構造にしたがって展開するものとされる。カテゴリー(範疇の枠組み)だけをとっても、それは哲学者によって千差万別である。
フッサールの「構成」は、主として、われわれが「内在」から「超越」をいかに《構成》するかということ、を意味する。ところがこの「内在」から「超越」を《構成》する、ということの意味は、そう判明ではない。それはそもそも、「超越」の意味が、多義的な解釈を許すようなものだからである。
「超越」という言葉は、フッサールにおいて頻出する。しかしその意味は、さまざまなに受け取れる。「内在」における意識作用が「超越」を“構成”する、というとき、それは何を意味しているのか。この構成は、一般的には、「対象存在の意味」(ノエマ)の構成と理解されている、つまりわれわれが対象を何であると「認識」するかの“構成”と理解されてよい。
しかしこの「認識」の意味が問題である。すなわち先に見たように、フッサールの「構成」と「超越」の概念は、つねに多義的で、一般的にいって、さまざまな論者の解説から、それが何を意味するかを読者が確定的に受け取ることはまず不可能である。それはあるときは、「内在」「実的」でないものといわれ、ある場合は、主観、経験を超え出たもの、と呼ばれ、またある場合は、ハイデガー的な「自己超出」のニュアンスで使われる。「構成」の概念が確定しない理由は、そもそも「超越」の概念が確定されないからである。
わたしの考えでは、フッサールの「超越」の概念は、主観のうちで《構成》された対象存在についての「確信」、と理解するのがよい。あるいは、そのように受け取らないかぎり、フッサールが「認識問題の謎」をどのような原理で解明したかを理解することは、誰にとっても難しいものとなる。
これについてすでにわたしはいくつかの著作を行なっているので、ここでは実証的な議論は差し控えて、いくつかの傍証だけ挙げたい。しかし、この解釈が、フッサール現象学の本質についてどのような「理解」を与えることになるかについては、詳しく述べてみたいと思う。
《これに反して、われわれの知っているように、事物世界の本質には次のことが属している。すなわち、この事物世界の圏域においてはいかに完全な知覚といえども、或る絶対的なものを与えることはないというのが、それである。このことと本質的に連関することであるが、たとえどれほど遠くまで経験が及んだとしても、そうしたどんな経験についてもみな、そこでの所与が、その所与の生身のありありとした自己現在についての不断の意識にもかかわらず、現実存在しないということの可能性の余地が、残されているのである。本質法則として妥当するのは、次のことである。すなわち、事物的な現実存在は(たとえそれが、調和的に経過してきてなお現在も調和的に流れゆきつつある経験のうちにおかれているとしても)、所与性によって必然的なものとして要求されるような現実存在では決してなく、或る種の仕方で常に偶然的な現実存在であるということ、これである。ということはつまり、経験がさらに進んでゆけば、経験に即した正当性をもってすでに定立されていたものも放棄を余儀なくされることが常にありうる、ということである。あとになると、以前定立された右のものは、単なる錯覚、幻覚、単に一応辻褄の合った夢等々にすぎなかったのだ、と言われることになる。》『イデーン』46節「内在的知覚には疑わしさがないこと、超越的知覚には疑わしさがあること」》
『イデーン』46節は、「内在」と「超越」の関係を論じた『イデーン』で最も重要な箇所の一つだが、ここでフッサールは、まず「内在的知覚」の領域では、そこでの確認された「現実存在」は、「原理的に否定されえないもの」であることを強調したあとで、これに対して、「超越的知覚」つまり「事物世界」の領域では、どれほど完全で疑えないと見える対象の認識も、本質的に、「絶対的なものを与えることはない」ことを主張する。
さて、ここでフッサールの「超越」という概念を、だれもが理解できる言葉に置き換えようとすれば、それはたった一つ、「対象についての存在確信」という言葉以外にはない。その上でフッサールの主張をパラフレーズすれば以下のようになる。
われわれが客観的な「事物世界」と見なしているものの一切は、煎じ詰めると、「主観」(内在)の中で形成(構成)された「確信」つまり「存在信憑」である。われわれの経験がどれほど広範で、その経験の流れが一貫した動かしがたい現実性の感覚で充たされていようと、それは原理的には、「現実ではなかった」という可能性は排除できない。どんなありありとした体験も、「夢」だったという可能性がありうるからだ。これに対して、たとえそれが夢であろうとなかろうと、われわれが自分の「内在体験」としてその「体験」を生きたということ、これは、絶対的に否定できない。だから「内在」は絶対的なものを与え、「超越」(現実であるという確信)は、本質的な可疑性をもつといわねばならないのである。
「事実世界の現実性」(=超越)、すなわち、われわれの現実存在についての「確信」は、本質的に、われわれの体験流がたえず「調和的な統一」を貫き続けているということによってのみ保証されている。だが、この連続的調和が絶対的に続くという保証は存在せず、したがってこの現実についての存在確信は、原理的に変様の可能性をもつ。あるときまで疑えない「現実」と考えていたものの「妥当」が、突然変様しうるという可能性は、「超越」の領域では本質的なのである。
フッサールの「超越」の概念を、世界、対象存在、対象存在の様態についての「信憑の成立」と受け取れば、フッサールの「妥当」や「構成」の概念もまた、きわめて明瞭なものとなる。もう一つ例を挙げよう。
《真理とか現実性とかがわれわれにとって意味をもつのは、(略) その意識生命一般のそなえている普遍的構造の合法則性のゆえである。事実、最も広い意味での対象〔実在的事物、体験、数、事態、法則、理論など〕がわれわれにとって存在するということは、さしあたりはもちろん、明証的な何ごとも意味しておらず、そのことが意味しているのはただ、そのような対象が、わたしに対して妥当するということ、いいかえれば、そのような対象がそのつど、ある信憑の定立的様相において意識されている意識対象(cogitata)として、わたしの意識にとって存在する、ということにすぎない」§26節 p242)》『デカルト的省察』
この文章は、つぎのように読むほかはないように思える。われわれは「真理」や「現実性」という言葉をもちいて、さまざまな対象(事物、事態、法則など)の存在や存在様態についての、現実存在性と真実性を表現する。しかし、何かがたしかに「現実性」をもつ、あるいは「真理」であるという言い方が意味するのは、決してその対象存在それ自体の実在性や真実性の確定ではなくて、それらが、《私の》あるいは《われわれの》主観にとって、確固たる動かしがたい「信憑」の意識として形成されている、ということにほかならない。ここでフッサールが、この対象存在についての「信憑=確信」の形成(構成)を、対象がわたしに対して「妥当する」、という言い方で示していることは明らかである。
(7)世界確信の信憑構造論
ここでまず確認すべきことは、フッサール現象学を「認識構成論」と呼ぶのは誤りではないが、それはカントのような“構想的な”「認識構造論」ではなく、一切の認識を「信憑構成」の構造としてとらえる、まったく独自の、認識の「信憑構成論」と考えなければならない。
こう考えれば、カントとフッサールの構成論の決定的に重要な違いも露わになる。カントが示した感性・悟性・理性という認識の枠組みは、どこまでもカントの「構想」にすぎない。この「構想」を他の人々が共有するかどうかは、その人次第である。
これに対して、フッサールの認識構成論において最も特質すべき点は、それが「内在」がいかに「超越」(さまざまな存在信憑)を構成しているのかを、内省によって直接に見てとる(観取する)という方法である。つまり、原理的には、この「信憑形成の構造」の内的記述は、誰にとっても同じものとして取り出されるのでなければならない。あるいは、誰もが同じものとみなす“構造”だけを抽象して取り出すことが、還元の方法の最も重要なポイントなのである。しかし、これについてはここでは置いておく。
ともあれ、こうして「超越」の概念を、まず内在において構成された対象の「存在信憑」と理解すると、フッサールの現象学的還元の方法の全体像とその射程は、きわめて明らかになる。それを以下に示してみたい。
すでにわたしは、ヨーロッパ哲学における「主客一致問題の謎」について、これまでどのような“解法”が存在したかについて触れたが、もういちど簡潔に整理してみよう。
(1)スピノザ的な世界全体についての合理的推論可能論。
(2)ヒューム的な徹底的相対主義。ニーチェ的観点相関論、ポストモダン思想、現代分析哲学における懐疑主義的論理相対主義。
(3)コントの相対的客観認識論、形而上学的な絶対認識は存在しないが、知識を必要性として相対的にとらえれば、客観認識がある。近代以降の実証科学の系譜。
しかし、重要な点は、これらのすべての認識論の構図は、ニーチェを除いて、すべて例外なく暗黙のうちに 「主−客」図式を前提としているということである。相対主義=懐疑論は、つねにこの「認識問題の謎」を先導して、特定の認識を相対化するか、あるいはどんな普遍認識もないと主張する。しかし、相対主義の論理的本質は、真理が存在するなら「主客一致」が証明されねばならないが、「主客一致」は決して証明できない、という主張だから、この否定論は「主客一致」図式自体を前提にしているのである。
フッサールの現象学的還元は、この「主客一致の謎」について、まったく新しい解法を示している。これは哲学の歴史の中でまったくはじめて現われた解法であって、どの文明の哲学にも見られないものだ。そしてそれが、一切の「認識」を内在における「信憑形成」と見なす、という原理にほかならない。この考えは、認識問題を、どのように書き換えるだろうか。
その概要を示せば以下になる。
「解読」の本論でも詳しく述べたように、フッサールのアイデアは、「主観‐客観」図式を「内在―超越」に置き換えることである。そしてこの意味はこうである。われわれは、外的な「客観」に向き合って、これを「主観」(=認識)によって正しく写しとるのではない。われわれは「主観」における「意識体験」(内在)から出発する。そしてここから、さまざまな対象について、つまり事物、事象、人間的、社会的諸関係、諸理念、そして世界といった諸対象についての、その存在と意味についての「確信」を、そのつど形成(構成)している。
したがって、われわれの一切の「認知」「判断」「認識」は、対象の存在と意味についての「確信」、もっと正確にいえば、その現実存在、その存在様態、その存在意味の確実性についての形成された「確信」である。そして現象学の方法の核心点は、なにより、これらさまざまな存在確信についての「信憑構造」を解明することにある。
フッサールが「超越」をどこまでも一つの臆見、決して確定されえない、絶対的なものを与えることのない「妥当」である、と言うことの意味は、この考えによってきわめて明瞭になる。
「超越」は、事実の確定ではない。あるいはどんな判断や認識も「超越」であって、絶対的な最終項とはなりえない。一切の判断・認識は、たえず変化し流れゆく「体験流」(内在)から《構成》されつづける対象存在についての「確信」すなわち「超越」であるから、「内在」における連続的な統一の変様に応じて、その確信様相は変化しうる。「超越」は絶対的なものを与えず、たえず本質的な可疑性をもつ、という定義の最も核心をなすのは、それがつねに現に「内在」から《構成》されつつある諸存在についての「確信」である、ということなのである。
そして、なにより重要なのは、フッサールが、この考えこそが、最も完全な仕方でこれまでの「認識問題の謎」をその提出者である「懐疑論」とともに完全に解消する、と考えたことである。
できるだけシンプルにいえば、この事象は、これまでのどんな認識論にも適切に説明できない。
絶対的な合理推論説は、世界についての独断論だからさまざまな世界体系を作り出し、すぐに解決不可能な対立を生じる。実証主義は、自然科学の領域にとどまっているうちはよいが、人間や社会の領域に踏み出すと恣意的な客観性の根拠を持ち出してやはり相互に対立する。また、徹底的相対主義は、さまざまな理念、イデオロギー、価値観の相違をよく説明するが、数学や自然科学の客観性や厳密性を説明できない。
フッサールを多少補って言えば、そのの「信憑構造」論は、世界認識の全体像をつぎのように説明することになる。
われわれは誰も、その固有の「意識体験」から、さまざまなレベルの世界認識をつねに「確信」として《構成》している。そしてその多様な「世界確信」を交換しあって社会生活を営んでいる。この「確信」の全体像をつぎのように整理できる。
1.主観的確信
2.共同的確信
3.普遍的確信
(2と3はフッサールの言葉でいう「間主観的」確信)
1.個々の「主観」が形成するさまざまな「確信」は、「内在」の知覚や想起(個的直観)とそれにともなう諸「意味」(本質直観)の統合と一致によって支えられている。これはいわば「信憑」の共時的構造である。そしてこの統合はその時間的持続つまり「連続的調和」をもつことで、はじめて対現実的な対象「確信」となる。これは「信憑」の通時的構造である。
このとき重要なのは、対象の「確信」についての内在的な「信憑構造」を、だれもが自分の〈内在意識〉を内省することで確証し、取り出すことができる、ということである。
フッサールが『イデーン』で行なっているのは、主としてこの内的確信の「信憑構造」の記述である(フッサールの術語では、それは「地平」「顕在性-潜在性」「射映」「コギタチオ-コギターツム」「内在―超越」といった概念で示される。特に§33節から46節までが重要。)
2.つぎに重要なのは、内省を進めると、この事物の存在確信についての「主観」の「信憑構造」は、じつは「他者」の主観の事物「確信」との共有の「信憑」によって強く支えられている、ということだ。
注意したいのは、「現実世界」や諸対象が現実存在するという主観の「確信」は、対象についての確信を「他者と共有することによって」ではなく、「他者と同じ確信を共有しているという主観の暗黙の信憑」によって支えられている、という点である。そしてこれは「間主観的」な信憑構造と呼ばれなくてはならない。
3.他者と共有された世界確信は、「共同的な世界確信」を成立させる。たとえば、民族宗教や王権の聖性についての信憑は、「共同的な世界確信」として成立する。およそ人間社会は、このような共同的信憑の網の目であるといえる。この共同的信憑が成立しなければ、共同体や社会が成立することは不可能である。
しかしここで、もう一つ重要なレベルがある。近代社会は、自然科学という方法によって、これまでとはまったく異なる新しい世界像(総体としての自然世界)を形成してきた。これはもちろん間主観的な信憑であるが、宗教や王権の聖性の信憑とは異なった本質をもつ。
つまりそれは、いったん成立するや決して全面的に廃棄されることはなく、たださまざまな仕方で淘汰され修正されながら、その共同的信憑を拡大してゆくような間主観的確信であり、これをわたしは、「普遍的確信」と呼びたい。
これらの間主観的信憑構造の概念については、ここではこれ以上踏み込まないが、フッサールの現象学的還元の方法は、世界認識論を、このような「世界確信」の信憑構造論として提示していると理解することができる。そして、そのように理解するかぎり、現象学は、これまでの「認識論の謎」を解明するまったく独創的で新しい認識論の原理たりえているのである。
フッサールの認識論を、カント的な認識構成論、つまり人間はどのような仕組みによって「客観認識」を構成するのか、というように考えるのではなく、世界認識についての「信憑構成論」と受け取ることによってわれわれがうることによる利点は、つぎの三点である。
(1)いっさいの相対主義=懐疑論の論拠を完全に反駁する。
(2)しかしそのことで認識の「客観主義」を(「主客一致」図式)復活するのではなく、これを完全に棄却する。
(3)にもかかわらず、「主客一致」ではない仕方で、「認識の普遍性」の根拠を確保する。
まさしく、この三つの点によって、古来いらいの「認識問題の謎」は完全に解明されることになるのである。
(★確信成立の意味については、「過去」を考えればすぐに理解できる。過去は、間主観的確信の構造としてしか確定されえない。その実在は決して実証されない。どんな物証も現在の物証でしかないからである。)
(8) 現象学批判の錯誤
わたしはここで、最も象徴的な二つの現象学批判を取り上げることにする。
《われわれの問いの最も一般的な形は、つぎのように明文化される。すなわち、現象学の必然性、フッサール的分析の厳密さとその綴密さ、その分析が応じている種々の要求(略)これらのものは、それにもかかわらず、一つの形而上学的予断を包み隠していはしないか。これらのものは、独断論ないしは思弁的な或る種の執着をひそめているのではないか。(略)すなわち、現象学はやがて《諸原理の原理》、つまり根源的、能与的明証性、充実した根源的直観に対する意味の現前ないし現前性を、すべての価値の源泉および保証者とみなすことになるのであるが、まさにこの点に、そうした執着がひそんでいるのではないか、というわけである。》(『声と現象』序言)
わたしはデリダのフッサール批判を、別のところで、「差延」という論拠からの「根源」に対する批判、と呼んだ(『『現象学入門』)。デリダの批判は、論理相対主義からの客観認識批判の典型的な例を示している。
古来、客観認識の基礎づけは、まず誰もが認める確実な認識を確定してこれをいわば「公理」として設定し、ここから正しい推論を重ねて行く可能性を示すことで行なわれる。一方、これに対する相対主義=懐疑論の批判にも定型がある。
「だれもが認める最も基礎的な確実な認識」を吟味し、どれほど確実にみえる「認識」も、詳細に吟味すれば決して絶対的な確実性をもちえないことを論証する、という方法である。 まさしくこの論理を、デリダはフッサールの主張する「諸原理の原理」に対して遂行する。そのパターンはいくつかあるが、基本の論理構成はどれも同じである。
《こうしてわれわれは(略)〔表象〕そのものを(略)反復の可能性に依存させ、そして最も端的な〔表象〕、つまり現前を再現前の可能性に依存させるにいたる。われわれは〈現在の現前〉を反復から派生されるのであって、その逆ではない。(『声と現象』)p》
よく知られているように、フッサールは『イデーン』で、あらゆる「認識の正当性の源泉」として、個的直観と本質直観(意味の直観)をあげ、これはそれが自らを現わすままに受け取られるべきであることを、「諸原理の原理」という概念で示す。つまり、これがフッサールによるいわば「第一の認識」である。
フッサールによると「知覚表象」(個的直観)こそは、あらゆる認識の基礎となる「第一の認識」である。どんな認識も、現認される「知覚」からはじまる。しかしデリダの主張はこうである。 〔表象〕(知覚表象)は、第一のもの、つまり認識の最も「根源」の地点とはいえない。なぜなら、知覚表象は、ふつう「絶対的な今」として、特権的な「現前性」をもつように見えるが、詳しく検討してみると、この絶対的「今」の〔表象〕は、すでに“構成”されたものといわねばならない。
つまり誰も納得するように、あらゆる認識の源泉となるべきありありとした「現前」(今)は、じつはそれ自体として存在することはできず、むしろたえず「再現前」(過去)を繰り込むことによって成立している。すなわち「今=現前」(根源)は「再現前」(たえざる過去の繰り込み=「差延」の働き)によって、はじめて可能となっている。
この論理は、いまや、ポストモダン思想や分析哲学など論理相対主義的な批判論の常套的論法の一つであるが、フッサール現象学の批判としては、まったく無効である。なぜだろうか。以下に整理してみる。
デリダによる認識の絶対的基礎の批判は、これをひとことで「先構成批判」と呼べる。つまり、どんな基礎的な要素もくわしく吟味すれば、絶対的源泉ではなく、それを“構成する”より下位の要素を見出せる。したがって、どんな要素も最も根源的な要素として確定することはできない(カントの「アンチノミー」でも、物質の最小単位の確定不可能性の論理として同じ論法が使われている)。
しかし、デリダの議論は、古典的な懐疑論の論法にしたがっている。この問題については、むしろヘーゲルがより本質的な議論を行なっている。『精神現象学』でヘーゲルは一切の現象を「意識経験」という現象に還元する。すると、あらゆるものは、意識事象として検証されることになるが、およそ「意識現象」は時間的な構成を基礎とするので、「意識」のうちに、どんな絶対的な根源的要素や契機も見出すことができないことを指摘している(このことが真理が弁証法的にしか生成しないことの根拠である)。
デリダ的な詭弁論的反批判に対するヘーゲルによる先構成批判の優位は、それが時間と意識の構造に本質的であることをはっきり指摘している点にある。そして、まさしくこのヘーゲル的な「根源事象の不可能性」こそが、相対主義や懐疑論におけるさまざまな「先構成」批判を可能にしているのである。
デリダの根源批判は、まだ「実体論的」である。しかし、ヘーゲルの、意識は本質的に時間構造をもち、そのため一切は「すでに構成されたもの」として現われる、という考えでさえ、フッサール現象学の批判とはならない。なぜだろうか。
(*フッサールの「第一の認識」たる「現在のありありした知覚直観」が、「主客一致」の根拠ではなく「確信成立の根拠」だからである。その理由は以下である。)
ヘーゲルが示した認識論における「先構成」批判は、しかし、「主−客一致」図式を前提とする客観認識主義(普遍認識主義)に対してのみ効力をもつ。これは、これまで相対主義=懐疑論が、客観認識論に対して認識問題を「謎」として提示しきてたことと同じ論理である。「差延」とはつまり、認識のうちのどこにも、絶対的な源泉や根拠の地点が確定できない、という概念だからである。(客観認識主義に対する相対主義的批判の論法については、古代ローマの哲学者、セクストス・エンペイリコスの整理がよく知られており、彼は17種類の批判論理を提示している。ヘーゲルは『哲学史講義』でエンペイリコスを引きながら、懐疑主義的論理を詳細に批判している。)
デリダは、フッサールの絶対的な「現前」を批判することで、その「形而上学的野望」を批判できると考える。なぜなら、主観における個的直観の「絶対的現前」こそは、客観が主観に「現前」することの根拠である、とフッサールが想定している、というのがデリダの考えだからである。
しかし、すでに詳しく述べてきたように、現象学の根本方法は、「主客一致」を基礎づけという点にはなく、世界確信についての「信憑構造」の根拠の基礎づけという点にある。
先構成批判が示す「根源要素の確定不可能性」は「主客一致」の不可能性の論証でありうるが、「信憑構造」の根拠づけの不可能性としてはまったく意味をなさない。
(2) 「信憑構造」の根拠づけという概念が意味するのは、以下のことである。われわれは「認識」を、「主観」が「客観的現実」それ自体を何らかの意味で“写しとること”と考える。これが「主客一致」図式である。しかし、フッサールによれば、絶対的に実在する「世界の全体」という観念がすでに一つの「背理」である。(*『イデーン』55節) では認識をどう考えればよいか。
あらゆる「認識」は、世界と対象についての「存在信憑」である。フッサールはこう書いている。
《自然の現実存在は、意識の現実存在を条件づけることなどできはしない。というのも、自然そのものが、実のところ、意識の相関者であることが分かるからである。自然が存在するのはただ、規制された意識連関のうちにおいてそれ自身が構成されるというありさまにおいてのみ、なのである。》『イデーン』51節 219
自然世界とは「意識の相関者」である、とは、それが〈内在意識〉の中で「構成」された“確信”としてのみわれわれにとって存在している、ということを意味する。あるいは、逆にいえば、われわれにとって、事物、対象、ことがらが「存在する」とは、それが「意識の確信、妥当の相関者」として成立するということである。こう理解することで、この文章の意味は誰にも明らかなものになる。
夢の事象は、つねにある個的な「主観」にとってのみ存在する。だがここにあるリンゴについては、誰もが、〈私〉にとってだけでなく〈まわりの人〉にとっても存在するという間主観的な確信をもつ。(しかしリンゴに含まれる栄養素(たとえばクエン酸)は、科学の探求を通して、誰にとってもその存在の妥当=確信をうるものとなる。)
「神」は、長く世界中の人々にとって疑えない「実在者」として妥当(信憑)されてきた。中世の人々にとっては神は動かしがたい「実在者」であった。しかしそれは、どんな時代にも「共同体的確信」を超え出る「妥当」を成立させることは決してなかった。
すぐに理解できるように、われわれが知るさまざまな事象のうち、あるものは「主観的確信」を超えず、あるものは「共同的確信」を決して超えない。しかしまたある対象は人がどんな民族、文化、宗教に属そうと、その存在についての共通の存在妥当を、つまり「普遍的確信」を成立させる。
われわれは、実在的な事物は、誰にとっても“同一の存在対象”として認識されるのだ、と考える。しかしこれは認識論的には転倒である。「誰にとっても動かしがたい同一存在である」という信憑を形成するとき、われわれはその対象を「実在物」と呼んでいる、といわねばならない。
このように、認識一般を信憑構造として考えることによってのみ、長く懐疑論が哲学にかけていた「認識論の謎」は完全に解明される。
誰もが確認できる「主客一致」の根拠は決して見出せない、「主客一致」がありえない以上、そもそも普遍的認識は存在しえない、という認識の可能性への異議は無意味なものとあ(な?)る。
さらに、なぜ論理的には「主客一致」が存在しないのにもかかわらず、人間は、きわめて広範な「客観認識」の体系を成立させ、またそれをつねに拡張しつづけているのか。なぜ、自然科学の方法が普遍的な「客観認識」の体系を作り上げているのに、人文科学においてはそれがまったく不可能なのか。さらに、人文科学における「認識の普遍性」ということを、どう考えればよいのか。
少なくとも、これらの問題は、いま確認したフッサールの現象学的還元の方法によって、原理的には、完全に解明されるのである。
(9) 仮象の論理学 (抄)
かつてカントは、第一と第二批判書で、「自由の認識根拠」について議論した。だが、「自由は存在するか否か」という問いは、カント自身の言葉をつかえば、いまや「仮象の論理学」と呼ばねばならない。
「自由」が存在するかどうか、という問いが、ヨーロッパにおいて大きな意味をもち続けてきた理由は、唯一神による世界創造というキリスト教的世界観と、その後の客観主義的自然科学観にある。世界の真理と客観がそれ自体として存在しているという暗黙の観念が、人間の「自由」を謎めいたものにするのである。
しかし、「自由」という概念の本質は、人間関係的における意味の生成と秩序に根拠をもつのであって、これを本体的な「原因」と考えるのは、論理的にも誤りである。「果たして真に自由があるのか否か」、と問うことは、「すべては運命的に決定されているのでは」と問うのと同じく、概念の実体化から生じた「仮象の論理学」である。「自由はあるのかないのか」は仮象の問いであり、哲学的には、人間はどのような条件を失うと「自由」(の感度)を失うのか、と問わねばならないのだ。
相対主義=懐疑論が提出する、「認識の謎」(真の認識は果たして可能か否か)であるという問いとその不可能性の論証は、いまや、これと同じく「仮象の論理学」であることが分かる。この問いは、まず「主客一致」図式を暗黙の前提とし、つぎにその一致の不可能を証明する。しかし「主客一致」図式自体を廃棄すれば、この問い事態が「仮象」のものとなる。
さて、多くの現象学批判は、現象学が、結局、古典的な「主客一致」図式を再興する野望をもつとみなしている。しかしそれは、現象学的認識論の基本構図の誤認にもとづいている。このような批判は、 相対主義的な現代思想のみならず、現象学の直系ともいえる、フィンク、ヘルトなどドイツの現象学派にも普遍的に見られる。
よく知られた『生き生きとした現在』でヘルトは、次のような点を、フッサール現象学の方法から必然的に出てくる問題として提起する。
第一に、「自我」は、それが反省によって捉えられたものとしては、すでに「対象となった自我」である。 第二に、「自我」は「立ち止まりつつあるもの」であると同時に「流れているもの」でもある。
第三に、「自我」は「時間化するもの」だが、同時にそれ自身「今」として存在する。
ヘルトはこの問題を追いつめ、ここには、現象学の方法にとって一つの根本的な「謎」が存在すると主張し、それを「生き生きとした現在の謎」と呼ぶ。
中心的問題は、現象学的の「純粋自我」とは、「対象化する自我」であると同時に「対象化される(反省される)自我」でもある。また「流れている自我」と同時に「一として留まっている自我」でもある、という点にある。
《反省的な存在者化が、根源的に機能している自我の、現象学的に考えられうる唯一の仕方の経験であるがゆえに、まさにこのゆえに、およそこのような経験を超えて、いかにして時間的な機能現在が問われるべきなのか、という問いが謎めいたまま残されるのである。》145
つまり、「謎」は、「対象化する自我」それ自体は、決して対象化されえない(反省によってはとらえられない)、という点に現われるとされる。ちなみに、フィンクやラントグレーベをはじめ、多くの現象学者が この「現象学が「自我」や「意識」の根源を探究する学であるとすれば、そこには解けない難問がある」というテーゼをヘルトと共有している。
しかしこれは、たとえば「目はあらゆるものを見るが、目それ自身を見ることができない」、「同じ川の中に一度も入ることができない」などの相対主義的パラドクスと同構造のロジックである。デリダの「今は絶えざる今の過去化によってしか成立しない」というフッサール批判もこれに属する。現代ではそれは、「自己言及性」、あるいは、「オブジェクトレベルとメタレベルの円還」といった概念で再演されている(ウィトゲンシュタイン、デリダ、フーコーなど)。
だが、このようなパラドクスは、すべて「主客一致」や「概念の実体化」を暗黙の前提として作り出された、「仮象の論理学」にすぎない。
「亀はアキレスを追い越すことができない」という論理的パラドクスは、人が現実に亀を追い越せないことの“証明”である、と考える人は、誰が考えても愚かであろう。哲学の本質的思考は、現実には、アキレスは亀を追い越す以上、このパラドクスに致命的な弱点があるが、それが解明されるべきであると考える。そしてフッサールが行なったのはまさしくこのことである。
「意識主義」「主観主義」「ロジシズム」「独我論」、これらはフッサール現象学に対する一般的な批判の標識だが、どれも、認識論の本質的な問題構成を誤認した上で、相対論的パラドクスを武器として「普遍的認識」の可能性を否認しているものにすぎない。ここにはどんな批判の正当性も存在しない。
ヘルトやフィンクなどのフッサール批判は、現代的な相対主義的批判ではなく、むしろ現象学を、ハイデガーを経由した、ヨーロッパ的な「存在の形而上学的」の探究へと持ち込もうとする動機によっている。しかし、この方向は、動機の上でも方法的にも、フッサール現象学の根本的意義からの離反にほかならない。
(10) 結語──本質学としての哲学
こうして、現在の現象学的批判の錯誤を確認したのち、われわれはもういちど、『現象学の理念』においてフッサールが提示しようとした「本質的な認識批判の学」の全体像を把握してみたい。確認すべきことは以下である。
(1)フッサール現象学の中心主題は何か。どのような「問題」を解明しようとしているのか。
(2)どのような方法でこの解明を行なおうとしているか。
(3)この解明の結果、何が生み出されるのか。
(1)フッサール現象学の中心主題は何か。
近代哲学が解明できなかった「認識論の謎」の解明、これが第一の主題である。なぜそれが、哲学にとって本質的な重要性をもつのか。近代の「精神科学」(人文科学)が、認識の本質を誤解したために、主客図式を前提とする自然科学の方法を自らの方法の基礎とし、そのことで学の普遍性という理念が危機に陥った。
これをキーワードとしていえば、「認識の謎」の解明とそれによる「信念対立」の問題の克服である。
(2)どのような方法でこの解明を行なおうとしているか。
「現象学的還元」の方法によって「認識問題の謎」ははじめて解明される。「主客一致」図式をエポケーして、「内在―超越」に置き換える。その意味は、一切の「認識」を各主観における、世界と対象についての形成された「確信」と考えることである。
ここでは「客観」それ自体が実在として存在するという考えは「背理」である。したがって、いかにして、あるいはいかなる条件で、「認識」は「客観」と一致(的中)するのか、と問わないこと。つまり、現象学を「正しい認識」、「厳密な認識」の条件の解明、あるいは形而上学的な「意識」や「自我」の本質、根源の解明と考えないこと。このような現象学理解は、現象学を古い真理主義や形而上学に引き戻す。
問うべきは、第一に、いかにして「内在」は「超越」を《構成》するのか、つまり「確信」一般が形成される「信憑構造」の解明である。第二にさまざまな「確信」は、いかにして「間主観確信的」(「共同的確信」そして「普遍的確信」)となるのか、と問うこと。すなわち、さまざまな「確信」は、どのような条件において「不可疑性」を獲得し、またどのような条件においてそれは広範な普遍的認識となるのか、と問うこと。
これらの「内在」における信憑形成の本質的な条件と構造をつかみ出すこと。これが現象学の方法の「全領域」である。
フッサールが『理念』および『イデーン』で示している、事物対象の「信憑構造」の本質条件は、大きく二つにまとめられる。
第一の条件は、@個的直観(知覚、想起、想像)の形式で対象の所与が現われること。A一定の本質直観(意味=普遍的なもの)がこれにともない、両者が調和的な統一のもとで、対象の同一性を与えること。
第二の条件は、この所与性が時間的な体験流の中で、「連続的な調和」を保ち続けて現われていること、である。
(3)現象学的方法による「認識問題の解明」がもたらすもの。
「認識問題の謎の解明」は、認識の普遍性に対する懐疑論の異議を終焉させる。すべての認識が相対的ではなく、どんな妥当な認識も存在しないわけではない。さまざまな認識はその「内在」における「所与」の条件において、主観的確信でしかないもの、共同的確信を超え出ないもの、そして普遍的確信(認識)として成立するものへと、区分されうる。
さて、この認識一般の「信憑構造」の解明によって、現象学は、事物対象の「認識対象」を離れ、「人文科学」が対象とする諸「認識」の領域へと踏み込むことができる。この領域が、フッサールが意図した本来の「本質学」の領域である。
われわれの事物世界(環境世界)は、つねに事物対象の信憑構造の条件を基礎として現われている。そしてフッサールの観点では、この「環境世界」の存在信憑の土台の上に、「人間的世界」(「人格主義的世界」)が拡がっている(この問題は、『イデーンU』以降で扱われているが、事物的世界の問題ではなく、「人格主義的世界の本質構造の解明」こそは、フッサール本質学の最も本義をなす領域である)。
フッサールの言葉を使っていえば、この領域における認識論的解明において重要なのは、「生活世界における意味形成」の諸条件の解明である。すなわち、事物対象についての存在確信の諸様相ではなく、人間関係が生み出すさまざまな「意味」形成における主観的、間主観的確信形成の条件の解明にほかならない。
こうして、フッサールはこうして、現象学的還元の基礎方法を貫くことによって、「主客図式」を廃し「内在―超越」図式によって哲学的認識論を完全に再編しようとした。(われわれはこれをヒューム、カント、ヘーゲル、ニーチェにおける認識論の再編成と比べることもできるが、ここでは省く。) フッサールの最後のねらいは、つまり、「理性の現象学」としての「本質学」の展望である。
フッサールは『イデーンU』、第三篇「精神的世界の構成」で、こう書いている。
《〈精神科学を単に記述的な自然科学と見なす自然科学の時代にとっては自明な、自然主義的な解釈〉に対しては、すでに数十年前からさまざまな反動が生じている。この点でまず第一に不滅の功績を挙げたのはディルタイであった。(略) 必要なのは《心理物理的》でも自然科学的でもなく、それとは本質的に別種の新たな《心理学》、すなわち〈精神についての普遍学〉であった。》3 『イデーンU-2』第48節 序文
『イデーンU』は第三篇「精神的世界の構成」からはじまるが、この序文でフッサールが表明しているのは、いよいよここから、「精神についての普遍学」すなわち、本質学としての「精神科学」を開始する、ということである。
ここでいわれる「精神についての普遍学」は、『危機』における以下の記述とほぼ呼応している。
歴史的に考察すると、現代の「実証主義的な学の概念」は、学の理念からは一つの傍流概念にすぎない。それはヨーロッパで「形而上学」と呼ばれていたもの(フッサールでは、存在と存在の意味の学、を意味する)が含んでいた問題の領域を、すべてとり落としている。
《これらの除外された問題は、それがはっきりそういわれているか、その意味に含蓄されているかの別はあるにしても、理性の問題(略)であるという点で、分かちがたい統一をなしている。明らかに理性は、認識の学〔真正な、すなわち理性的な認識の学〕の主題であるし、また真正な価値〔理性の価値としての真正な価値〕の学、倫理的行為〔真に善い行為、すなわち実践理性にもとづく行為〕の学の主題でもある。(略)実証主義は、いわば哲学の頭を切りとってしまっているのである。》『危機』(第3節)
フッサール現象学の根本動機は、第一に、根本的な認識批判、つまり認識の謎の解明をとおして「認識の本質論」を打ち立て、第二に、実証主義の方法を土台としたためにその目的を果たせなくなった現代の「人間学」を、「精神世界についての本質学」として再建することにあった。
重要なのは、フッサールにおいて、この第一の課題と第二の課題は、現象学的還元という同一の方法において構想されているという点である。そしてそれが「エポケー」→「超越論的主観」(純粋自我)→「信憑構造の解明」→「形相的還元」(本質観取)と展開する、「現象学的超越論的還元」という方法なのである(ここでは実証しないが、フッサールの現象学的方法には大きな変様があったという説は多いが、『理念』から『経験と判断』まで、「内在」からいかに「超越」が《構成》されるかという方法が完全に一貫して用いられていることは、フッサールのテクストを自覚的に読めば疑いの余地を入れない)。
『危機』は、この「理性あるいは精神の普遍性の学」としての「本質学」のモチーフを最もよく伝えているが、次のようなフッサールの言葉は、象徴的である。
「哲学的理念の展開が全人類におよぼす影響」を考えるとき、つぎのようにいわねばならない。デカルトから現代にいたるまでの哲学の「闘い」は、「新しい大地を得ようと苦闘しつつある人間性」の闘いである。それは「哲学の課題をもたない非哲学」と、「まだ生きている真の哲学」とのあいだの闘いである。
すなわちそれは、以下のような一つの決定的な理念にかかわる。
《ギリシア哲学の誕生とともにヨーロッパ人にとって固有なものとなった目標──理性が潜在的な状態から明白にあらわになる無限の運動において、この自己のもつ人間的真理と純正さによって自己を規制しようとする限りない努力によって哲学的理性からの人間であろうとし、それ以外のものになるまいとする目標──が、単に歴史的事実としての妄想であるのか、(略)それとも、人間性そのものにその完全な実現として本質的に含まれているものが、ギリシア人の中にはじめて発現したものではないのかが決定される。人類一般は、発生的にも、社会的にも、結合された人間性においては、本質的に人間存在なのである。そして人間が理性的存在〔理性的動物〕であるとすれば、それはその全人間性が理性的人間であるかぎりにおいてのみそうなのである。》 (?)
『危機』のこの箇所は、しばしばフッサールの、極度にヨーロッパ的な哲学的「理性主義」の理念の表明として引き合いに出される。しかし、ここまで、フッサール現象学の方法と動機を確認してきた読者ならば、そのような現象学理解が、むしろローカルかつ時代的な視点の狭さからくるものであることを知るはずである。
フッサールがここで言おうとしていることを少し敷衍すると以下になる。
人間社会は、一定の条件において社会(的?)な自由が存在するところでは、必ず自由な理性の能力を展開して、自己と世界(社会)の存在について、本質的な自己理解を追求してきた。それはまさしく理性の本性が潜在的な状態からその本質を十分に展開する無限の運動といえるものである。われわれはギリシャ哲学においてその決定的な例を見たし、また近代哲学のはじまりにおいてもこの理性の自由な展開という理念ははっきりと現われていた。人間が、自己と社会をどこまでも理性的な本性において把握し、これに対処し、その矛盾を克服してゆく存在として規定すること。これが近代哲学がおいた学の根本理念だったが、まさしく「認識問題の謎」を十分に解明できないことによって、この「学」の理念は、単なる「事実学」に落ち込んだ。哲学を、もういちど本質的な理性によって人間の自己存在の理解の学として立て直すことができるか否か、「本質学」の創設という課題には、まさしくことがかかっているのである、と。
わたしはこのフッサールのモチーフを、少し補ってみたいと思う。
現代は、反哲学の時代であり、この時代は、「理性」や「普遍性」という言葉へのねじれた“反感”をもっている。しかしここでフッサールがいう、人間的理性の本性とは何だろうか。それは反=ロゴス中心主義といった反動的な反理性主義によっては批判されえないものである。
人間は、その社会があらゆる自由な思考を許容する場面では、必ず、理性の自由な合理的推論の能力を、さまざまな方向へと押し広げる。またそのことで、世界と人間についてのあらゆる問題を主題として展開する。そして、この理性の能力の無限の展開という状況は人間の理性の真に偉大な進み行きを推し進める。
すなわちそれは、どんな歴史においてもすでに権威として存在する世界観における「超越項」を、徐々に取り払ってゆく、プロセスである。
歴史上それは、古代帝国の王権の威力、キリスト教会の絶対神的聖性として存在してきた。この「超越項」としての世界観は、人間の生の意味と価値を必ず一元化し、そのことで知の絶対性と異端としばしば二元的対立を作り出す根源となる。世界観の一元的な「超越項」を取り払う運動だけが、知と価値の真の多様性を許容し、しかしまさしくそこから、認識の“普遍性”ということの可能性が現われるのである。
知と価値の普遍性というものは、真理の絶対性ということとは違っている。後者は、巨大で動かしがたい権威と威力から、あるいはそれへの対抗性から現われる。知と価値の普遍性とは、知と価値の多様な差異から、その“共存”と“相互了解”の努力においてのみ現われるものである。
普遍性とは、世界の意味と価値についての多様な偏差の中から、それを乗り超えて、共有できる信憑の部分を保持し、育てようとする意志のあるところにのみ成立する。圧倒的な知と価値の絶対性の成立するところでは、中世のスコラ哲学を思い起こせば容易に想像できるが、ただ「真理性」の概念だけが繁茂する。つまり、「真理性」は、絶対的な同一性を形成しようとする「共同的な確信」としてのみ成立する。そしてこの絶対的な「真理性」が強力な生命力を誇るところでは、「普遍性」は生き延びることができなな(トル)い。
普遍的な認識が成立するために人間が何を必要としたかは、自然科学の方法を一瞥することによってすぐに理解である。世界説明についてのいっさいの恣意的な「物語」が取り払われ、特定の「物語」に威力を与えるいっさいの聖性と権力が取り払われ、ただどんな文化も共有する概念だけを使用し、理性の合理的な推論だけが自由に展開するところに、自然科学の普遍的な方法が登場したのである。
世界説明についてのあらゆる「超越項」を取り払って、すべてを自由で合理的な理性の推論と普遍化の能力に委ねるとき、さまざまな仮説がたえず検証され、その中から万人がそれを信憑せざるをえない「認識」が鍛えられ、選び出されるからである。
普遍的な認識とは、すなわち、特定の「共同体」における「共通の確信」の形成ではなく、どんな文化や共同体であろうと人間であるかぎり誰もが所有している理性の合理的な普遍化と推論の能力にだけ訴えることで、取り出される「普遍的な確信」のことなのである。
近代哲学は、人間と世界の知と価値について、普遍性な理性の能力だけに訴えることで文化や宗教の壁を越え、その本質的な可能性と必要性の限界内では必ず共通の確信と共通の了解を取り出しうるという「理念」をはじめに持っていた。この理念は、それ自体として正しかったが、しかし、近代の人文科学が、自然対象と人文的対象の本質の違いを無視しこれを混同したとき、普遍的な認識についての決定的な危機に陥った。そしてその意味は、近代の人文科学(フッサールでは精神科学)が、「客観存在の絶対的な全体性の観念」という「超越項」を解体し、取り払うことに失敗したということなのである。
そのヨーロッパにおける「学」の初発の理念を立て直すために、何が必要か。人間的な知と価値について、客観的な全体をとらえる「真理」ではなく、どこに広範な普遍的「共通確信」が成立する条件があるのか、またどこを踏み越えると「先構成」「根源性」「絶対性」といった「形而上学」的物語の世界に入り込んでしまうのか、というその限界線を確定することである。フッサール現象学が、「客観認識の基礎づけ」の学ではなく、「信憑構造の解明」の学であることの理由は、まさしくこの点にある。
このような、人間の知と価値についての「普遍的人間学」の理念の構想こそ、フッサール現象学が深く育てていた哲学の本質的理念であり、それは、いまもういちど吟味し直される理由をもっているのである。
最後にわたしは、「信憑構造」の解明としての現象学の方法を象徴的に示すフッサールの言葉をあげ、その「解読」をおいてみたいと思う。
《現象学的観念論は、実在的世界の(そしてまずもっては自然の)現実的存在などを、否定したりするものではない。あたかも現象学的観念論の説くところでは、実在的世界は一つの仮象であり、自然的思考や実証科学的思考は、たとえそれと気付かれずとも、この仮象に陥っているということにでもなるかのごとく、実在的世界の現実的存在を、否定したりするものではない。現象学的観念論の唯一の課題と作業は、この世界の意味を解明することにあり、正確に言えば、この世界が万人にとって現実的に存在するものとして妥当しかつ現実的な権利をもって妥当しているゆえんの、ほかならぬその意味を、解明することにあるのである。
世界が存在するということ、世界が、絶えず全般的な合致へと合流してゆく連続的な経験において、存在する全体宇宙として与えられているということ、このことは、完全に疑いを容れない。けれども、生と実証的学とを支えるこの不可疑性を理解し、その不可疑性の正当性の根拠を解明することは、これはこれでまた全く別種の事柄であろう。
こうした観点からすれば、『イデーン』のテキストにおける論述に即して言うと、次の点が、一つの哲学的に基本的な論点を成すのである。すなわち、全般的な合致というこの形式における経験の連続的進行は、一つの単なる想定にすぎず、そうは言っても一つの正当な妥当性を具えた想定であるということ。したがって、世界は、これまでまた今も現実的に合致するものとして経験されるものであるにもかかわらず、その世界の非存在は、絶えずいぜんとしてあくまで考えられうるものであるということ、これである。実在的世界および何らかの考えられうる実在的世界一般の存在様式の、現象学的な意味解明の成果によれば、ひとえに超越論的主観性のみが、絶対的存在という存在意味を持つのであり、ひとえに超越論的主観性のみが「非相対的」であり(すなわち、ただ自分自身にのみ関係し、それとのみ相関的であり)、一方これに反して、実在的世界は、なるほど存在しはするが、しかし、超越論的主観性へと本質的に関係づけられた相対性を持つのであり、それというのもすなわち、実在的世界は、超越論的主観性の志向的意味形成体としてのみ、その存在するものとしてのおのれの意味を持ちうるからである。》『イデーン』あとがき-1 p32
(解読) 「現象学の考え方は、この現実世界が存在することを否定する、といったものではまったくない。たしかに現象学では、現実世界、あるいは客観世界の存在を前提せず、それをいったん括弧に入れるという方法をとる。しかしそれは現実世界は仮象の世界にすぎないとか、自然科学、実証科学の考えは、仮象にすぎないものを現実だと思いこんでいる、などと主張することを意味しない。
方法的につまり意図的に観念論の見方をとる現象学の第一のねらいは、第一に、この世界の意味のありようを解明することにある。それをもっと詳しくいうとこうなる。論理的には、世界がたしかに現実存在していることは誰も証明できない。これは「認識の謎」という形で多くの哲学者を悩ませてきたし、いまも解けない難問になっている。そこで現象学は、現実世界が確かに存在することを証明する、という仕方ではなく、なぜわれわれの誰もが、この世界が現実存在していることを妥当なものとして疑わないのか、この「世界信憑」には、なぜ動かしがたい必然的な理由があるのか、という仕方でこの謎を解明するのである。
いうまでもないことだが、世界がたしかに実在しているということは、どんな懐疑的な人間であれ、じつは決して疑ってはいないことである。しかしそのことと、この不可疑性(疑えなさ)の“根拠”を確認するという課題とは、また別であって、これは哲学的には決定的に重要な課題なのである。
これをいまごく簡明にいうとこうなる。われわれの世界の実在の確信は、基本的にわれわれの「経験」の中で世界が、つねに一定の整合的な連続的調和を保って持続しつつ存在しているかぎり、われわれはこの世界の実在性を疑うことができない。そしてじっさいわれわれの中で、この世界の連続的な調和が破れることはまずありえない。
だからこそわれわれはこの世界の実在を、固く信じているのである。しかしとはいえ、それはあくまでこの連続的調和を条件としてわれわれのうちに続いている暗黙の「確信」であり、その調和が絶対に破れることはありえないという保証は、哲学的には決して存在しないこと、このこともまた誰もが理解できるはずだ。
現象学の考えでは、絶対に疑えないものとして存在するのは、ただ個々人の「意識体験」それ自体だけである。この体験から生まれてくる世界の存在の確信、あるいはさまざまな事物の存在の確信は、これまた原理的に、どこまでも、相対的で、可疑性(疑わしさ)をもっているのである。つまり、世界や事物の存在確信は、現象学的には、「意識体験」からの意味の網の目として形成されたもの、と考えてよいのだ。」
『イデーン』あとがきは、また、次のような印象深い言葉で締めくくられている。
《上述したこと全部からして結局、本書は、次のような人には、全く何らの参考にもなりえないであろう。すなわち、すでに自分の哲学や自分の哲学的方法について確信を持っている人。したがって、哲学に心を奪われ惚れ込んでしまうという不幸に見舞われた者の絶望感を、一度たりとも味わったことのない人。そして、哲学を学び始めた頃すでにもろもろの哲学が乱立しているのを見て、そのどれを選んだらよいのかを考えさせられ、結局、そこでは選択などが本来そもそも問題にはなりえないのだということを、少しも感じたことのないような人。
…………というのも、それらの乱立する諸哲学のどれもがみな、真正の無前提性のことなど気遣ったこともなく、だからそのどれもがみな、哲学の要求する、自律的自己責任の徹底主義から生じたものではなかったから、である。けれども、右のような点で、現在、多くの変化が生じたであろうか。否であり、旧態依然である。次のように信ずる人、すなわち、通常の意味での経験の豊かな底地や、或いは精密諸科学の「確固たる諸成果」や、或いは実験的もしくは生理学的心理学や、或いはどのようにであれともかく改良された論理学および数学等を、引き合いに出して、そこに哲学上の前提を見出せると思い込んでいるような人、そのような人は、本書を迎え入れる受容力をあまり多く持ちえないであろう。とりわけ、そうした人が、おまけに現代の学問的懐疑主義に取り源かれて、厳密学としての哲学という目標をおよそ一般に承認することをやめてしまっている場合には、とくにそうである。
そうした人は、強靭な関心を振い起こすことはできず、だから、私がここで企てたようなこうした端緒の原理の道を跡づけて理解するのに必要な、大きな労苦と時間を、有意義な労苦・時間の使い方とは見なすことができないであろう。自ら哲学の端緒・原理を掴もうとして格闘する者のみが、この場合、別様の振舞い方をするであろう。というのは、そうした者は自分にこう言いきかせざるをえないからである。すなわち、汝ノ事柄ガ問題ニナッテイル、と。》 (同上 あとがき-7 p45)
(解読) 「述べてきたことからして、結局のところ、本書はつぎのような人の役には立たないだろう。つまり、自分がすでにもっている哲学の方法の正しさを固く確信しているために、それを根本的に疑ってみようとする動機や理由をもたない人。つまり、どこまでも徹底してものごとの根拠を考える哲学というものにほんとうに惚れ込み、そのため、そこにはまだ真に徹底的な根拠が存在していないことに気づいて深く絶望する、という痛切な経験をもたなかった人。また、哲学を学び始めて、すでにさまざまな学説が根拠をもたずに主張しあい対立しあっているのをみて、この信念の対立をどのように克服すべきか、という問題に、ほんとうに深くぶつかったことのない人。
ところで、この真の意味での哲学の基礎という問題は、現在にいたっても、少しでもその解明が進んでいるとはいえない。このため、自然科学をはじめとして生理学、心理学といった実証科学がここまで積み上げてきた厳密な成果を、あるいは現代の論理学や数学の厳密さによって、このような認識の可能性の問題はいずれ解けるのだ、と思いこんでいるような人には、この本のモチーフをうまく受け取ることができないかもしれない。さらにまた、現代流通している懐疑主義にはまりこんで、およそ厳密で普遍的な認識など存在しないと主張してすませている人々は、いうまでもない。
これらの人々は、自分がたまたま入り込んだ学説の正しさをはじめから疑う理由をもたないか、あるいはそもそも認識の普遍性といったことをはじめから真剣に考えてはいないからである。ここで私が提起しようとしている問題は、哲学の深い本質をつかもうとし、そのために、いかに“端緒の問題”が重要かを理解する人間にとってのみ、まさしく“自分の問題”として受け取られるはずである。》
Epilogue of ‘Complete decoding of The idea of Phenomenology’