●目次
講義の思索過程-- 五つの講義の思考の歩み
A現象学的考察の第一段階
B現象学的考察の第二段階
C現象学的考察の第三段階
講義一
1 自然な思考感度と自然的態度の学問
2 哲学的(反省的)思考態度
3 自然的見方における認識反省の諸矛盾
4 真の認識批判学の二重の課題
5 真の認識批判学は認識の現象学である
6 哲学の新次元、科学に対立する哲学固有の方法
講義 二
1認識批判の出発点、あらゆる知識を疑うこと
2デカルトの懐疑考察にならって絶対に確実な地盤を獲得すること
3絶対的所与性の領域
4再論および補足、認識批判学の可能性に対する反対論の論駁
5自然的態度の認識の謎、超越
6内在と超越、両概念の区分
7認識批判学の第一の問題、超越的認識の可能性
8認識論的還元の原理
講義 三
1認識論的還元の遂行、一切の超越者の排去
2研究の主題、純粋現象
3絶対的現象の(客観的妥当性)の問題
4単一的所与性へ限定してはならない 現象学的認識は本質認識である
5〈アプリオリ〉の概念の両義性
講義 四
1志向性による研究領域の拡張
2普遍者の自己所与性、本質分析の哲学的方法
3明証の感情説批判、自己所与性としての明証
4実的内在の領域へ限定しないこと、すべての自己所与性が主題である
講義 五
1時間意識の構成
2本質の明証的所与性としての本質把握、単一的本質の構成と普遍性意識の構成
3範疇的所与性
4象徴的思考内容そのもの
5最も広範囲の研究領域、認識による対象性の諸様態の構成、認識と認識対象性の相関関係の問題
A 現象学的考察の第一段階
まず、およそ認識の可能性についての根本原理がうち立てられていない以上、そもそも根本的な認識学は可能だろうか、という疑問がありうる。しかし、その可能性はあるのであって、認識原理が疑問にふされていると言っても、あらゆる認識が否定されているわけではない。
いずれにせよ、根本的な認識の原理論を立てるためには、はじめに、もっとも基礎的な認識の確実性の領域を確保できるのでなくてはならない。そのためにはまず、認識についての「疑う余地なき事例」に注目するとよい。
こうしてわれわれは、デカルトの「コギト」の考えをはじめの出発点とすることができる。つまり、思考(コギタチオ)(=思考作用)の存在は「疑う余地がない」からである。
思考(コギタチオ)が絶対的に与えられる、というとき、その根拠は何か。またおよそ認識が疑問ありとされる根拠は何だったか。さしあたり、「内在―超越」という対の概念を提出しよう。われわれが「認識対象」と呼んでいるものは「超越」であり、ここには可疑性がいつも付きまとっている。これに対して、コギタチオ(思考)は直接与えられている直観であり、疑わしさがない。これが 「内在」である。
この「内在」はしばしば、「実在的」な「内在」だと解釈されるが、それは誤りである。われわれが「思考は内在であり、直接与えられる」というとき、その与えられは、自然主義的な対象存在の「事実」として言うのではない。 「意識のうちに何ものかが確かに与えられ、存在していること」、つまり、「実在的な内在」と、「明証性として意識にそれ自体与えられているもの」という意味での「内在」、つまり、「自己所与性としての内在」を区別しなければならない。 前者は、それが対象「それ自身」として与えられ、存在している、ということを意味している。
だが、ここではまだ、この二つの「内在」の区別はそれほど明瞭でない。(⇒二つの内在とは、ノエシスとノエマにあたる(竹田))
だから、第一段階としては、実在的に内在(「実的に内在」)するものは、疑問の余地を与えないものと言える。だからわれわれはここを手がかりにして、現象学還元を行い、すべての「超越」的対象の定立をいったんエポケーすべきである。というのは、「超越的」なものが、いかに認識対象としてわれわれにやってくるのか、を明瞭に把握する必要があるからだ。「的中」の可能性を問う、とは、つまり、まさしく「超越的なもの」がどのような仕方でわれわれに妥当してくるかをはっきりさせることだからである。
その鍵は、つまり、諸対象が、われわれの意識の中で直観に与えられるその仕方を、本質として捉えることである。そして、そうであるがゆえに、この方法においては、自然科学的な方法、従来の科学的思考は、全く助けにならないことが分かる。
われわれはしばしば、そのような本質を取り出す方法と、自然的認識の方法を混同し、錯誤を起こす。だが、この方法の違いは原理的なものである。 「現象学還元とは、すべての超越的なもの(略)をゼロの見出しをつけて理解すること、すなわち、その実在、その妥当性を認めないで、たかだか妥当性現象として定立することを意味する。」
B現象学的考察の第二段階
われわれは、いまでは、絶対的に与えられるものは、いわゆる「諸対象」ではなくて、還元された純粋な「現象」だけだということを知っている。世界の諸対象、心理や通常の意味での「自我」なども、それ自体として与えられているわけではない。だからわれわれは、心理学、記述心理学などにももはや依拠すべきでない。
いまや根本的な問いは、「純粋な認識現象は、いかにして、自己に内在しないものに的中しうるか」というものになる。つまり、なぜ「実在的に内在しないもの」が、認識の「対象」として成立するのか、なぜ「内在としての主観」が、「超越としての客観」に一致する、ということになるのか。
現象学はこの問題をうまく解きほぐすように見えるかもしれない。しかし、ことはそう簡単ではない。純粋に与えられた諸「現象」は、いかにして、「超越」としての諸対象を生み出すのか。
このことの説明は、この「現象」の領域をただ論理的に整理し、記述するだけでは決してうまくいかない。そこで、「イデア化的抽象」(意識現象を「本質の構造」として捉え、記述する)という方法が助けとなる。この方法によってわれわれは、現象として直観的に与えられた諸対象(実在的な諸対象ではなく)を、「本質」という対象として捉え、整理することができる。デカルトのコギトの明証性と考えは、このような意味で捉えるといっそう明瞭となる。意識に直接(直観として)与えられたものは、それ自身一つの対象、「実在」としてではなく、「本質」としての対象なのであり、その与えられ自体(自己所与性)には、確実な正当性と確実性が存在している。
われわれはいまや、いわゆる実在的対象の客観性とは違った、新しい意味での「客観性」、つまり、「本質客観性」という領域を確保していることになる。つまりそれは、直観として意識に与えられることがらの「自己所与性」を、表現にもたらすという領域、すなわち「本質表現の分野」を確定することになる。
さらにつぎの問題に進もう。ここで問題になるのは、さきに示唆した二つの「内在」という問題である。つまり、「絶対的に与えられていること」と「実在的に内在すること」は同一ではないとこが分かる。ここから、「絶対的に与えられているもの」としての普遍的なものと、「実在的に与えられているもの」との区別が要請される。(⇒これは、ノエマとノエシスの区別である(竹田))
かくして、現象学還元の規定はいっそう深いものとなり、その意味もいよいよ明瞭になる。現象学の探求の領域は、これまでのどのような学的領域ともちがったものであり、それは、対象が「絶対的に与えられる」その与えられ方を探求する領域である。
だから、それは従来の客観的、本質的諸領域がどれほど懐疑の目で見られようと、それに関わらず成立しうる領域である。それは、意識という領域で、純粋に絶対的に生じていることを、つまり、そこでの「ことがら」の「絶対的な自己所与性」(ほんものの与えられ方)を、純粋に表現にもたらす、という分野だからである。
C現象学的考察の第三段階
さて、さらにつぎの課題に進もう。本質の考察は、意識に実在的に内在するもの(与えられるもの)を一般的に捉え、その本質関係を確定すればいい、というだけのものではない。「思考(コギタチオ)」は一見そう見えるように、端的に与えられているものではない。
たとえば、「音」を考えてみよう。音は、はじめ、端的にそれ自体として与えられているもののように思える。しかし、こまかくみると、「あらわれ」と「あらわれでるもの」とが複雑な関係をなしていることが分かる。つまり、一つながりの「音」は「あらわれでるもの」だが、それは、「現にいま現われ出ているもの=あらわれ」とは違ったものだ。持続としての「音」といま現時点での「音」とは違う。これをどう考えればいいか。
このことは、われわれに、絶対的な所与として二つのもの、「ノエシス」(「あらわれ=現出」)と「ノエマ」(あらわれでたもの=現出対象)のあることを示している。ここで、「ノエシス」は実的に与えられているものだが、「ノエマ」は実的に与えられているわけではない。それはいわば「構成」されているもの、と言える。
素朴な意識、つまり「直観」(的な知覚)にとっては、事象は単純で区別を含まないもののように見える。区別はただ、事象それ自体のうちに客観存在の秩序としてあるだけのように見える。しかし、現象学的な分析は、ひとつの単純に見える「直観」のうちにさまざまな区別のあることを教える。
つまり、現象学的方法によって事象の「直観」という経験のあり方を詳しく見ていくほど、われわれが所有するさまざまな対象は、またさまざまな様態で、対象として「与えられて」いるもの、つまり、「構成」されたものだ、ということが分かる。「与えられた諸対象」は、ある意味で意識に絶対的に与えられたものではあるが、しかし「実的に」与えられているものではない。「現出対象」(ノエマ)は「現出」の一部ではないし、諸現出とはべつにその「代理」として与えられたものでもない。だが、両者は「絶対不可分の関係」にある。
こうして、現象学還元の方法は、「認識」における「認識現象」と「認識対象」についての、驚くべき相関関係を明らかにする。われわれの課題は、「意識」(思考)において自らを現わすそういった相関関係のすべてをくわしく内省し、それを本質的記述にもたらすことである。
認識の対象は多様である。知覚、想像、記憶といった対象を与える意識の様態の種別だけでなく、物、ことがら、概念、諸理念、諸価値といった対象の対象性も多様である。現象学的還元は、これらの対象認識の多様性に応じて、それがどのように意識に与えられ、自らの「妥当性」をもたらすのかを、一歩一歩、つぶさに追跡していかなくてはならない。
このプロセスの中でわれわれは、はじめて、認識問題の謎を完全に解明し、十全なかたちでの認識批判が可能となり、あらゆる認識一般、学一般のもっとも根源的な基礎づけをはたしうるであろう。
○講義一
1-1 自然な思考感度と自然的態度の学問
私はこれまで、学問を「自然的態度の学問」と、「哲学的な学問」とに区別してきた。これをもう少し詳しくみよう。(⇒「自然的態度の学問」は、ここで実証主義的な自然科学を指している)
「自然的な態度」の学問は、総じて、正しい認識というものがどのような条件で可能となるかといった、「認識批判」の問題には自覚的でない。それは、感性的直観(感官知覚)から得られるデータを思考によって分析しつつ、さまざまな事象を事実として認識してゆく、という態度をとる。その土台となるのは知覚であり、われわれは事物を見たり、触れたり、聞いたりすることで、世界の中にそれらがどのようなありさまで存在しているのかを確定してゆく。またわれわれは、それらの事物の変化や相互的な関係、その法則などについて記述を積み重ねて、その全体像を確定してゆく。
われわれはまた、直接に知覚され、確認されたことがらから、未経験のことがらを推論し、類的な区分化を行い、その後で、この普遍的な区分を個々の事象に当てはめたり、またその逆の作業によって区分を修正したりしながら、絶えずこの全体的な類的区分を拡張しつつ整備してゆく。
しかし、自然的な学問においては、この作業の中で多様な分類・区分の間に矛盾が見出されたり、区分の原則や根拠についても対立が生じたりする(推論のあやまり、計算ちがい、適切な区分の失敗など)。この場合、さまざまな規定や説明の根拠が検証されるが、そこで薄弱な根拠は強力な根拠にとって替わられ、また別の形での疑義があらわれるまでは、後者が一般的な妥当性を認められることになる。
自然的な学問は、総じてこのような仕方で進展し、次第にその領域と正確さを拡大してゆくことになる。つまり自然的な学問の“認識”が次第により広大な現実世界を征服してゆくという具合に進むのだが、このとき注意すべきは、自然的な学問にとっては、現実世界は、もともとその「実在」が自明なものとして考えられている、ということだ。ここで問題になるのは、その実在それ自身ではなく、その存在の多様なあり方、諸要素、変化、諸関係、そしてそれを貫く法則、などである。そしてさらに重要なのは、このような「自然的態度の学問」の基本的な方法が、自然事物や生物についての自然科学、そして数学の諸分野における基礎方法となっているということだ(もっとも、数学の領域では、リアルな世界の多様性や諸概念の探究ではなく、それ自体として存在すると見なされるイデア的な存在の世界──数や計算といった抽象観念の世界──の探究が問題とされるのだが)。
こうして、「自然的態度」の学問(科学的認識)においてもさまざまな場面で矛盾や対立が現れるが、それはさきに見たような仕方で徐々に解決されて、徐々に認識の領域が拡大されてゆく。だが、ここでも重要なのは、この自然的学問における認識の修正と進展は、あたかも、自明なものとして実在する現実世界が、われわれに正しい認識を促しているかのような仕方で推し進められてゆくということだ。
1-2哲学的(反省的)思考態度
つぎに、自然的学問の態度と哲学的な態度とを比較してみよう。
哲学では、認識と対象の関係が反省的に考察されるが、すると大きな「難問」が現れてくる。自然的な思考では、自然科学は順調にその成果を積み重ねているから、現実(諸対象)も、またその認識の可能性も自明なものとされる。ここでは、そもそも、認識一般の可能性ということが「問題」視され、反省される理由が存在しない。たしかに、ここでは「認識」という事態もまた“自然的研究”の対象とされる。認識はほかの事象とならんで一つの自然事実とみなされ、たとえば、認識する生命体の体験という対象、つまり「心理学的」一事実として研究対象となる。いかに「心」において認識は発生し、発達してゆくか、等々。
また、別の観点から見れば、認識は「対象性の認識」(対象の対象性、つまりその意味の秩序についての認識)である。しかしここでも、自然的思考は、これを、意味一般の秩序や意味が受け取られるその形式や法則の学としてとらえる。これが「論理学」である。論理学はまたその中心テーマに従って、「文法学」「純粋論理学」「規範論理学」「実用論理学」などという領域を作り上げることになる。
しかし、「心理学」にせよ「論理学」にせよ、ここではまだ、認識の問題を「自然的な学問」として対象としているにすぎない。しかし、重要なのは、「心理学」や「論理学」が直面せずに避けてしまった、認識は本質的に「対象性の認識」であるという問題である。つまり、認識体験と認識対象、その意味、のあいだの相関関係こそ、「認識の可能性」一般という質的な問題の、最も中心の領域なのである。
1-3自然的見方における認識反省の諸矛盾
まず、それがどんな認識であれ、認識は一個の心的体験、つまりある「主観」の認識である。そしてその「主観」に対して認識されるべきもの、つまり「客観」が向き合っている。そこで問題はこうなる。
一体「主観」はいかにして、自分の「認識」と、自分の外側にある「客観」との「一致」を確かめうるのだろうか、と。
自然的な思考はこのような問題にぶつかることはない。そこでは認識と認識対象(客観)とは暗黙のうちに「一致」するし、またすべきものだった。しかし、哲学的な思考においては、まさしく、認識におけるこの「一致」が真に与えられるものかどうかが、「謎」として現れるのだ。(⇒これをはじめに提起したのはデカルト。〔竹田〕) たとえば、われわれが何かを知覚するとき、われわれの知覚がその「客観」(対象)の正しい知覚であることを保証するのはなんだろうか。知覚はあくまで知覚する主観的体験にすぎない。また知覚をもとに築かれる私のさまざまな思考も、あくまで私の主観的な思考作用にすぎない。いったい私の経験は、私の知覚と思考が存在するだけなく、そこで認識される客観(対象)もまた存在していることを、いかにして知るのだろうか。
私はこう考えるべきだろうか。認識者に与えられているのは「現象」だけであり、客観それ自体は決してわれわれには与えられない。(⇒カントの物自体説)。あるいはまた、確実に存在しているのは「自我」だけであり、他はすべて現象にすぎない、と。(⇒デカルトやバークリー) つまり「独我論」の立場が残された道だろうか。 さらにまたヒュームのように、すべての「客観」(世界)は心理的に説明できるだけで、理論的には決して確証できない、と考えるべきだろうか。もちろん、いずれの答えも満足すべきものではない。そもそも、じつはこのヒュームの心理学説でさえ、じつは「主観」という内在の領域を超え出てしまっているのはないだろうか。つまり、ヒュームは、「印象」や「観念」などをすべて内的な虚構に還元するが、一方で、「習慣」や「人間性」や「感覚器官」といった言葉で、暗黙のうちに、主観を超えたなんらかの「実在物」を想定してしまっているのでないだろうか。
しかし、そもそも、論理学の根拠そのものが疑われているとき、さまざまな矛盾の存在を指摘するによるこのような懐疑論的な認識の批判に、どのような意味があるだろうか。たとえば、一連の生物学的思想は、人間は生存競争の中で、自然に適応しつつその身体とともに知性のあり方を進化させてきた、と説く。もしこの考えが正しいとすれば、人間の論理形式や論理の法則はまったく別のものでありえたということにならないだろうか。だとすると人間の認識とは、あくまで人間という生き物の個別の「認識」のあり方、人間知性の形式に規定されたものにすぎず、世界の客観を正しく認識しているとは言えないのではなかろうか。
だがまた、このような考えにもまた矛盾が見出される。そのような「すべての認識は相対的である」と説く「見解」、つまり他の説の矛盾を突いてこれを誤謬とする「見解」自身のうちに、じつは「矛盾律」を絶対的に妥当なものとする考えが、暗黙のうちに前提されているからである。
この例が十分よく示しているように、認識の可能性という問題は、これまでいたるところで「謎」を生んできた。自然的態度の学問は、この認識の問題に直面することはなく、すべては明晰で理解可能だと考えるのだが、いったんこの問題を直視するや、ここには無数の「謎」が現れる。人間理性は、この矛盾を論理的に説こうとして結局さまざまな「懐疑論」に陥る危険にたえずさらされているのである。
1-4真の認識批判学の二重の課題
哲学の認識問題は、長くこのような矛盾に満ちた論争の場だった。われわれが目標とする哲学的な認識論の第一の課題は、まず「批判的課題」である。つまり、認識の本質について、自然的態度が陥る素朴な錯誤を批判しつつ、またここから現れる認識についてのさまざまな懐疑論の不合理をも適切に批判し、論駁すること。
第二の課題はより本質的、かつ積極的なものであり、つまり、認識の本質を究明して、これまで長く議論の的となっていた認識の意味と客観についての「謎」を解き明かすことである。またこの解明は、認識の対象性一般の本質意味(Wesens-Sinn)を適切な仕方で区分しつつ、したがって、その主要な形式性の意味を明らかにすることをも含んでいる。つまり、存在論的形式、命題形式、形而上学的形式などである。(⇒実証科学、論理学、哲学などの諸領域の本質的関係の理解、ということであろう)。
哲学的認識論はいま述べた課題を解決しなければならず、このことではじめて、あらゆる科学の自然的認識の本質的な批判の学たりうることができる。そしてこのとき、哲学的認識論は、自然科学の認識の成果を適切に理解し解釈する立場をつかむことになる。というのも、自然的認識についての反省から生じた「主観‐客観」の「一致問題」は、長く近代哲学に大きな混乱を与えてきたし、またそこから、認識についての根本的に誤ったさまざまな考えを導き出してきたからである。つまり、これらの誤った認識論的見解は、自然科学の認識を、唯物論的、唯心論的、二元論的、心理一元論的、実証主義的といったさまざまな観点で“解釈”してきたのだ。
しかしじつは、本質的な哲学的認識論が、自然的思考による科学と、哲学との明瞭な分離をはじめて可能にし、自然的態度の存在論(事物がいかに存在するか)が、むしろ哲学的な認識論を土台として成り立つことを明らかにするだろう。
哲学の中心主題は、いわば絶対的な意味での「存在者の学」だが、それは、個々の科学における、自然的態度の批判、つまり本質的な認識批判から生まれる。普遍的な認識批判が、認識と認識対象との本質関係を解明することがはじめの土台となり、それを基礎として、はじめて、本質的な「存在者の学」としての「形而上学」が成立することになるだろう。(⇒フッサールは「形而上学」という言葉を、存在の「意味」を解明する学としての哲学、という意味で使っている。伝統的な形而上学、存在の根本原理や究極原因を求める学としての形而上学ではない。)
1-5真の認識批判学は認識の現象学である
哲学の形而上学的目標を別にして、認識問題の本質を解明するという課題に焦点を当てるなら、認識批判の哲学は、認識と認識の対象性についての「現象学」でなければならず、それはまた現象学の最も基本的土台をなしている。ここで現象学とは、とりわけ、一つの独自の思考態度と哲学的方法を言い表している。
さて、現代哲学では、「すべての学問に共通な、したがって哲学にも共通する認識方法は一つしかない」ということは、決まり文句になっている。このすべての学問に共通な絶対的に妥当な認識方法が存在するはずだという観念は、近代哲学が登場した十七世紀にも人々の強い確信をなしていたのであって、じっさい哲学は、精密科学、とりわけ数学と数学的な自然科学の方法を模範とすることで自らの方法を確立してきたのだった。(⇒デカルト、スピノザ、カントなども数学や科学の論文から出発している。)
そして現在でも、最高の存在論と学問論である哲学の方法は、ただ他の科学の方法に深く関係しているだけでなく、ちょうど他の科学がたがいにその方法を基礎づけあうように、他の科学によってその方法的基礎づけをうることができる〉という考えは、支配的であると言える。じっさい、心理学や生物学によって哲学的認識論を基礎づけうるという考えが一時きわめて流行した。そして今日ではまた、このような考えに対する反動も現れている。
1-6哲学の新次元、科学に対立する哲学固有の方法
たしかに自然科学の間では、異なった学問が互いにその方法的な基礎を与えあったりすることはありうる。しかし、哲学では事情はまったく異なる。哲学は、これまで述べてきたような根本的な認識批判の学を含む以上、本質的に、この課題を解決するためのまったく新しい出発点と新しい方法とを必要としているからである。そしてこの新しい方法こそ、哲学と自然的態度の学問を根本的に区別するものと言わねばならない。また、まさしくこの事情によって、本質的な認識批判から出発する哲学は、自然科学のさまざまな方法とその成果としての叡智を利用することはできず、それらのすべてをいったん度外視しなくてはならないのだ。
さしあたり、次のようなことを考えてみよう。
本質的な哲学的認識批判に先だって存在している、いわば懐疑論的な認識批判においてさえ、さまざまな自然的態度による科学的方法は、すでにその妥当性が疑われている。ここではおよそ科学的な知見一般のみならず、とくに精密な科学の成果(数学など)ですら、認識の客観的な「的中性」一般が疑われているため、これを認識問題の根本的な反省の根拠とすることはできない。つまり「われわれの認識(主観)は、いったいどのように客観に一致するのか」という問いが、決して積極的な答えを見出せない問いとして残されている。
つまり、ここでは、正しい認識方法、認識の「妥当性」(正当性、真理性)がいかにして確保されるか、正しい認識方法とそうでないものとをいかに区別できのるか、といった問題が、解決しえない難問として現れるのだが、それと同時に、認識の対象性それ自身、という概念についての難問が現れる。つまり、それはそもそも認識されうるのか、されないのか、あるいはまた、たとえこれまで一度も認識されたことがないとしても、またこれからも認識されないとしても、そもそも原理的には認識可能であるのか、つまり何らかの仕方で知覚され、表象され、記述されうるのかどうか、ということが問題とされるのである。
だが、自然的認識から取り出され、基礎づけられている認識論上の諸前提をどのように使ってみても、それはいま見た認識の難問を解く上で、まったく役に立たないものであることが分かる。そもそも「主観‐客観」の一致問題がいったん疑問視されるやいなや、自然科学の方法がその「一致」を暗黙前提として展開されている以上、ここから、認識問題の本質を解明する根本的な知見を取り出すことが不可能であることは、まったく明らかであろう。もちろん厳密な数学や数学的自然科学といえども事情は同じである。
したがって、哲学が方法論的に、精密科学が積み上げてきた基礎方法と認識的知見を模範とし、これを継承しつつ完成させるべきである、といった考えはもはやまったく問題にならない。ここで繰り返せば、いま述べた理由によって、哲学の方法は、一切の自然的認識の方法に対して、まったく「新しい次元」に立たねばならない。それは自然的態度の学問の方法に対して、いわばいったん完全に対立的な方法として自分を立ち上げねばならないのである。哲学における認識批判のきわめて重要な意義とその困難な本質を理解するものは、必ずやこの見解に与するに違いない。
○ 講義 二
2-1認識批判の出発点、あらゆる知識を疑うこと
本質的な認識批判がここでのわれわれの課題だが、これを始めるにあたって重要なのは、これまで人間が見出してきたさまざまな認識上の知見を、一切棚上げしておかねばならないということだ。
では認識批判の哲学は、どこを出発点となすべきだろうか。認識批判の学の目的は、「認識の本質」を解明すること、具体的には、認識とその対象性との関係、認識の真理性、妥当性、的中性といった概念を、どのように規定できるのかを確定するところにある。認識批判が行なうべき「判断中止」とは、これまでの一切の人間の認識の知見を疑い、したがって認識批判の認識をも疑い、つまり疑いの態度をどこまでも貫き通す、といったことではもちろんない。認識批判の学は、これまでの認識の前提を徹底的に吟味すべきである以上、その第一の出発点(第一の認識)を、どんな既成の世界認識の知見にも頼らず、自分自身で設定しなければならない、ということなのである。
このはじめの出発点となるべき「第一の認識」は、したがって、従来の認識に含まれている(根本的な)疑わしさ(不明晰性)を持たないようなものでなければならない。そもそもこの不明晰性こそ、認識批判を開始すべき理由であるからだ。この認識の「不明晰性」とは、ある「認識されている存在」がその存在「それ自体」と一体どのような関係にあるのか、という問いにかかわっている。だからこそわれわれは、既成のどんな「存在」についての認識を前提として出発することができないのだ。
そこで、われわれが行なうべきは、にもかかわらず、何か「絶対的な所与であり疑えないもの」としてわれわれの誰もが承認せざるをえないような「存在」を見出し、そこから出発することである。
2-2デカルトの懐疑考察にならって絶対に確実な地盤を獲得すること
哲学的思考の出発点について、これに似た試みをデカルトが行なった。デカルトは、一切の存在を疑った果てに、しかし一切を疑っている「私」の存在だけは、誰にとっても絶対的に「疑えないもの」として残ることが分かる、と説いた。この事情は、私(フッサール)のいう「コギタチオ」(意識の志向性)についても同じである。私はさまざまなものを知覚し、表象し、判断し、評価するが、そこでどんな不確実性や懐疑や錯誤が現れるときでも、たとえばここでいま私に生じている「知覚」の働きそれ自身は、絶対に明晰かつ確実であることを私は確認できる。表象や判断についても同じで、その判断があいまいであっても不確実であっても、そのような判断の作用を行なっていること自身は、私にとって絶対的に確実なものとして“与えられている”。
デカルトのこの方法的懐疑の目的はわれわれとぴったり同じではないが、しかしわれわれは彼のこのアイディアを変奏しつつ利用できる。 その要点は、私が現実に行なう知覚、想像、判断、評価などの思考形態(意識の作用)は、私がそれらを“反省”しつつ、純粋直観によって、つまり直接に受け取るかぎり、それらの作用は、私に絶対的に“与えられている”、ということだ。
たとえば、私は、自分の知覚や想像や経験や判断などについて、あれこれ語ることができる。だが、私がこの自分の体験を自覚的に反省すれば、「自分の知覚や想像や経験や判断などについてあれこれ考えたり、話したりしていること」それ自体は、すぐに、私にとって一つの絶対的な所与となる。つまり、ある意識体験に没頭しているのではなく、これを反省して(自覚的に)捉えるとき、それは私に、ある“絶対的な仕方で与えられている”、と言えるはずだ。このことは、顕在的な知覚においてだけでなく、経験したことの想起や想像においてもそうである。もちろん後者の場合は、知覚はありありとした現在性としてではなく、想起され、想像された知覚として私に与えられているのだ。
私はいま、知覚と想起や想像という意識作用を同じレベルでおいたが、デカルトにならって、まず最も基本的なものから、つまり「知覚」の絶対的な所与性から出発すべきであろう。
2-3絶対的所与性の領域
右に述べたことを簡潔に言えば、あらゆる意識体験は、単に体験されるだけでなく、純粋直観と純粋把握の対象として(明瞭な自覚のもとに)反省的に捉えることができるが、このとき、この「体験」はわれわれに“絶対的に与えられている”(絶対的所与性)、ということにほかならない。
われわれは、一つの「体験」の反省において、この体験がどのような体験であり、他の体験とどう関係し、またその与えられ方がどうであるか、等々について思考することができる。しかしこの思考や判断は、まさしく現に与えられている反省されている「体験」の絶対性にたえず立ち戻る仕方で行なわれる。
たとえば、私は一つの「知覚」体験をもちながら、これを反省的に把握しつつ、その所与性や性格、その存在の「意味」などを思考することができる。(⇒フッサールは『イデーン』でこれを詳細に行ない、ありありとした明証、射映、顕在性‐潜在性、背景直観の庭、コギタチオ‐コギターツム、内在‐超越、といった性格と構造を取り出した。)また「知覚体験」だけでなく、「スペチエス的な思考形成体」(対象が示す概念的な意味)も、私がそういった対象を反省的に把握するかぎり、それは顕在的にであったり、想像的にあったりするが、私に「絶対的に与えられている」のである。
つまり、われわれが、自分の「知覚」や「想像」や「判断」や「思考」を反省的に捉えるとき、それはそれぞれの「絶対性」において私に“与えられている”と言うことができる。だからこそわれわれは、知覚や想像や判断や思考といった意識作用を、異なったものとして捉えており、またその特質を自覚的に表現することができる(つまりその本質を取り出すことができる)。もしそうでなければ、どんなものも、われわれに絶対的に与えられているものはないことになるだろう。
こうしてわれわれは、さしあたり右のような仕方で、「絶対的所与性」の領域を確定したことになる。そしてこれこそ、認識批判の学にとって必須の出発点なのである。本質的な認識批判の学は、認識を心理学的事実に還元したり、認識を可能とする自然条件を確定しようとしたりするのではない。つまり認識の事実を実証的学として確定するものではなく、あくまで認識の「本質」を解明する学だということに十分注意しなければならない。
2-4再論および補足、認識批判学の可能性に対する反対論の論駁
ここまで見てきたことを大きく確認しよう。自然的思考の学問は、認識(主観)と対象(客観)の「一致」を確信しているので、ここに重要な認識論上の問題を見出したりしない。しかし、実際にさまざまな認識や諸理論の対立という形でこの「一致」の原理的な困難が意識されるや、これに対処する方法がまったくないことに気づくことになる。自然的学問は、はじめから暗黙のうちに主客の一致を前提しているため、この問題を打開する方法を持たないのである。
まさしくこのために哲学的な認識批判の学が必要となる。そして哲学の重要な目的の一つである、存在の意味と本質を問う「形而上学」の可能性も、じつはこの認識批判の試みの成否にかかっているのである。だが、認識批判の学は、既成の自然的態度の学問の認識ありよう自体を疑問にふしているのだから、見てきたように、既成の学の認識の知見を利用することはまったくできない。だが、これまでのどんな認識の知見も無効であるという立場から、いったい認識批判の学は、どのようにしてその始発点を設定することができるのか。
私はすでに、認識批判の学が、どんな既成の認識にも依拠せず、「自分自身の認識」から出発することが可能であることを示唆した。つまり、デカルトの考察を手がかりに、これまでの認識の謎に巻き込まれない「第一の認識」を、絶対的に明晰で疑いようのない「コギタチオの明証」と呼ばれるべき領域として示した。繰り返せば、反省的に捉えられた「意識体験」は、それがどんな種類の体験であれ「絶対的な所与性」として考えてよい、ということ、つまり認識の「内在性」(内的な与えられ)は誰も疑えない絶対的なものである、というのがその「第一の認識」にほかならなかった。
そこでつぎに私は、この「認識の内在性」が、懐疑論の徹底的な懐疑を免れるものであり、しかもあらゆる認識一般の最も基礎的で必然的な出発点であること、またそれがゆえに、認識批判の出発点を心理学など既成の「超越」の学の領域から借りることはまったくナンセンスであることなどを、さらに論究しようと思う。
ちなみに、「あらゆる認識が謎であり、絶対的な確証の根拠をもたない以上、認識批判論の出発点となるべき認識もはや徹底的懐疑を免れない」といった懐疑論の論理について、私はこう言っておこう。これは明らかに虚偽の論証だが、それは用語の曖昧な一般化から生じている。認識一般が問われている、とは、認識一般がまったく否定されるべきということではありえず、そこに一つの重要な、解けない「謎」が存在するということにすぎない。その「謎」とは、はじめに示しておいた「主観と客観」の「的中性」の謎(つまり自分の「主観=認識」から出られない以上、いかに「私」は自分の「認識」と客観との「一致」を確認できるのだろうか、という謎)である。
だが、もし私が、どんな懐疑もそこでは成り立たない絶対的に「確実な認識」を見出すことができれば、それを認識批判の第一歩とすることができるのである。そしてまさしく先に述べた「内在的認識の明証性」こそ、そのような「第一の認識」であることが、これからやがて明らかになるはずである。
2-5自然的態度の認識の謎、超越
認識の可能性の問題において、何が最も中心的な「謎」を一言でいうとすれば、つまり「認識の超越性」ということになるだろう。つまり、すべての自然的態度の学問が真理とみなすのは、「超越的な客観」を定立することである、と言える。そして彼等は、すべて定立されたこの「超越的なもの」を客観的な存在者と考え、そうして自分の「認識」はこの客観に一致していると主張するのである。しかしこのことをもっと深く考えてみよう。
2-6内在と超越、両概念の区分
いま私は「超越」という概念を使ったが、これはさしあたり二重の意味で受け取ることができる。
第一の「超越」とは、認識対象が、“認識作用(体験)のうちに実的には含まれていないこと”を意味する。ここでは、意識体験のうちに実的に与えられているものが「内在」、そこから構成されるものが「超越」である。だから、認識の問いは、ここでは、「いかにして体験は自分自身を超え出るのか」という問いになる。あるいはいかにして体験は、自分を超え出て対象を構成するのか、という問いが問題となる。
「超越」の第一の意味は、「認識対象が意識体験のうちに“実的に”含まれていないこと」だった。第二の意味は、「認識が、意識に真の意味で与えられているものを超え出ていること」である。つまりここでは、「超越」の概念は、「絶対的で明晰な所与性」としての「内在」に対立する。 繰り返すと、第一の「超越」は、単に「意識の中に実的に含まれていない認識」を意味し、第二の「超越」は「絶対的で明晰な所与性を超えた認識」を見する。あるいは第一の「内在」は意識に実的に含まれているもの、であり、第二の「内在」は、意識に与えられた絶対的で明晰な所与性、を意味する。
認識の問題は、第一の場合には「いかにして体験はいわば自分自身を超え出るのか」という問いになり、第二の場合には、問題は「いかにして認識は、自分のうちに直接的に真に与えられていないものを存在する対象として定立するのか」という問いになる。
本質的な認識批判が展開される前には、この二つの内在と超越の関係ははっきり区別されず、そこで、「いかにして体験は、自分を超え出て実的に与えられていないものを認識するのか」という問いを立てるものは、第二の「なぜ認識は、明証的所与性を超えるものを認識として形成するのか」という問いをその中に含ませている。つまりこのとき、人は、「認識作用のうちに実的に含まれているものだけが、唯一の絶対的に与えられているものである」という暗黙の前提をおいている。だから彼には、超越として形成された一切の認識が疑わしいものに見える。だがもちろんこのような前提が誤ったものなのである。
2-7認識批判学の第一の問題、超越的認識の可能性
「超越」の概念は、いま述べたどちらかの意味で理解されたり、あいまいなままだったりするのだが、ともあれこの「超越」の問題こそ、認識批判の問題の中心テーマなのだ。あるいはこの問題こそ、普遍的な認識批判の学の重要な入り口となるだろう。
さらに、このことは、なぜ「超越的」な学問、客観的諸学問がこの認識批判の問題では利用できないのかをはっきり示している。そもそも認識問題の中心は、客観的学問が獲得してきた認識は、「超越」としての認識だが、この「超越」が「客観それ自体」にいかに的中(一致)するか、またそれ的中していることをいかに知りうるかが、厳密には決して把握されない、という問題にあるからだ。
おそらくつぎのように言う者もあるだろう。たしかに認識問題には、そのような「謎」があることは確かだ。だが、「的中(⇒主観‐客観の一致)がいかにして可能か」を厳密には言えないとしても、自然科学が自然世界を客観的「事実」として認識してきたこと自体は絶対に確実である。理性的人間なら、誰もこのことを疑わない。主観‐客観の一致の問題は、懐疑論者の作りだしたレトリカルな難問にすぎない、と。
しかしわれわれはこれに答えてつぎのように言おう。客観的学問がいかに自分の認識に自信をもっていようと、その認識は「超越」としての認識であり、これによっては認識批判の問題に答えられず、したがってそれは「認識論」の基礎となることは決してできないと。
繰り返し言えば、認識論(認識批判)の中心問題は、およそわれわれの認識は、突き詰めれば「超越」であり、認識論においては、「いかにして超越的認識が可能なのか」ということ自身が謎であり、解かれていない、という点にある。だが、客観的諸学の論理はこういう。なるほどそれは謎かもしれないが、「超越的認識」(客観的認識)は現実的に獲得されている。それゆえ「超越的認識は可能である」、と。ここでは、問題の核心が解かれないまま残っていることは明らかである。
客観科学に欠けているものは明白である。客観科学が自分は「超越者」を認識している、と言うとき、それは「客観それ自体」を認識しているという意味である。しかしじつは、彼の「超越者」とはあくまで彼の「主観」のうちで作り上げられたものにすぎない。客観科学はそのような認識の構造本質、つまり「主観‐客観」の「一致」(的中)の問題の本質を理解できず、したがってこの問題の核心が彼には不明晰なのだ。もういちど整理すると問題はこうなる。認識(主観)と認識対象(客観)は別のものだ。認識はわれわれに直接与えられているが、認識対象(客観)は直接には与えられない。にもかかわらず、認識(主観)と認識対象(客観)は、一致しなければならない。この可能性をいかにして理解できるか。
私の答えはこうなる。この認識(主観)と認識対象(客観)の“本質関係”そのものがわれわれに直観されるなら、つまり直接に与えられるなら、われわれはそれを理解できる、と。だが客観的学問はこのようには考えず、獲得された「認識」(超越)からこの関係を理解できると想像する。しかしもちろんそれは不可能である。
もし客観的学問がいま述べた考えを理解するなら、彼は、認識問題における「主‐客の一致」の難問を理解し、彼が客観認識と考えているものが、一つの「超越」にすぎないことを認めるだろう。すると、問題は、「客観的認識がいかに可能か」、ということから「なぜわれわれは超越にすぎないものを客観認識と考えてしまうのか」ということへ変わる。これがまさしくヒュームがとった道である。
しかし、ヒュームの問題はいったんおき、われわれはいま見た問題の構図をもっと簡明にするために、こう考えてみよう。
生まれつき耳の聞こえない人も、音の存在や、その組み合わせ、ハーモニーなどによって素晴らしい芸術の存在することを頭では理解できるが、しかし“いかにして”音がハーモニーを作り、芸術を作るかは理解できない。なぜなら彼はこの「いかにして」を、知識としてはもっても、自分自身の直観で、つまり“直接与えられる”形ではもてないからだ。この場合音や音楽についての「知識」は「超越」であり、「いかにして」は「絶対的な所与性」である。
われわれの中心課題は、まさしくこの「絶対的な所与性」と「超越」との関係の本質を理解することだが、客観的学問は「絶対的所与性」を欠いたまま、獲得された「超越」だけから、この関係の本質を認識できると考えるのであって、これは不可能というほかはない。
何度も言うが、このような理由によって、客観科学の知識からこの認識問題の本質を解くことは決してできない。この問題の解明のためには、まったく新しい考え方、根本的に新しい発想による知見から出発する以外にはないのである。
2-8 認識論的還元の原理
その根本的に新しい発想を、わたしは「認識論的還元」と呼ぼう。
重要なのは、この問題に踏み込むためには、それが事実の領域ではなく、「意識の本質」の領域の問題であることをはっきり自覚すること、つまり「認識論的還元」が不可欠であることだ。(⇒つぎの主著『イデーン』で「現象学的還元」「超越論的還元」という概念へと展開される) 「認識論的還元」とは、要するに、「超越」としての認識に「排去」「無関心」「無効」の符号を付けること、それを正しい認識であるとする判断をいったん“棚上げ”(中止)しておくような符号をつけることである。(⇒『イデーン』では、「判断中止」「エポケー」「括弧入れ」の概念となる。)
この本質的認識論の領域では、人はしばしば他の類への「メタバシス」を行なう。(*⇒「メタバシス」は、「他の類への移行」。フッサールでは、異なった領域へ論点を移動し、異質な論理を混同すること。) つまり、現実的な領域と理念的な領域を混同し、事実の領域と本質の領域を混同する。このことが本質的な認識批判の学において最も重要な錯誤の原因なのである。本質的な認識論は、あくまで「意識」(主観)の内的本質の認識こそが問題なのに、人はこれを客観的事実の認識と誤認し、混同し、結局どこにも行き着くことができないのである。
講義 三
3-1認識論的還元の遂行、一切の超越者の排去
ここまでの論究で、本質的な認識批判論において何が基礎づけとして利用されず、何が利用されうるのかが明らかになった。われわれは、これまでの客観的学問の知見を前提とすることはできず、ただ「コギタチオネスの全領域」、意識作用、あるいは意識の「内在」の領域だけをその出発点とすることができる。なぜなら、この領域には「絶対的な所与性」(絶対的に与えられていること★)が存在するからである。この「絶対的な所与性」の領域を「純粋現象」と呼ぶと、「純粋現象」とは、誰もがその確実性を認めざるをえないような仕方で「意識」の中で生じている事象のことだと言える。
すでに述べた「認識論的還元」とは、この純粋現象の本質を取り出す上での哲学的な方法であって、これによってわれわれは、「コギタチオの明証」(意識における絶対的な所与性)と、「思惟存在者としてのコギタチオの明証」(=われ考える、ゆえにわれ存在する)との混同を防ぐことができる。言いかえれば、現象学的な「私」という「純粋現象」と、心理学的な「私」という現象との差異をわれわれははっきり意識せねばならない。心理学的な「私」は、「われ考えるゆえに、われは存在する」、あるいは「考える私とともに、私のさまざまな判断、認識、感情も“存在”する」と考える。つまりそこでは、意識のうちで生じるさまざまなコギトの作用は、“客観的な時間”の中で“実在的に、そして客観的に存在する何か”、と考えられてしまうのだ。
このような意味で把握された「私」「私の意識」「私の意識作用」は、すべて「心理学的事実」である。つまりそれは現象学的には、すでに「超越」として把握された「認識」なのである。だが認識批判の本質論は、この「超越」と「内在」(絶対的な所与性)との本質関係を究明する課題をもつのであり、そうであるかぎり、このような心理学的事実(超越)としての「私の心」という観点は、あらかじめ「判断中止」されねばならないのだ。
3-2研究の主題、純粋現象
こうして、認識批判においては、一切の超越的知見は「判断中止」されねばならないことの理由がはっきりした。「還元」の観点をいったんとれば、世界のうちに客観存在するものとしての「自己」「私」、また私の知覚、感覚、感情、判断、といったものの存在は、すべて「超越」であり、つまり一個の形成された信憑である。現象的な認識批判の観点は、私のこの自然な「超越」(信憑)(私について、また客観的世界についての)が、どのような構造において“構成”されるのかを確証すべきであるだから、もはやそれらの存在を自明のものとして前提することはできなくなる。
現象学的態度をとり、つまり一切の「超越的知見」、客観的な存在確信の前提をいったん中止し、まったく臆見を交えず、「純粋現象」すなわち意識の「内在」の領域でなにが生じているか、あるいはどのような仕方でそこからさまざまな対象性の認識(超越=確信)が構成されているか、を意識の「内的本質」が「与えられているがままに」に取り出すこと、これをわれわれは「現象学的還元」の視点と呼ぼう。
だが、われわれが現象学のこの新しい土地で足場を固めて挫折しないためには、さらなる対処、配慮が必要である。というのも、この領域には、さまざまな困難や難問が潜んでいるからだ。また、これまで述べてきたことがらは、認識批判(理性批判)という観点から取り出された考察だが、適切な変奏をほどこせば、単なる認識批判という枠組みを超えて、およそ現象一般に妥当するものである。
さて、この問題について私が定立した哲学的基礎は、すなわち「絶対的な所与性」の領域を確保し、ここから出発せよ、ということである。しかしわれわれの立場は、ほんとうに根底的だろうか。つまりすこしでも「絶対的所与性」と言えないものを含んでいないだろうか。このような疑念を克服するには、問題の領域を、内在的な「純粋現象」の領域にしっかり限定しなければならない。つまり「絶対的な所与性」だけを認識対象とせねばならず、それが「純粋意識」の領域なのである。
(★⇒ コギタチオ、意識作用、内在、純粋現象、絶対的現象、純粋意識は、ニュアンスの違いはあれ、すべて同じ意味。そこで絶対的な所与性が現れている領域。フッサールはしばしば同じ意味を多くの術語で表現するために、理解がきわめて困難になっている。)
繰り返すと、われわれは「超越」(客観認識)から出発することはできない。「客観認識」が超越であるかぎり、われわれの意識には、それに対応する「対象」それ自身は与えられていないからだ。われわれが現に多くの「客観認識」を作り上げている以上、問題は、「認識の超越性」、つまりなぜ絶対的な所与性をもたない「客観認識」がそれとして確信され形成されるのか、ということである。「客観認識」の妥当性(⇒確信)については、「純粋現象」の内部でそれに対応する何かが生じているのである(★)。 (「なんらかの仕方で超越者を思念すること、はやはり現象の内在的性格なのである。」70 )
こうしてますます、認識の問題にとって、「純粋現象」「内在」の領域こそが根本的な領域であることが分かる。認識は「超越」(構成された信憑)である。この構成の本質を理解することこそが、さまざまな学問の基礎づけや、学説の混乱や対立の根拠を理解する上で必須の課題なのである。そうである以上、「超越」(客観認識)一般を構成するその根本的領域であり、また「絶対的な所与性」が与えられている「純粋現象」以外に、われわれの正当な出発点は存在しえないのである。
3-3 絶対的現象の「客観的妥当性」の問題
こうして、ここで現象学は、純粋現象の本質論として、あるいは純粋認識の本質論として企てられている。だが、ここでも一つの難問が見出される。そもそも「あらゆる学問は、それ自体に存在する客観性の論定を目指し、さらにそれによって超越者に到達するのではなかろうか?」71 (⇒どんな学問もその認識対象の客観存在を確認し、そこからその対象の「正しい認識」の把握を目指すものではないだろうか。) だとすれば、学問の本質には、必ずその認識対象の客観性(客観存在)の確定、ということが前提されており、そのことによって、学問の普遍妥当性というものが根拠づけられているのではないだろうか?
だがわれわれの「純粋現象学」においては、この問題はどうなるのだろうか。われわれの探究の「分野」は、ふつうの学問の領域とはかなり異なっている。つまりそれは「ヘラクレイトス的流れ」=「つねに流れゆく意識」という独自の領域である。いったいこれをどのように記述すべきだろうか。
たしかにそれは「存在」している。そしてたとえば私は、それを、「このこれ!」と言ったり、「この現象は、あの現象を部分的に含んでいる」とか、また「これはあれと結合している」とか「流入している」とか言ったりできる。だが、これらの述定は、それが妥当だとしてもすべて「主観的」な真理にすぎない。およそ普遍的認識が、「客観的」なものとされるかぎり、現象学における「純粋現象」はそもそも「主観」のうちの領域であり、ここで把握されたものが、いったいいかにして「客観的」「普遍的」な認識である資格をえられるのだろうか。
諸君はここで、カントの知覚判断と経験判断の区別を思い出すかもしれない。(⇒カントでは感性が、知覚的直観を受け持ち、悟性がこれらを綜合して概念的判断にもたらす。) 純粋現象から「超越」の構成のありようを把握しようとするわれわれの試みは、たしかにカントのそれと似ているが、しかしカントには、現象学的還元という発想はなく、そのため、十分にわれわれの言う「心理学的態度」を克服できなかった。だがもとあれ、ここで重要なのは、主観内の事象の探究がいかにして客観的に妥当な判断となりうるか、ということである。
つまり、それが現象学であれ、学問というからには、客観的な妥当性の根拠をもたなければならないと考えたくなる。だが、そもそも学問的な妥当性というものは、いかにして獲得されるのだろうか。
ここで、つぎのような疑問が現れてくる。ます、「客観性には超越性が付随しているのではなかろうか。」73 つまり、われわれが客観認識と呼ぶものは、どれも必ず、意識の内在の絶対的な確実性を「超越」しているのでないだろうか。あるいはまた、そもそも「超越」とは何を意味するのか、等々。
現象学は、「客観認識」の可能性を認識論的に問題とし、これを確かめるために、認識論的還元を行なって超越論的前提を排除する。しかし、認識論としての現象学に、認識対象の「客観性」を確認する(「超越論的論定」を行なう)どのような方法と権利があるのか。外的な客観認識の妥当性を確かめるために「超越的存在」についての判断中止を行なうというが、しかし「客観性には超越が付随する」かぎり、現象学はいかにして、認識の「客観性」(普遍性)の根拠を確証できるのだろうか。ここには現象学の根拠自体を危うくする循環があるように見える。
だが、この循環は虚偽の循環にすぎない。われわれは先に二重の意味での「内在」と「超越」の区別を確認したが、このことのうちに、すでにこの問題を打開するカギが存在していた。
デカルトは、まずコギタチオ(意識)の明証(われ考えるゆえにわれ存り)をまず論証した上で、私にこのことの本質的な根拠を与えるものは何かと問い、「明晰、判明な知覚」がそれである、と答えた。われわれはこのことの意義をいまではデカルト以上に明確につかんでいる。つまりコギタチオの領域には「絶対的所与性」が与えられているということだ。こうしてわれわれはデカルトにならって(神の証明やその誠実性については留保したほうがよいが)、この絶対的な根拠から少しずつ前進すればよいのである。
つまりこういうことになる。われわれは「純粋コギタチオ」(純粋意識、「内在」)の所与性が、絶対的に疑いえないものであることを確認したが、しかし外部知覚による「外的事物」の存在は、これを絶対的所与性と認めるわけにはいかない。
つまり、「知覚がどのようにして『超越者』に的中しうるか」はわれわれには原理的に理解できない。
しかし一方でわれわれは、「知覚がどのようにして内在者に的中しうるか」は、純粋に内在的な反省によって理解することができる。なぜか。現象学的内省において、われわれは自分が直観し把握しているもののありようを、直接的に、絶対的に知ることができるからだ。
総じて、われわれの主観的「認識」がほんとうに「客観」に一致するのかどうかを疑うのは無意味なことではない。しかしわれわれの「内在」に“いま現に与えられているもの”を把握しつつ、なおこれを疑うのは無意味である。つまり、このわれわれの「意識」にそのつど与えられてくる内在的「直観」は、どんな場合でもつねに、われわれの世界体験の最も根底的な土台であり、これこそが、あらゆる認識のいちばん基礎にある「絶対的自明性」なのである。
これに対して、超越存在についての思念や確信(客観認識)は、原理的に、決して絶対的に与えられたものではなく、必ずじつはそうでないかも知れないという“可疑性”をもっている。もちろんにもかかわらずさまざまな「客観認識」が妥当なものとして成立している。しかしそれは認識批判の問題においては、われわれの立場の反証にはまったくならない。
3-4単一的所与性へ限定してはならない 現象学的認識は本質認識である
さて、ここでもう一つの重要な問題を提起したい。それは、見てきたような絶対的自己所与性(→絶対的所与性と同じ)、絶対的自明性といったことは、はたして、「このこれ」と言われる個別的な直観においてのみ現れるのだろうか、あるいは、別の所与性、つまり「普遍性」(概念や理念)が絶対的所与性として与えられることはないのだろうか、という問題である。
意識作用(コギタチオ)における「絶対的所与性」の確定がどれほど重要な卓見だとしても、われわれがそれを個別的直観(知覚、想起、想像、感情など)だけに限定するなら、すべてその妥当性を失うことになりかねない。われわれはいま私に現前しているコギタチオ(知覚、想起、感情)について、それは絶対的に与えられているということはできる。しかしこれを「還元された現象一般の所与性が(★⇒だけが?)、疑いえない絶対的所与性である」という命題へ一般化することはできない。
よく考えてみれば、現象学的に反省された意識作用(還元された「コギタチオネス」)をわれわれが一つの判断として「命題化」するとき、そこでじつは「意識作用」の直接性をすでに“超え出ている”ことが分かる。たとえばわれわれは「この判断にはこれの表象の現象がある」とか、「この知覚にはこれこれの色彩内容が含まれている」と述定する。このような述定はすでに一つの論理形式であり、したがって「絶対的な所与性」それ自体ではなく、個別的な直観による「絶対的所与性」を超えた何かがそこに現れている。
3-5〈アプリオリ〉の概念の両義性
したがって、ここで問題になるのは、「単に個別性ばかりでなく、普遍性も、すなわち普遍的対象や普遍的自体も」絶対的自己所与性になりうる、という新しい認識である。そして、この認識は、現象学の可能性にとって決定的な意義をもっている。
なぜなら、現象学は、本来、純粋直観の領域における、「本質分析」あるいは「本質研究」を最も重要なテーマとするからだ。(⇒「本質」は、現象学では、意味、あるいは理念的存在という意味をもつ。) ここで見てきたように、現象学は認識批判から出発する。しかし、現象学はその最も重要な課題を、「認識の可能性や価値づけの可能性を解明する」ための学問という点にもつ。 この意味で、現象学は、普遍的な本質研究の学と見なされるべきなのである。
本質分析とは、「類的分析」のことであり、本質認識とは、つまり「普遍的なもの」「普遍的な対象性」についての認識を指す。あるいはさまざまな普遍的なものがどのように与えられ、どのようにその妥当性をうるのかについての「本質学」こそが、現象学の本領なのである。つまり「アプリオリな認識」とは、類的な本質に向けられ、しかも、それについての純粋な直観からのみ取り出された本質についての学であり、ここにこそ、もっとも正当な意味での「アプリオリ」の概念がある。
ただし、特定の意味で呼ばれる「範疇」(カテゴリー)やその本質法則をも「アプリオリ」と呼ぶなら、それは少し異なった意味をもつ。
しかし、この第一の意味での「アプリオリ」にくわえて、理性の批判を、理論理性だけでなく実践理性の批判にまで広げて考えれば、その目標は、第二の意味での「アプリオリ」にまで広がる。つまり基礎的な「自己所与性」の理論を土台にして、その上に成り立つ、論理学や倫理学、価値論といったより高次の意味や理念の存在の本質構造についての学の地平が現われることになるだろう。
講義 四 (要約)
4-1 志向性による研究領域の拡張
《要約》
なにより重要なのは、認識の本質をとらえるには、「客観」が存在するという前提をいったん取り払い、ただ、「主観=意識」の領域だけを考察すること。その中で生じている事態を内省によって直接観て取ることである。しかし、事象をありのままに観て取るのではなく、そこで、いかに「認識」が成立するのか、つまり、「内在」からいかに「超越」(妥当=確信)が成立しているのかを、意識の本質関係として記述することが必要である。
われわれはすでに、〈内在意識〉のうちで、何が「実的」な要素であるかを見てきた。さらに、ここには、実的要素(コギタチオ)--志向的対象性(コギターツム)という構造を見出すことができるが、この二つの契機の関係をよく分析し理解することが、最も重要である。この両者の関係を理解することは、認識の“本質構造”を理解することだからである。
したがって、この現象学的探究は、決して単に、意識の体験流の中で現われては消えてゆく個々の意識事象の記述ではない。むしろそこで生じている「本質的諸存在」の研究、つまり、どのような意味や普遍的なもの、また構造が見出されるか、が問題となっていることを理解せねばならない。
4-2.普遍者の自己所与性、本質分析の哲学的方法
《要約》
われわれの認識において、必ず「普遍的なもの」、つまり「意味」や「概念」、「理念」という要素が現われてくるのだが、それらは果たして、「コギタチオ」(個的な知覚など)と同じ意味で、「絶対的所与性」といえるだろうか。
厳密な意味では、それらは、個的直観(知覚)のように、意識の中に「現に見出されるもの」ということは難しそうに見える。つまり「意味」や「概念」などは、〈内在意識〉に実的に存在しているものというより、一つの「超越」したものではないだろうか。
これに対して、私はこう答えたい。「普遍的なもの」「諸意味」は、たしかに、意識の中での実的要素ではないという意味では、「超越的」性格をもつといえなくない。しかし、われわれの考察において本質的なのは、何が「絶対的な所与性」として確定できるか、ということであって、「実的」か否かということが決定的ではない。 「普遍的なもの」はたしかに「実的」な要素とはいえない。しかし私の観点からは、それらはやはり「絶対的所与性」として意識に与えられている、といえるのである。いま、実例で考えてみよう。
いま私は、たとえば一枚の赤い紙を見ている。この意識を内省によって確認してみよう。細かく見れば、一間枚の赤い紙は、まったく一様に「赤い」わけではなく、そこにはいろんな「赤さ」の部分がある。しかし私はその「赤」の多様を抽象して、それを一枚の「赤い紙」と知覚する。つまり、ある対象の色として、「赤一般」という「意味」を直観しているのだ。この「赤一般」がここでいう「普遍的なもの」、「意味」として“与えられた”直観である。そしては、私の意識に原的に与えられている「絶対的所与性」というほかないものだ。
別の例をあげよう。たとえば、いま濃い「赤」の紙とうすい「赤」の紙を見ているとする。このとき私は、二つの赤は同じ赤ではないが、しかし色として同じ「赤色」である、と観取する。この場合「これはどちらも赤だ」、は、一つの「一般的なもの」「意味」の観取であるといえる。そしてこれもまた、「絶対的な所与性」といえるのだ。
その理由は以下である。この「これは一枚の赤い紙だ」、あるいは「どちらも赤だ」という直観(⇒「意味の直観」、『イデーン』では、本質直観eidetic seeing )は、「赤い色」の知覚直観と同じように、それ以上「この赤の意味は何か、その本質は何か」と問うことが無意味であり、そのまま受け取られるほかない、一つのオリジナル(原的)な直観である、というほかないからである。
さて、いま上げたことはまだ単純な例であって、われわれの「認識」はもっと複雑なさまざまな相を含んいでいる。したがって、「認識」一般の本質構造を総体として記述するには、さらに詳細な研究が必要である。
しかし、それがどのように複雑な研究を要するとしても、そこで最も基本の原理となるのは、あくまで、いま見たような、〈内在意識〉を直接見てとる現象学的な「本質分析」であることを忘れてはならない。
こうして、いま例をあげた「現象学的還元」という方法(「イデー化的方法[ルビ=イデアチオン]」)こそ、現象学の根本的基礎方法であり、またこの方法だけが、認識と理性についての本質的な批判を可能にするものである。そしてこの本質的な認識批判を通して、われわれは、はじめて哲学の最も本質的な主題に踏み入ることができるだろう。(⇒本質学のことを示唆している。)
4-3.明証の感情説批判、自己所与性としての明証
《要約》
いま私は、「普遍的なもの」「意味」の直観もまた「絶対的な所与性」であることを見てきたが、これをここでは、「明証」という言葉で呼んでみよう。
さしあたり、「明証」とは、『実際に直観し、直接かつ十全的に自己を把捉する意識のことであり、このような意識は、まさに十全的な自己所与性』である、といってみよう。(⇒「生き生きとした〈意味〉が充実的に現われてくる意識」というべきもの。)
かつて哲学的な経験論者たちは、意識における「絶対的に明証的なもの」を基礎づけようとして、生き生きとした「感情」がそれを教える、と説いた。しかし、現象学的な内省を遂行すると、この説は本質的ではないことがすぐに分かる。
たとえば次のような例をみよう。いま私は、「2×2=4」という判断を、単に記号的な表象「ににんがし」として、単にぼんやり思い浮かべることもできる。また「2かける2は、4である」という明晰で能産的な判断として遂行することもできる。このとき、どちらも論理的には同じ「判断」だが、その実質は大きく違う。
さきの明証感情説では、この二つの判断の違いを適切に説明することはできない。現象学的に見ればこうなる。後者の判断は、「2×2=4」という数学的論理を明晰に直観しつつ、その妥当性を充実的に再確認している。ところが後者では、私はその数式を単に表象している(思い浮かべている)、つまり「空虚に志向している」だけである。
別の例をあげよう。一方で私は、ある赤い色の対象を、生き生きした知覚の直観として見ることができるが、他方、なんとなくぼんやりと「赤い色」を思念することもある。ここでも、感情の違いが本質的な問題ではない。 現象学的には、前者は、個的な知覚直観としての「赤い色」が意識に与えられているが、後者では、その「表象」(想像的表象)が与えられている。つまり、対象の「所与性」が本質的に異なっており、感情的ありあり性はその「結果」にすぎないことが分かるだろう。
すなわち、意識のうちで「事象」(対象)が自らを与えてくるその仕方、つまり事象の「自己所与性」が、その対象の「明証性」を決定する。
このように、事象の自己所与性(自らを与えてくる仕方)こそが、それが「明証的」であるか否かを決定するのであって、それにつきまとう感情がそれを決めるのでないことは、もはや誰にも理解できるだろう。
ところで、われわれが問題にしていたのは、「普遍的なもの」「意味」もまた、ありありとした直接的な「所与性」として、「明証性」としてわれわれに与えられている、ということだった。そしていまわれわれは、まさしく「普遍的なもの」(意味、概念、理念といった)もまた、個的な直観と同じく、絶対的な「明証性」をもつといえることを確認した。これがさしあたりの結論である。
4-4.実的内在の領域へ限定しないこと、すべての自己所与性が主題である
《要約》
個的直観だけでなく、「意味の直観」もまた絶対的明証性をもつことを見てきた。しかし、そのことの意味をもっと考えてみよう。
つぎのような例を考えてみよう。一方で私は、じっさいに赤いリンゴを見ながら、その「赤い色」の特質について語ることができる。他方、私はリンゴを見なくても、リンゴの赤い色の感じについて語ることができる。このとき、わたしは、いくつかの種類の「直観」をもっていることになる。整理すると以下である。
@「赤い色」の直接的な知覚直観、
A「赤色」の直観から「意味」をとり出す直観(直観の直観)、
B 想像された「赤い色」の直観、
C この、想像的直観の直観、(想像された「赤い色の知覚」からその本質を観取すること)
そして、これらのどれも、すべて「絶対的な自己所与性」だといえるのである。
さて、懐疑論者なら、これらすべてが「自己所与性」だということを否認するだろう。とくに「一般的な意味」を取り出す直観(AとC)は、われわれがあとでつけ加えたものにすぎず、自己所与性とはいえない、というだろう。
しかし、逆に、これらが「自己所与性」ではないとするとどうなるかと考えてみよう。いまあげた四つの「直観」は、われわれがふつう事物の存在を確証する上で不可欠な「直観」であって、どれを欠いても、われわれはごく素朴な事物の存在確信さえもつことができないのだ。これらが、決して恣意的ではなく、動かしがたく向こうから与えられてくる直観であるからこそ、われわれは問題なく、事物の認識や確証をもつのである。ともあれ、われわれが絶対的な所与性と、そうでないものとの区別項を内在的にもっていることは決して疑えない。もしそうでないのなら、われわれは「現実」と「非現実」、「存在」と「非存在」との区別をまったくもちえないからだ。
懐疑論者は、すべての確実性を否認するが、じつは彼らも、事物や世界の存在について疑っていない。彼らはその(⇒世界確信の)理由を考えようとはせず、ただ、主客の一致が論理的にはありえないことを言いつのるだけなのだ。
だからこれ以上懐疑論者に講義しても無駄というものだ。というのは、誰も、懐疑論者から、じっさいには彼が見えているものを見えていないという自由を取り上げることはできないからだ。
ともあれ、われわれは、あくまで認識の妥当性の本質的根拠として、「絶対的自己所与性」の概念を堅持してゆくほかはない。
さてしかし、つぎの重要な課題は、いったい「絶対的自己所与性」と呼べるものの範囲を本質的に確定することである。(⇒『問題は「絶対的自己所与性がどの範囲まで及ぶか、またそれがどこまで、ないしはどのような意味でコギタチオネスの領域や、コギタチオネスを類的普遍化する普遍性の領域に拘束されるか」という点である。』立松訳)
われわれはすでに、個的直観だけでなく、「普遍的もの」「意味」の直観もまた「自己所与性」であることを確認してきた。だが、この「普遍的なもの」は、きわめて多様な層と形式をもっているから、これを学的に、明瞭に区分することは決して用意なことではない。
そこで、われわれが「現象学的還元」の方法の本質を十分によく理解していないと、必ず、明証性の範囲を見誤り、超越的なものを「内在的」であるとするさまざまな間違いに陥ることになる。
この方法の基本を整理すると以下のようになるだろう。
@「絶対的自己所与性」の概念の堅持
A 直接的直観の内省と確定、そこから「類的なもの」を観取すること。
B しかし、それだけでなく、より多くの「対象性」があることを理解すること、それらはすべて、「所与性」(事象の与えられ方)によって区分されること。この所与性の本質を観取、記述し、適切に区分すること。
講義五
5-1時間意識の構成
5-2本質の明証的所与性としての本質把握、単一的本質の構成と普遍性意識の構成
5-3範疇的所与性
5-4象徴的思考内容そのもの
5-5最も広範囲の研究領域、認識による対象性の諸様態の構成、認識と認識対象性の相関関係の問題