『〈在日〉という根拠』韓国版序文
「政治の道と文学の道
この本で私は、李恢成と金鶴泳というほぼ同世代の在日作家を取り上げた。この二人は、当時の在日青年がぶつかって思い悩むアイデンティティの問題の、二つの典型的な道を象徴している。大きくいえば、ここでの中心テーマは「民族か同化か」というアイデンティティ問題である。そしてまた、その背後には、日本の戦後文学がずっと抱えてきた「政治と文学」という問題がある。
この本を書くことで、私は、なんとか自分の進むべき方向を見出したのだが、その後、しばらく文芸批評の仕事を続けたあと、途中から哲学へと方向転換した。その理由は自分の中でははっきりしている。
私が二人の在日作家の中に見ていたものは、これを大きな枠組みでいえば、つぎのような問題である。近代社会では、多くの青年は、伝統的倫理から離れて自由な思考の力によって自分の生き方のロマンと理想を求める。そして、象徴的にいえば、そこに二つの大きな道がある。「政治」の道と「文学」の道である(いまはもっと多様化しているが)。
多くの若者は、「政治」(=社会正義)の真実や「文学」の真実を追求することを通して、自分の内的モラルの基準を形成してゆく。しかし、そこには必ず“複数の真実”が存在する。そしてそれは政治の正しさや文学の正しさについての鋭い「信念対立」として現れ、ある場合には、激しい酷薄な抗争を生むことさえある。
多くの若者が、青年期に社会と人間の真実と理想を強く求めることは、近代社会に固有の現象である。しかしこのロマンと理想についての「信念対立」は、しばしば互いの存在を否定しあうような激しい闘争にまでつきすすむ。この、「信念対立」をいかに克服できるのかという問いが、自分の中で解きえない一つの難問として生き続けていたのだが、私にとってこの問題を解くカギが、哲学のほうから現れてきた。というのも、まさしくこの諸理想の「信念対立」という問題こそは、近代哲学における隠れた中心問題だったからだ。
そもそもヨーロッパの近代は、カトリックとプロテスタントの深刻な信念対立をその大きな動因とした。つぎに宗教的信仰と理神論・啓蒙主義の対立、さらに、宗教と哲学、国家と宗教、政治の諸イデオロギー、最後に「政治と文学」といった対立がつぎつぎに現れた。これらのそれぞれの場合で、人々は、その真実をめぐって激しく対立を繰り返してきた。要するに、自分がはじめにぶつかった在日のアイデンティティ対立の問題が、近代社会のあらゆる場面で演じられてきた、青年のロマンと理想の本質的な問題の一コマであったことが理解されてきたのだ。
さて、この本を出してから30年ほどたって、いま私がどんな場所に立っているかについて率直な感想を書いてみたい。
この問題は、現在ではもはや切実性を失っているように見えるかもしれない。しかし、理想やロマンの信念対立という問題は、社会の政治的葛藤がきびしいときには先鋭な形をとるが、それがゆるむと背後に後退してやや曖昧な形になるだけで、その基本型はいまも変わらないのだ。現在それは、社会的理想の喪失や内的なモラルの根拠の曖昧さの意識として、すなわち若者にとっての自由と理想の希薄さについての曖昧な危機意識、という形をとっているように思える(おそらく村上春樹の文学はそれを象徴している)。
1980年代に日本にポストモダン思想が入ってきた。それははじめマルクス主義のドグマ主義に対抗する新しい思想として登場した。マルクス主義は、政治と文学の信念対立を先鋭化するような大きな原因だったから、ポストモダン思想はこの問題を解きうる希望の思想のように私には見えた。しかしそれは勘違いだった。私の立場からいうと、ポストモダン思想は、残念なことに、この対立の問題を解く原理をもっておらず、むしろそれを再演するものだった。
私は、むしろ、近代哲学の思考(とくにヘーゲル、ニーチェ、フッサールなど)のうちに、この問題を本質的に解きうる可能性を見ている。それについての示唆深い例を、ひとつだけおいてみたい。
ヘーゲルの『精神現象学』に、「批評する良心と行動する良心の対立」というユニークな概念がある。「行動する良心」は、自分の個別性を軸としてそれを普遍性にもたらそうとする近代の倫理精神である。これに対して、「批評する良心」は、むしろまず普遍性を足場として自分の個別性を実現しようとする。そして両者は、その資質のちがいによって対立し、互いに、自分のほうにことがらの本質があると主張して相手を批判しあい、その対立を克服する原理を見出すことができない。
行動する良心と批評する良心の概念は、政治と文学の対立にきれいには重ならないが、しかしここでヘーゲルが示している良心の対立の構造は、近代精神のロマンと理想の対立の本質をみごとに示唆しているように思える。
「政治」の道は、自分の生き方を社会的な正しさに一致させようとする道である。これに対して、「文学」の道は、自己のロマンと真実にしたがう内的な自由の意識を、実存のもっとも重要な核とみなす。「政治」の人間は、「文学」が自分の内的自由にとじこもることを非難し、その政治的反動生を糾弾する。「文学」の人間は、政治の信念を検証されないイデオロギーとみなしてこれに抗弁する。芸術は人間の内的な自由精神の表現だから、上位のどんな観念にも規定されたり拘束されてはならない、と考える。
ヘーゲルの示唆にしたがえば以下のようになる。近代精神は、倫理の根拠をもはや宗教的絶対性にはおけない。そのためにそれは、必ず、自己存在の個別性とその社会的普遍性という二つの契機の分裂の構造を経験しないではいない。人間の資質がどちらの契機に軸足をおくかで理想の信念形式がきまり、真理は一つであるという暗黙の確信が、それを宥和しえない激しい対立にまでもたらす。しかし問題なのは、この対立がほんとうに克服不可能なものかどうかを徹底的に吟味することであって、どちらが正しいのかという真理主義的思考や、すべての信念は相対的でしかないといった思考は、誤りであるだけでなく、有害なのである。
日本の「政治と文学」の問題については、私なりにずいぶん深入りしたのだが、ヘーゲルのこの思想に出会ったとき、哲学の原理的な思考というものの力に震撼された覚えがある。
自分の古い本についてざっくばらんな感想を書こうとして、ひどく面倒な話になってしまった気がするが、このまま序文にかえたい。韓国でいま文学や芸術についてどのような議論が交わされているかは知らない。しかし、政治や芸術の理想の問題は、近代社会では、必ず青年が内的モラルを形成するための最も大きな入り口であり、さまざまな問題がそこからわき上がる源泉である。私が経験してきた文学や哲学の問題もそれとは無関係ではないから、ここから何かをくみ取ってくれる読者もいるにちがいないと思う。