加藤典洋追悼 「魚は網よりも大きい」
加藤典洋が亡くなった。いろんな想いが押し寄せてくるが、気を取り直して何か一つのことは書いておきたいと思う。
加藤と私は、いわばほぼ同期生として文芸批評の世界に入った。『早稲田文学』1981年8月号に竹田の「金鶴泳論」と加藤の「アメリカの影」がともに掲載され、それがわれわれの実質的な出発点となった。加藤はその後文芸批評家の道をまっすぐに進んだが、私のほうはやがて文学から離れ哲学の道に進んだ。しかし、われわれは文学的にどこまでも盟友だったと思う。批評を書くことが、ある"陣営"に属さないわけにいかない事情がそのころはっきりとあった。
日本の批評界では、戦後から続いていた「政治と文学」と呼ばれた一つの中心的問題があった。大雑把にいえば、文学は政治的にも"進歩的"でなければならないという考えと、文学は文学として自立的であるべきという考えの対立である。しかし当時、マルクス主義の退潮もあってこの議論はほぼ終焉しかけていた。「コムデギャルソン論争」と呼ばれた吉本隆明と埴谷雄高の論争は、その最後の残光のように見えた。そして間もなく、日本の批評界は、ポストモダン思想という新しい思潮に覆われることになる。
ポストモダン思想がもたらした新しい文学(批評)理論は、テクスト論と呼ばれる。たとえばロラン・バルトに代表されるこの理論の要諦は以下である。テクストの背後に作家の意(意味)を見出してはならない、むしろその表層から作品のエロスを読み取ること、そこに批評のエッセンスがある。本来、この理論は、作品の背後に作家の社会観や政治観を読むマルクス主義的文学理論への批判として現われたのであり、きわめて理にかなった理論といえる。しかしこの理論はやがて、テクストの背後に作家の「意」を読む代わりに、多様な解釈を、たとえば作家が属する社会の権力性や支配の構造を読み取れ、という方向へと変質していった。誰でも知っているが、文学を、近代国家やそのイデオロギーの装置として"読み解くといったことが、批評にとっての流行となった。この事態は、文学批評にとって、あの「政治と文学」の問題がいぜんとして最も中心的問題として生き続けていることを、われわれに教えたのである。
加藤典洋の批評の中心は、さしあたり、『アメリカの影』以来、『敗戦後論』、『戦後後論』から、遺稿となった『9条入門』にいたる、日本の「戦後問題」についての独自の考察にあったように見える。これは文学批評の正道から少し逸れていると思えるかもしれない。しかしこれらの仕事を通覧すると、彼の仕事の動機が、一貫して、文学における「政治の思考」に対する、「文学の思考」の立場からの対抗としてあることが分かる。
前者の立場はいう。文学は政治や社会や道徳などといったものに決して還元されえない、これが「文学の思考」の常套句である。しかし近代の文学が人間と社会との本質的な関係性の上に成り立つ以上、このような考え自体、一つの政治的立場とならざるをえない。これに対して「文学の思考」は抗弁する。政治の思考は、どこに社会の「正しさ」があるかをめがける努力であり、たしかに、この努力なしに政治の思考の命はない。しかし文学の思考は何が「正しいか」を未決にしておく。そして、テクストから、それが「よい」文学か否かだけを受け取り、それを自前の言葉で語ることを命とする。もしテクストのエロスを「正しさ」の言葉で語るなら、批評は「正しい文学」と「誤った文学」についての単なる分類学となるであろう。そしてそのことで、批評の豊かな命は枯れてしまうだろう。
ある"思想的"批評家を評した加藤の印象的な言葉。
「しかし、やっぱり、世界はそのようには成立していない。網は魚をつかまえるが、一尾の魚のもつ世界が網よりも大きくなければ、もともとその網が存在しないからである。」(『批評へ』)
政治(あるいは思想)の思考は、文学を、たとえば"反戦"や"芸術的抵抗"といった「正しさ」の網でとらえようとする。だが、「正しさ」についての明確な網をもたないものは、よい魚を捕まえられないだろうか。否、文学という魚が生きる世界は、つねに「正しさ」の網よりも大きい。これが加藤の確信である。文学の世界は、何が社会や人間において「正しい」のかという問いには相関しておらず、人間の深い悲しみや喜び、生きる理由、その切望に相関しているからである。一人ひとりの人間の「生を深く感じる力」に相関しているからである。
加藤典洋の「戦後問題」を読むものは、ここに、戦後日本についての社会的思想的考察ではなく、まさしくそうした文学の問題が貫かれていることを理解するに違いない。そこに見て取れるのは、いうならば、「正しさ」の明確な基準をつかめない人間にも、それをもてないまま、にもかかわらず人間と社会の「ほんとう」に近づきうる道が存在するのでなくてはならない、というきわめて独自の文学的信念である。
テクストをただ自分の感度においてのみ読み、政治や思想のリトマス紙によって判定しようとする時代の趨勢にあらがうこと。加藤典洋は、われわれの時代、この批評の原則を最も優れた文学の言葉で示した代表的な批評家だった。そのことで、気がつけば、彼が、小林秀雄、江藤淳、吉本隆明といった日本の文芸批評の正統を継承する批評家の列にその名を連ねていることが分かる。
加藤典洋が存在しなければ、この問題を、つまり、われわれの現代にとって文学のもつ存在理由とその意味を、これほどにも深く展開し、顕在化させ、人々に見させる批評家が、ほかに現れただろうか。