「『精神現象学』完全解読」
(未改定稿)特別公開




●はじめに
●緒論
●自己意識より「主奴論」


●はじめに

 哲学者の主要著作を“完全解読”するという試みの結果については、いろんな考えがありうると思う。文学テクストの完全解読などというものがあるとすればかなり滑稽なことだろう。哲学の解読も一つの解釈を出ない以上、これに類するものと考えることも可能である。しかし、もし現在、長い歴史をもつ哲学の知の意義と価値が大きな誤解にさらされ、ごく少数の専門家の間での“謎解き”の対象にすぎぬものと見なされて、一般の人間の世界と生の知見からまったく分離されたところで囲い込まれている状況が存在するとすれば、あえて危険を犯してこのような試みを行なう余地はあるように思う。
 現代は、反哲学の時代である。コントを出発点とする近代実証主義(社会学を含む近代の社会科学)、マルクス主義、プラグマティズム、現代言語哲学(分析哲学)、現代思想、これらが十九世紀の半ば以降現われた「近代哲学」への批判思想だった。この流れはもちろん現在も続いている。この流れの中で、現在中心的に流布しているのは、哲学は「形而上学」にすぎないとする誤った批判か、あるいは逆に、哲学は形而上学の場所に棲息するほかはないという衰弱した考えのいずれかである。われわれの考えからは、双方ともに哲学の理解としては恐ろしくゆがんだものというほかはない。そこで、われわれは、これを一般の人々の判断にゆだねようと考えたのである。

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 わたしはこの完全解読の仕事をヘーゲルの『精神現象学』からはじめるが、その理由は、ここには近代哲学の知のもっとも重要な精髄が存在すると考えるからだ。
 一般的には、ヘーゲルは近代哲学の完成者にして最大の哲学者であると言われている。だがそこには同時に、ヘーゲルは、近代観念論哲学、そして主観主義的形而上学の完成者であるという逆の評価も含まれている。わたしと西研もまた、ほぼこのような想定から、ヘーゲルの徹底的な解読と批判を目標として解読をはじめたのだった(1995年前後)。しかし読み進むうちに、われわれの想定は完全に逆転されていった。すなわち従来の一般的なヘーゲル評価とはまったく逆のヘーゲル像が浮かび上がってきた。おそらく、われわれの理解では、むしろヘーゲル的な思想の観点と方法が、近代実証主義の素朴客観主義や、マルクス主義の決定論や、分析哲学およびポスト・モダニズム思想の方法的相対主義の限界へのもっとも本質的な批判となっているのである。
 このことはわれわれを少なからず驚かせた。しかしもっと重要なことは、ヘーゲル哲学の基本性格についての像がわれわれの中で刷新されたことである。

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 われわれがはじめに持っていたヘーゲル批判のポイントは、第一にスピノザを継承した有神論的世界体系理論の完成者であること。これはヘーゲルが、「世界とは一体どのような存在であるか」という問いに完全な理性的推論によって答えようとする完全に形而上学的哲学者であることを意味する。そしてまさしくヘーゲルはそのような体系を打ち立てていた。第二にヘーゲルは、「国家」を「人倫」原理の担い手として個人的「自由」の上位におくことで、近代ナショナリズムのもっとも強力な哲学的擁護者であるということ。これも「国家」を「市民的自由」の上位に立つ「人倫」原理とみなすという点ではその通りである。
 つまり、この二つのヘーゲル批判の論点はそれ自体誤解ではない。しかしわれわれの見解は、ヘーゲル哲学のもっとも重要な核心点が、まさしくこの批判の観点によって完全に覆われてきたというものにほかならない。ヘーゲル哲学の決定的に重要な核心点は、ふたつ。
 第一に、「近代」とは何か(人間の「歴史」とは何かを含む)という問いに対する哲学的な解釈論、つまり歴史哲学である。そしてこれは、とうぜんながらヘーゲル独自の近代社会の本質論、つまり社会哲学を導いている。
 第二に、ここから近代的人間の本質論、そして人間存在の本質論が導かれている。それは主として、人間関係の哲学的原理論として打ち立てられている。
 そして、重要なのは、ヘーゲルではこの二つの領域、社会哲学と人間本質論とが、完全に有機的な形で結合されている、言いかえれば人間本質論がまさしく社会理論の基礎をなすという仕方で両者がリンクされている、という点である。

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 われわれは十数年のへーゲル購読を通して、このヘーゲル思想の基軸とその連繋を十分に理解したと考えたが、するとまた、このヘーゲル的観点と方法が、本質的に、近代実証主義(近代の社会科学)、マルクス主義、分析哲学、現代思想がもつ人間思想、社会思想としての限界を超え出るものであることを理解せざるをえなかった。
 もういちど言うと、ここでは、象徴的に言えば(ヘーゲルの論行は必ずしもそうなっていない)、まず人間本質論つまり人間的欲望の本質論がおかれ、ここから人間関係の本質論が立てられ、さらにこれが歴史論に展開され、そして近代社会の基本理念に達するという仕方で進んでいる。この「本質論」はヘーゲル独自のものであるが、また哲学の方法に独自のものであり、近代の実証主義(マルクス主義を含む)や論理相対主義による批判理論(分析哲学や現代思想)とはまったく方法を異にしている。
 われわれはそれぞれこれをヘーゲル論としても提示した(西研『ヘーゲル・大人のなり方』、竹田『人間的自由の条件』ほか)。しかし何と言っても、ヘーゲルがほんとうにそのような説を提示しているのかどうかふつうには判読不可能である。そこで、一般の読者の理解と判定にも委ねたいと考えたのである。
 
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 ヘーゲルを少しでも読んだことのある読者は、その異様なほどの難解さに驚いた経験があるに違いない。なぜこれほどヘーゲルは難解なのか、そして自分なりに解読するためにどのような方法があるのかについて少し示唆しておきたい。
ヨーロッパ哲学が突然難しくなったのはやはりカントから(『純粋理性批判』)。そのあと、ドイツ観念論哲学はたちまち抽象語と概念語だけでできた隠語のような文章になり、どれだけ難しくできるかの競争のようになった感がある。当時の大学生は人口の数%にすぎなかったろうから、普通の人に理解できる配慮の必要もなかったのかもしれない。
ヘーゲルでは、これに加えてヘーゲル自身が作った独自のナラティヴ(話法、文法)がある。そして、自分の説を展開してゆくのに、すべてをこの自分だけの話法=文法に折り込んで語る。だからヘーゲルを読むには、いわゆる“ヘーゲル語”に一定習熟しなければならない。このやっかいな話法は『大論理学』で詳細に展開されているので、ヘーゲル語になじむには、『大論理学』(少なくとも『小論理学』)を読んでおく必要がある。ところがこの『大論理学』がまた『精神現象学』に輪をかけて難解ときている。
というわけで、われわれも『精神現象学』を解読するために、結局、『大論理学』、『宗教哲学講義』『歴史哲学』『哲学史講義』『美学講義』など、ヘーゲルの主要な著作を回り道して読むはめになった(わたしの考えを言うと、『大論理学』は哲学としてはもう使い道がなく過去の遺物であるし、『宗教哲学講義』や『歴史哲学講義』はばかげた神学体系で、そこから哲学の精髄を取り出すことはほとんどできない。根っからのヘーゲル学者になろうとするのでなければすべて『精神現象学』の注釈くらいに考えてちょうどいい)。
 ともあれ、そういうわけで『精神現象学』はそのまま読もうとしても無理で、必ず一定のツールが必要なのである。

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 まず、かなり多岐にわたる重要なヘーゲル語(概念)を理解しておく必要がある。たとえば「概念」という言葉は、単なる概念の意味で使われる場合から、運動否定を積み重ねて矛盾を統合してゆく運動の本質としての「概念」までいくつかのニュアンスがあり、場合によってそれを読み分けねばならない。ふつうわれわれが使う「本質」は、ヘーゲルでは「本質」「概念」「理念」というより高次の審級をもっている。弁証法も、普遍性-特殊性‐個別性という類型だけでなく、特殊性‐個別性‐普遍性、あるいは普遍性‐個別性-その統合といったタイプでも使われる。
 そういうわけで、ヘーゲルを読むには、なにより余計なヘーゲル語法をいわば小骨を取り分けるように横に取り出しつつ進むという作業がどうしても必要となる。この完全解読と『精神現象学』を併読するなら、その処理作業のツボが必ず理解できると思う。

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 われわれの立てた方針は、元のテクストの難易度を、多少哲学に興味のある大学生ならまず誰でも読めるほどのところにまで解読するというものだった。電車の中でも、ソファで寝ながらでも読めるはずである。途中で多くの概念や論理にひっかかるとは思うが、通読すれば必ずヘーゲル思想の全体像をつかめるように配慮してある。

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 しかし、一つ重要なことは、先にも述べたように、本来、哲学のテクストに“完全解読”というか客観的な解読というものはありえないということだ。そこで、この“完全解読”は、隅から隅までという意味でも、ヘーゲルの意を完全に“翻訳した”というのでもない。むしろ、逐語的には、単純な誤読もあるだろうし、もっと適切な理解を見いだせる箇所も多くあると思う。
 しかしわれわれがこれを“完全解読”としたのは、ヘーゲルを詳細に購読するうち、われわれの中にヘーゲル理解の一つの一貫した観点が成立し、全体としてこの書に謎めいたところがなくなり、いわば霧が晴れたように『精神現象学』のエッセンスを捉えたと感じたからである。この感覚がなければわれわれはこの“解釈”、“翻案”を、「完全解読」と名づけることに大きな躊躇をもっただろう。
 これをもう少し具体的にいえば、『精神現象学』のテクストには、歴史哲学(歴史の意味本質の解釈)、人間精神の本質論、近代社会の基礎理論、宗教理論、そしてヘーゲル独自の世界存在論といった要素が絡まりあって一本の縄としてあざなわれている。われわれはこの諸要素のそれぞれの核心を理解し、またこの絡み合いから現われるヘーゲルの思想動機というものを理解できたと感じた。そしてここにわれわれは「哲学」という方法原理の新しい希望と可能性を見出した。まさしくこのことが、われわれに“完全解読”といういわば常識はずれの作業を促したのである。
 
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 そんなわけで、この“完全解読”は、基本的には西、竹田による一つのヘーゲル解釈であり、ヘーゲル論でもある。というより、おそらく一つの一貫したヘーゲル理解がなければ、このような解読はそもそも可能ではなかったろう。しかし、そうはいってもわれわれは、この解読が哲学のテクストを読むという行為のエッセンスを損なわないように最大限の配慮を払った。
 ヘーゲルのテクストをもっと平易にかみ砕くこともできたし、もっと多くの注をつければ、理解としてはさらに平明になったはずだ。しかしこれについては一定のバランスが保たれていると思う。つまり、解読文はかなりの程度ヘーゲルの文脈と語法を残しており、“解読”を通読することを通して、誰でもヘーゲル思想から自分なりの理解と解釈を取り出せるようになっているはずである。

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 最後にこれは二人による執筆だが、べつべつのものではない。われわれは『精神現象学』の主要部分を、この十年ほどの間に、おおまかに言って三度一緒に購読した。二人の考えはそのつど相互に触発しあい補いあっているので、ほとんど区別できないほどになっている。この意味で、この解読は、西と竹田による共解釈と言えるように思う。しかしまた、それぞれが受け持つ部分は明確に分かれているので、二人の個性や重点の違いも読み取れるはずである。
 

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 最後に、解読の作業は、多くの先人の仕事に大きな恩恵を蒙っている。ここですべてをあげることができないが、まず四人の『精神現象学』の訳業がある。金子武蔵氏、樫山欽四郎氏、長谷川宏氏、牧野紀之氏。これらの先人の大きな仕事がなければ、われわれはとうてい現在の一貫したヘーゲル理解に達することはできなかった。ほかにイポリット、コジェーヴ、フィッシャー、加藤尚武氏などのヘーゲル理解もつねに大きな示唆を与えてくれたことを記しておく。
 
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 ヨーロッパの知の歴史の中で、「哲学」という独自の動機と方法は、この一世紀のあいだ、さまざまな事情によって知の地平から姿を消していた。われわれの時代の課題は大きく重い。哲学の本質的思考は、この課題を切り開く新しい一歩になるかも知れない。われわれは『精神現象学』の哲学としての精髄をもう一度一般の読者の前におき直し、その判断に委ねてみたいと思う。


⇒範例

*用語は基本的に金子武蔵訳に対応させた。

*(→  )は解読者の補助 (⇒は補説) ▲「引用文」 ★引用解読

*解読度を【A】詳細解読、【B】要約的解読、【C】簡潔解説解読、【D】概説、に区分した。
 ただし、解読の詳細さには多少ばらつきがある。 (章尾解説については説明必要なし?)

*各章の冒頭には「章頭解説」をつけた。

(ページ数: 独原文のもの )


緒論   【A解読】                   

〔一 絶対者のみが真なるもの、真なるもののみが絶対〕 

 哲学において真に存在するものを認識するさい、まず「認識」(あるいはその認識方法)について厳密に研究しておく必要があると考える(表象する)のは自然なことだ。このときわれわれは認識を、それを通して「絶対的なもの」(絶対者)を捉えたり見たりする「道具」とか「手段」と考えているのである。
 このようにまずはじめに認識の方法が正しいものかどうかを懸念するのは、もっともなことに見える。ある認識方法がその認識対象に適切かどうか、また、認識一般が何らかの限界を持つのでないかといったことを確定しておいてはじめて、正しい認識に到達できる可能性がつかめる、と考えるのは妥当なことだからだ。
 じっさいこの憂慮は、「認識」と認識されるべき「絶対的なもの」、つまり対象そのもの間には決定的な境界がある、という考えを生みだしてきた(⇒カントの「物自体」など、『純粋理性批判』での認識対応説批判)。すなわち、認識が「道具」だとすれば、それは対象そのものを加工することによって変形してしまうし、また認識がなにか受動的手段(=媒体(→媒質))で、それを通して真理の光を見るようなものだとしても、その場合でも、この真理は媒体を通して見えたもので真理自体ではない、というわけだ。
 いずれにしても、認識をそのような「道具」や「手段」と考える限り、われわれは「対象そのもの」には到達できない、という議論になるのである。
 これに対して、道具の働き方をしっかり把握しておきさえすれば、この難点も克服できるのではないか、という説もある。われわれに見えたものから、この道具の働き方の部分を差し引けば、「対象それ自体」が残される、というわけだ。しかしそんなことは錯覚で、形成されたものから道具の作用を差し引けば、はじめに手にあったものが残されるだけだと言うほかはない。
そこでまた、認識は「鳥モチ」のようなもので、「対象そのもの」を変形せずそれをただ手元に引き寄せるだけである、という考えもある。しかしそんな言い方は、結局、認識の正当性といった問題を言葉の上で回避しているだけで、捉えられるべき絶対者がいるとしたら嘲笑するに違いない。また認識を「媒体」とイメージ(表象)し、それは真理の光線を屈折させるもので、その屈折のあり方を差し引けばよいといった考えもあるが、これも無意味であることはさきに触れたとおりだ。
 このように認識問題についてさまざまな議論があるわけだが、一方で学的な認識が(自然科学の形で)現に立派に成立していることを考えると、こういった議論は学(→科学)に対する不信を意味するが、そもそもこのような「不信」自体になぜ疑義が呈されないのだろうか。
 この認識への不信、恐怖には理由がある。まず認識と観察主体であるわれわれを切り離し、認識を「道具」や「媒体」であると“表象”した上で、一方に対象である「絶対的なもの」を置き、もう一方にそれと分離した形で「認識」を置く。まさしくこのような認識と認識対象の絶対的な分離の考えこそ、認識への憂慮、恐怖の考え方が生じる特質なのだが、これは「誤謬に対する恐怖」(間違うことへの恐れ)というより「真理に対する恐怖」(真理をつかむことへの恐れ)と言うのが、相応しいだろう。
 このような結論は、「絶対者のみが真なるもの、言いかえると真なるもののみが絶対である」(⇒認識はこの「絶対的なもの=真」を捉えるうるか、捉ええないかのどちらか)という考え方から出てくるのである。
 これに対して、ある認識は必ずしも「絶対的なもの」の認識でなくても「真」でありうる、という考え方をとるなら、あるいはまた認識は、絶対者の把握にはいたらないが、一般的な事物の認識としては可能である、という考えをとれば、上のような結論は否定される。
 ともあれ、次第に明らかになるが、このような認識問題にかんするさまざまな議論は、「絶対的に真なるもの」と「相対的に真なるもの」との区別がまだあいまいにしか把握されていないために生じているものにすぎない。ここで論者たちが「絶対者」とか「認識」などと呼んできた語は、まだ深い概念規定を得ていないままなのだ。
 

〔二 現象知叙述の要〕

 こうして、認識を「道具」や「媒体」と考える(表象する)ことからくるさまざまな議論は、総じて無用のものである。むしろ「認識」と「絶対的なもの」の絶対的な分離自体が、そのような「表象」に由来している。だとしたら、そのことから現われている難問に解答を与えようとする努力自体、無駄なものではないだろうか。そこで使われている「絶対的なもの」「認識」「客観的」等々の言葉自体、十分検討されたものと言えないし、。そういった「表象」にすぎない考えは、真の「学」が登場するあかつきにはすぐに消え去るもののように思えるからだ。
 だが、真の学(⇒真正なる哲学のこと)が登場してくるといっても、それは他のさまざまな「知」のありかたと並んで現われるわけで、すぐさまその「学」の優位性が明らかになるわけでない。真の学が己れの存在にかけて、自分こそ「真」であると断言しても、このように「断言」することは他の知にも同じ権利があるわけだから、双方が相手を現象にすぎないと言えるわけだが、そのことでは自己の真理性を主張できない。重要なのは学はこのような「仮象」から自由になろうとするが、そのためにはまさしくこの「仮象」に立ち向かわなくてはならない、ということだ。ある哲学が、他の知を蒙昧として自分の学の独自性を「断言」するようなことをしても無意味であるし、もう一方で、真実に達していない知であっても自分のうちには「より善き知への予感」があるなどと主張することも無力である(⇒金子注によると、ここはシェリング哲学とフィヒテ哲学が想定されている)。それはいわば一方は存在自体に、一方は己れ自身に訴えているのである。後者の場合、己れの真のありかた(即かつ対自的ありえた)に訴えているのではなく、まだ十全とは言えない「己れの現象」に訴えているにすぎないからである。ともあれ、このような事情から、われわれとしては「現象知の叙述」をこそ必要としていると言わねばならない。


〔三 叙述の方法〕  

〔(1)進行の仕方と必然性〕

 『精神現象学』は「現象知」だけを対象とする。だからそれは、いわゆる学問固有の(⇒客観的な学のことか)形をもつ自由な学とはちがったものになるだろう。われわれの「現象学」の立場からは、ここでの叙述は、自然な(素朴な)意識が、徐々に真実の知にまで高まって行くその全道程をくまなく描くものだと言える。言い換えれば、「魂」が自分の本性にしたがって自己自身の可能性をすべて経験してゆくことで、本来的な自己了解にまで到達し、そのことで、(全体としての)「精神」にまでいたるその道程である。(▲「言いかえると、魂(ゼーレ)が己れの本性によって予め設けられている駅々としての己れの一連の形態を遍歴して行き、その結果、己れ自身をあますところなく完全に経験することによって、己れが本来己れ自身においてなんであるかについての知に到達して、精神(ガイスト)にまで純化させられるさいの道程であると、この叙述は見なされることができるのである。」金子訳80→原著ページに置き換える?)
 このプロセスをへてはじめて自分の知が真のものでなかったことを知るのだが、自然な意識ははじめはもちろんそのように思わないために、この道程は否定的なものに見えるし、ある面では自己喪失的な事態としても現われる。またこの道程は、自己意識にとって自己の真理(であること)を喪失するプロセスでもあり、だからそれは懐疑や絶望の道程でもある。
 この過程では、どんな獲得された知も繰り返し「じつはそうでなかった」という現象を反復するため、その意味でこれは徹底的な懐疑主義の道程であるとも言える。真理と学とに対する熱い思いは、しばしば、どんな権威によらず一切を自分で吟味しつくそうとする決心の形を取るが、(▲「即ち彼らが学においては権威に基づいて他人の思想に屈従するのではなく、一切を自分で吟味し、さらに進んでは自分で創り出し、ただ自分の業のみをもって真理と考えようとする決心」81) しかし真理への道は、懐疑の真なる徹底を必要とするのであって、そのような決心だけでは十分ではない。この一切の既成の権威を排して内的な確信だけに依拠しようという決心は、そのことだけでは学の真理性を保証しえない。むしろそこにはしばしばうぬぼれがつきまとう。
 したがって、そのような決心だけではなく、真の学は独自の方法をもたねばならない。すなわち、まだ仮象の真理に囚われている意識が自己を高めてゆく諸段階(諸形式)を余すところなく記述してゆき、それらが真の認識へ高まる展開をすべて把握したとき、はじめて認識の最高の実が示される、といった方法が必要なのである。
 だから、素朴な仮象の段階の認識のありようを叙述することは決して単に否定的運動を描くということではない。人間の自然な意識として、ある認識がじつはそうでなかったという経験が繰り返されると、それは「懐疑主義」といったものを生み出す。懐疑主義は、「結果のうちについに純粋な無」(〜でなかった。確実なものはなにもない。)だけを見ようとするのだが、じつはその「無」と見えること自体がある「真実」の所産なのである。
 懐疑主義はこの「無」という結果にぶつかってそれ以上進むことができないのだが、この無という結果を「限定された否定」と受け取るなら、じつはこの否定のうちには「移行」(現象の進展)が生じているのであり、そこに事態の完全な展開への道が開かれていることを知るのである。
このような知の展開にとってその「目標」もまた明らかであって、それは「概念が対象に、対象が概念に合致する処」83 にある。だから目標までの進行は休みなきもので、途中で満足することは許されない。
自然な生命は自分の規定性を超えて進むことはできないが、人間の「意識」は、「対自的に己れの概念」でありうるという本質をもっている(⇒つねに自分の存在を対象化できる)。だから比喩的に言えば自己意識にとっては、つねに個別的なものと「彼岸」という二重の視点が同時に措定されている(⇒自己自身にとって、と、対象的、客観的観点という二重の視点。実存的視点と客観的視点)。このため自己意識は決して自分の意識のあり方に閉じこめられず、そこに現われた矛盾を、必ず超えていこうとする本性をもつ。このことが、意識が自己の世界経験を展開し、徐々に高度な場面へと移行していく原理なのである。
たしかに、意識は自己の喪失を恐れる「不安」から「真理」へ近づくプロセスを断念することもあるし、また、「虚栄心」から、自己の現在もっている「真理」こそ最高のものとしてつぎの地平へ進まずこれに固執するということもありうる。しかしそれは単に「自己満足」と言うほかない。意識そのものの本性は、必ず自己の内的な矛盾をバネとして自らを最後の「目標」にまで展開してゆく力をもつのである。

〔(2)知と真〕

学の進行の仕方とその必然性について述べたが、またそれによって、いかに真の認識が実現されるかという方法原理についても述べよう。
この叙述は、「学が現象知に関係すること」と考えられるし、また「認識の実在性を(略)吟味すること」とも考えられるが、この場合、吟味の「尺度」(規準)というものが問題となる。何かを吟味するとは、ある尺度を対象にあてがって測ることだが、このとき尺度と対象との「等、不等」が、つまり認識と対象とが一致するものかどうかが問題とされる。学がひとつの尺度だとするとそういう意味で学の正しさが問われる。われわれの学はまだ出発したばかりで、その方法も十分明らかになっていないから、それが尺度としての正しさを持つのかという疑問が当然生じてくる。だが、この問題(尺度と対象とがほんとうに一致しているのか)という問題については、「知」と「真」という二つの契機をおいてこれを考えれば、上に見たような難問は解けるにちがいない。すなわち、

(1)まず、「意識は或るものを己れから区別すると同時にこれに関係しもする」。この「関係すること」を、ふつう対象が「意識に対してある」と呼び、またこの関係のあり方を「知」と呼ぶわけである。(⇒対他存在→「知」)
(2)だがまた、われわれはこの「対他存在」とは別に、「自体存在」なるものが存在すると考える。そしてこちらを「真」と呼ぼう。(=自体存在→「真」)

 さて、われわれの認識の営みは、「知」が「真」に一致するかどうかを探究するわけだが、するとまず自分の「知」(⇒認識)がどのようなものかを吟味しなければならない。だがこのとき、「知」はわれわれにとっての対象なのだから、そこでつかまれたものは、あくまでわれわれにとっての「知」でしかないことになる。(⇒認識、はあくまで「主観的」だから) すると、結局、われわれは「知」と「真」とが(主観と対象[客観])そのものとして一致しているかどうか、決して調べられないことになる。これがいわゆる「認識問題」の核心的難問である。
 だが、つぎのように考えれば困難は解決する。
 われわれは「知」と「真」との「一致」を問題にしたが、「知」はどこまで行っても主観的なものであるので、これを自体存在としての「真」と比較し得ないと考えた。だが、重要なのは、よく考えれば、この「知」と「真」という区分自体が、われわれの「意識」の中で生じている、ということだ。
 さらに詳しく言えばこうなる。要するに、意識は、ある存在の意識にとっての存在仕方を「知」と呼び、しかしまたそれ自身としての存在仕方を想定してこれを「真」と呼んでいるのである。この場合、「知」のほうを概念と呼び「真」のほうを対象と呼んでもよいし、また逆に「真」を概念と呼び、「知」を対象と呼んでもよいが、いずれにせよ、吟味とは、「対象」と「概念」が一致するかどうか、を問うことである。そして重要なのは、この「概念」と「対象」という両契機がともに、「我々の探究する知ること自身のうちに属しており、したがっていろんな尺度を我々が持ちこんだり(略)する必要はないということ」(▲87)である。
 このことが意味するのは、まず、尺度もそれによって吟味されるものも、じつは双方意識のうちにあるものだから、前に見たように、認識方法(尺度)の正当性をあれこれ考えたりする必要はないということだ。言い換えれば、いわゆる「認識問題」の難問は仮象の難問にすぎないのである。
 「対象」(自体存在=真)という契機と「概念」(対他存在=知)という二つの契機が意識に与えられているのだが、この両者は、絶対的に分割されているものではなく双方ともじつは「意識の対象」である。だから意識は、この二つの自己の契機を対比しながら吟味を進めてゆくことができるし、またそれ以上の吟味の尺度を外から持ち込む必要はまったくないと言わねばならない。
 このとき、重要なのはつぎの点だ。意識は「知」を「真=対象」に一致させようとして自分の「知」のあり方を変える(⇒ああ、あれかと思ったらこうだった)。この場合、「知」の契機だけが変化したように思えるが、「知」は「対象の知」であるから、このとき当然「対象」自身も変化している。こうして、意識は、はじめ「自体」(そのもの)と思っていたものが、ただ「己れに対して自体的であったにすぎなかった」ことに気づく。このようにして、われわれの意識のうちの「知」と「真」の契機は、こもごも、より高次のものへと展開されてゆく。認識の営みのこのような原理を把握するなら、われわれは、従来の「認識」という尺度自体を問題にする「認識問題」のありよう自体が誤ったものであったことを、はっきりと理解できるはずだ。

【⇒解説】 ここは、精神現象学における「認識論」の核心部分。
ヘーゲルは「主観」-「客観」(意識‐世界)という対立項的図式を、〔意識(知‐対象)〕
という意識一元論的図式に変更することで、認識能力の厳密な吟味(カント)という難問を克服した、と考えた。フッサール現象学と通じるところ大。フッサールもまた意識一元論。
フッサールの図式は、〔意識 (現象‐世界確信の構成)〕という形になっている。
 認識問題を解く方法として、この観念論的還元は必須。ほかの方法は、厳密真理主義あるいはその逆に相対主義にゆきつくことになる。

《参考図》

(ヘーゲル弁証法)                  (伝統的認識論) 

                知             
            知   ↓ → 真
        知   ↓ → 真      「認識」(意識)→ 一致?→「客観」(世界) 
  ┌ 知   ↓ → 真            
意 │ ↓ → 真               人間(主観)→ 「認識方法」→ 「客観」
識 └ 真                           (尺度)
                              尺度は厳密か? 
                                    
                              

〔(3)経験〕    

 こうして意識は自己のうちで、知と真(対象)についての弁証法的運動を行うが、それが意識にとって新しい「真」をもたらすかぎり(▲「この運動から意識にとって新しい真実の対象が発源するかぎり」89)、この運動は「経験」と呼ばれる。この経験の運動をさらに詳しく検討しよう。
 まず、意識がある対象を知る。この対象ははじめの「自体」(⇒ある何かそれ自体)である。しかしこの「それ自体」は、また意識{{にとっての}}「ある何か」=対象でもある。したがって、意識はここで二つの対象をもつことにある。第一に「最初の自体」(⇒対象それ自体「真」)、第二に「意識にとってのその自体」(⇒意識にとっての対象(「知」))。
 つまり、このとき、第二のものは対象それ自体の「表象」ではなくて、意識の自己反省によって生じた「意識それ自身にとっての対象」の表象にすぎないように見える。しかしさきほど見たように、意識経験においては、ここで、この意識にとっての対象こそ自分にとっての「自体」となり、この▲「新しい自体が意識に対して存在すること」が新しい「真」となっている。

 経験をこのようなプロセスと考えると、ふつうの「経験」という概念とは食い違う面がある。つまり一般には、認識の経験とは、あくまではじめの「真」(「即自且つ対自的に存在しているもの」を受け取ることだと考えられているから、はじめの「真」が意識において変化するというのはおかしな言い方に聞こえる。しかし、これはあくまで、対象と認識とを絶対的に区分するという素朴な意識からは、そう見えるということであり、だからそれはしばしば懐疑論へ陥ったりするのだ。
 この意識では、自分の「知」がもともとの「真」と完全な一致を得ないという経験を繰り返すと、そこに「無」(非真理⇒じつは違っていた。あるいは決定的な答えが出ない。)だけを見出すのだが、さきに述べたように、この「無」は経験の展開の結果であって、決して無意味なものではない。
 これに対して、われわれの観点、つまり意識経験の観点からは、はじめに「真」と思われたものは、それについての誤った「知」にすぎなかったと知られるが(▲「自体が自体の意識に対する存在と成る」90)、そこでこの新しい「知」がじつは「真の対象」だったと見なされることになる(新しい真)。そしてこの「新しい真」に対してまた新しい「知」の意識が生じてくる、という具合なのである。
(☆⇒ここの文脈かなり煩雑だが、要点は以下。意識がある対象を知るとき、ふつうは一方に「対象それ自体」があり、意識の側では「意識にとっての対象の意識」がある、と考えたくなる。しかし意識経験のありかたはそうではない。意識が対象を経験してゆくとは、対象についての、ああじつはこれが真実だったのだ、という発見が重なることであり、このとき意識にとっては「真なる対象」と考えられるものが意識のうちで変化していく。つまり意識はそれをより「真なる対象」として'経験'してゆくのである。これにかんしては上の図を参照のこと。ちなみに、フッサール現象学では、現象(現われ)の絶えざる変化が、「知=確信」のあり方を少しずつ変化させてゆく、あるいはより充実したものへと信念変様してゆく、という言い方になる。)

 そしてこの展開の必然性そのものは、いわば意識の背後に隠れている。経験そのものに没頭している意識には、なぜ「新しい対象」が前のものから生じてくるのか理解できない。それを理解するのは「我々」の観点(この展開の進展を形式的に取り出す哲学者の観点)だけであり、したがって、この意識経験の道程の必然性を描くことが「学」であり、また「この道程は意識の経験の学である」と言えるのである。
 こう考えると、意識だけが世界を「経験」するのだが、また、意識はこの展開の必然性以外の仕方では決して世界を経験できないことは明らかである。だから、「この経験は精神の真理の全領域を含む」。だがまたその経験の諸契機は、決して「抽象的な純粋な諸契機」ではない(⇒これはフィヒテ的「思弁」のことと思える)。
 ここに現われる全体の諸契機はあくまで「意識の諸形態」としてである。こうして、意識は経験の進展の中である立場に到達するが、そのとき意識は、単に「他者として」「己れに対してあるもの」と囚われているという外観をぬぎすて、「現象は本質とひとしく」なっており、意識の叙述は「精神の固有の立場と一致する」ことになる。92(⇒「絶対的なもの」の真なる把握という立場) 「そうして最後に意識自身が〔精神であるという〕己れの本質を把握するときには、意識は絶対知自身の本性を示すであろう。」92
 
                                (緒論おわり)



●「自己意識の自由」【章頭解説】

まず、もう一度ヘーゲルの「体系」の全体像を簡単に。世界は一つの「実体」(絶対精神=絶対者)。この「実体=精神」は自らの本質的な運動として「主体」(さまざまな生命主体、→ここではとくに人間の精神を意味する)を分離して生み出す。人間精神は「無限性=自由」という「精神」の本質を分かちもっているので、それが「意識」→「自己意識」→「理性」という必然的な展開を推し進めてゆく。「意識」は、単に対象を認知、認識するだけの「主体」とされるが、「自己意識」はいわゆる人間的な「自我の意識」と考えればよい。ヘーゲルのこの全体体系は一時代前の「汎神論」の枠組みで、もはや真面目に受け取る人はいない。しかしここで提示されている、いわば人間精神、あるいは「人間的欲望」の本質論は、近現代における人間思想として最高の達成を見せているといえるほどのものだ。以下、その要点を整理してみよう。
 まずヘーゲルはこういう。単なる「欲望」の本質は、他を否定して自己の自立性を維持すること(他を食べて自分を維持すること)である。人間的欲望の本質は、「自己の自立性(=自由)についての自己確信」、少しひねると「自己価値」についての「確証」の欲望である(「自己欲望」)。つまり、「ワタシは世界の主人公だ」「ワタシは立派な存在だ」という自己確証こそ、人間的な「自己欲望」の本質をなす。
 ところが、この「自己価値確証」は必ず「他者の承認」を必要とする。そこで人間の欲望は、必然的に、他者との関係の中でしか実現しない。言いかえれば関係的意識における諸形式をめぐる。この人間的欲望の展開のプロセスとしての諸形式として、われわれは、さまざまなものを列挙することが可能だが、ヘーゲルが、ここで取り出して提示しているのは、@「承認をめぐるたたかい」としての「主奴」関係。A「自己意識の自由」とその三類型、である。そして、この取り出し方がやはり卓越しているというほかはない。

@「承認をめぐるたたかい」→「主奴論」
ヘーゲルの『精神現象学』は、ふつう二重の読み方の軸を想定しておくと読みやすい。一つは系統発生的な観点、つまり、人間の歴史がどのような本質契機で展開して来たかという歴史解釈の流れとして。もう一つは個体発生的観点、つまり一人の人間がその「意識」(精神)をどのように展開させるかという流れとして。
この「承認をめぐるたたかい」は、記述の流れとしては、人間欲望は「承認」の欲望を含むので、それが他者関係の中でどのような形態を取るか、という箇所だが、ここで書かれていることの重点は、ヘーゲルの歴史解釈にあると考えて読むととても通りやすくなる。
 人間欲望は自己の自立性の確証を求めるが、それは他者との関係では「承認をめぐるせめぎあい」(自分のほうが上位に立ちたい)となる。これを歴史的な文脈で考えれば、見知らぬ他人同士(共同体どうし)は、つねに存在の自立性(=自由)をかけて死を賭した戦いを行なってきた、と考えることができる。この結果人間社会は、ほぼ例外なく「主と奴」という階層性を作り上げてきた。ここでは、支配階層たる「主」が人間としての「自立性」を確証し、「奴」はそれを喪失していると見える。しかし人間精神の内的な本質から言うと、「主」の「自己確証」は圧政と他の労働への依存によっているので、けっして本来的なものではない。むしろ「奴」のほうに本来的な「自己確証」の可能性が存在する。まず「奴」は死によって脅かされるという深刻な経験をもつことで、人間の実存の深い自覚の可能性をもち、つぎに「労働」の経験、すなわち自己の力を"外化"して自然を形成する、という経験によって、自分の内的本質を"表現"するという普遍性の契機を知るからだ。これが「主奴」論のヘーゲル的アクセントである。

A「自己意識の自由」→その三類型
 「自己意識の自由」はヘーゲル的コンテクストでは「主と奴」の次の展開とされている。つまり、古代的帝国的な「主と奴」の範型のつぎにギリシャ・ローマ(初期)の哲学流派(ストア主義・懐疑主義など)が現われ、その次にはキリスト教が登場するからだ。だから「自己意識」の章は、その全体が、古代→ギリシャ・ローマ→中世へ、というヨーロッパの歴史哲学と読んでよい。しかしもう一方で、ここを個体発生的な観点で、つまり思春期から青年期にかけての人間の「自己欲望」の範型論として読むことができる。おそらくこちらが現代の読者には焦点を結びやすいと思えるので、その力点で議論をたどってみよう。
 「自己意識の自由」のニュアンスは以下である。人間は、他者関係の中で自己の自立性と優位を確証し続けていることはきわめて難しい。とくに第二の自我が目覚める思春期以降は、「自己欲望」自身がとても強くなり、しかも他者関係の中でそれを作り出す術をまだ知らない。そのため人(若者)は、「自己意識」のうちで、自分自身の意識の内部で、自己の自立性・優越性(=自由)の確証を行なおうとする。これが「自己意識の自由」である。
「自己意識の自由」の三類型は1)ストア主義 2)スケプシス主義 3)不幸の意識。
1) ストア主義  日常生活の中では多くの人間の欲望がせめぎあい、各人がいわば「自由」の拡大を求めて争いあっているが、ストア主義は、この現実の欲望競争の諸関係をいわば純粋な自己意識へと還元しようとする。つまり、そういう欲望競争の秩序自体が、人間の意識が作り上げたものにすぎないのだから、これに超然とした態度を取りさえすればこれらの欲望に煩わされず、つねに自分の自由と平静を確保できる、と考える態度をとる。ストア主義の優位は、【自分だけ】がこの欲望競争の醜さと愚かさを【知っている】という点にある。自己意識はこの点に自己価値の優位を見出そうとするのである。
2) スケプシス主義(懐疑主義)  ストア主義が、外的現実に対し「内的な自由」を対置して自己の優位をはかろうとするのに対して、スケプシス主義は、もう一歩積極的な戦略をとる。スケプチストは、意識の運動の弁証法的性格を知っている。つまりそれは、まず、絶対的な真理などというものはこの世に存在しないという理論、つぎに、どんな主張も観点を変えることで相対化されてしまうという理論を武器とする。この武器によってスケプチストは、つねにあらゆる主張や理論の優位に立つことができると考え、それによって自己の自立性・優位性(=自由)を確保しようとする。
3) 不幸の意識  しかしスケプシス主義は、この一切を否定し、相対化する論理がじつは自分の主張にもおよぶことを暗々裏に知っているため、その優位にははじめから矛盾がある。そこで、この矛盾の意識の自覚的形態として「不幸の意識」が現われる、とされる。不幸の意識は、ひとことで言うと、若者が、すでに存在する特定の強力な理想=理論に入り込むことである。ヘーゲルはここで「キリスト教理論」をモデルにして論じている。この箇所はかなり込み入っているが、大きくは、青年期的な絶対的「理想理念」への傾倒と熱中、絶対的なもの(理想)へ少しでも近づこうとすることからはじまり、自分のうちの醜い「自己動機」を自覚していっそうの自己否定を試みること、人間における現実生活への欲望と美しい理想追求との間に解けない矛盾が横たわっていることの自覚などを通して、自己意識は、結局この絶対的なものに届こうとする努力に挫折する、というプロセスが描かれる。
 この節の結論は以下である。 
 人間の欲望は、本質的に「自己欲望」(自己の自立性・優越性の確証)という形をとる。とくに近代社会では、この自己欲望は解放されるそのため、ある種の典型的類型を描く。その第一の形式が「自己意識の自由」、すなわち自己の意識の内側で、自分だけで、自己価値を確証しようとする範型。しかしこれらは結局のところ、「他者の承認」という本質的契機を欠くために挫折の運命を免れない。自己意識はやがてこの挫折の必然を自覚する。このときはじめて自己意識は、自己欲望の可能性のつぎの道すじへ踏み出す。それが「理性」の段階、何らかの他者関係・承認関係の中で自己価値を求める段階へと進み出る。

第二章 「自己意識」

A 自己意識の自立性と非自立性、主であることと奴であること

 自己意識の「無限性」という本質から、自己意識は他者との相互規定的、相互関係的意識であるということをその本質としてもつ。またそうであるがゆえに、自己意識は「承認」ということのうちでのみ自己を展開させる存在である。

 1 承認の概念 【A】

自己意識が「他者」と向き合うと、二重の自己喪失をもつ。1. 自分は他者にとっての自分となる。2.他者は、自分にとっての他者となる(他者のうちに自分を見る)。
 自己意識は、自己性を取り戻すために、ここでの「他者性」を撤廃しようとする。これも二重の意味をもつ。1.まず他者の自立存在性を否定しようとする。2.しかしそのことでじつは他者にとっての自己、というものを撤廃することになる。
 この他者の撤廃の試みは、同時に自己にとって自己帰還の試みでもある。(さらにこれも二重の意味をもつ。1.他の存在の撤廃によって「自己自身」にもどろうとするが、それは他者の自立性を認めることになる。)
 さて、ここまでは、「自己意識」の側の一方的な対他者意識のありかたを見てきた。しかし「我々にとって」は、この意識の運動(あるいは行為の関係)は、じつは双方向的、相互規定的なものであることが明らかだ。言い換えれば、ここではすべての行為とそれについての意識が双方的であり、そのことで相互規定的な意味をもつことになる。一方的な行為というものは存在しない。
 この人間関係の相互規定的事情は、すでにわれわれが「両力の遊戯」で見てきた事情と本質が同じである。ただ「両力の遊戯」では、運動の相互的側面がたがいに契機として、こちらと思えばまたあちらといった具合に対立的運動として展開されていくことを媒介していたのは、「自己意識」だった。 しかし、「承認」の運動では、媒介者(=「中項」Mitte)は、それぞれ対極の「自己意識」である。二つの自己意識が相対している場合の関係。それぞれ自己意識として「自己外化」を行なっている。 これがこの両項の関係を規定する。ここにはちょうど、二つ鏡の反照性といった関係がある。
 つまり、両者はこの運動の中で、一方で自己意識の本性として、自己が自己のみで自立した存在であることを確保しようとするが、しかし、もう一方で、自分の自己性が他者の自己意識によって存立するものであることをも了解する。こうして大事なことは、▼「両極は互いに承認しあっているものであることを互いに承認しあっている」ということだ。 これが「承認の純粋概念である。」k186
 こうして今や「承認の純粋な概念」、つまり、相互承認による二つの自己意識の統一のプロセスが考察されねばならないのだが、これを自己意識自身の経験の場面として考察してみよう。
 それはまず、相互の自己意識の不同、対立として現われる。つまり、一方的な承認をめぐる対立として現われる。

2 承認をめぐる生死を賭けた闘い 【A】


 はじめは、自己意識は、単なる「自分だけ」の存在。単なる「エゴ」(自我)として現われる。それ他者をもたず、他者と無関係。このような直接態では、自己意識にとって現われくる他者は、単に「否定的なもの」、つまり自分にとって本質的でない否定すべき対象にすぎない。
 しかし実際は、他者もまた一つの「自己意識」である。だから「自己意識」と「自己意識」が出会うとき、まずは対立的な関係として現われることになる。しかしここで両者はまだ「無媒介的」(つまり相互的の承認関係ではないので)、それぞれが自立した生命としての存在(=生き物)として相手に向き合うにすぎない。つまり、ここで両者は、まだ他の直接的存在の撤廃によって「自己自身」たるという絶対的な否定の運動を行なっていない(⇒相手を倒し否定することで、自分こそ自立した自分であるという「自己確信」の行為を行なっていない)存在として向き合っている。双方ともが自分の「自己確信」をもっているだけだ(つまり、それは客観的な真理とはなっていない)。そして自己意識にとってそれが「真理」であるには、自己存在の自立性が自分にとっての確信であるだけでなく、相手(対象)の方もそのことを認めるということが示されねばならない。しかしほんとうは、承認の真の概念から言えば、互いの「自己確証」の承認は、自らの確信としてあるとともに他者もまたそれを認めるという行為の、相互的な確証の関係を通してのみ可能となる、といわねばならないのだが。
 しかし、さしあたりこの段階では、「他者による自己確証」という純粋抽象の営み(⇒内的な自己意識の試み)は、自分が他にとっての「対象」であることをどこまでも否定すること、つまり、自分が「自己意識」たること以外のどんなことにも拘束されないこと、純粋かつ自由な自己意識であるためには生命にさえ執着しないことをも示すことでそうする、という形をとる。この営みはもちろん、他に対すると同時に自己に対する行為として示される、という二重性を含む。つまり、単に他の絶対的否定(死)がめざされるだけでなく、それは自分の生命を賭して、という仕方で行なわれる。こうして、それぞれの自己意識の「自己確証」の試みは、両者の「死を賭した闘い」という形をとらざるをえない。この闘いによってそれぞれは、自己存在の確証(=自己確信)をいわば客観的な「真理」にまで高めようとする。つまりそれを、“自他にとっての”真理たらしめようとする。自分は単なる存在ではなく、他を否定しつつ生きることにのみ汲々とする生命態でもない。むしろ、自分以外の一切のものが、意識にとっては過ぎ去っていく非本質的対象にすぎないことを確信している、絶対的な自己存在としての「自己意識」にほかならない。これこそが「自己確信」の真理だが、これを獲得することができるのは、ただ生命を賭けることを通してのみなのである。こうして、命を賭けない人間は一人の人格とは認められても、自立した自己存在としての確証と承認を得ることができない。そのために両者は、自分の命をかけて他の死をめざす。他者は、自己の現実にとっては敵対的な外的存在であるから。他者とは、じっさいには多様な仕方で規定された存在としての「意識」だが、自己意識はそれを、自分に対峙する純粋な自立存在、つまり絶対的に否定的存在として見るのである。
死を賭した闘いは、自己の「死」を賭して相手に死をもたらし、そのことで自己存在の確証をつかもうとする試みだが、じっさいは相手の「死」はこの可能性を取り去ってしまう。「自己確信」は、本来自分の確信だけでなく相手から承認によってはじめて成立するのに、死は相手の「意識」を消し去る絶対的否定であるからまさしくそのことが不可能になる。この行為は、「死を賭した」ことで絶対的な自立的存在たろうとしたという自分だけの確信は残るが、自己確証のために必要な承認のための「媒介項」を抹消してしまうのである。本来必要なのは、他の「意識」自身が自らを否定して、こちらの「自己」の自立性を承認するということなのに、相手に死をもたらしてしまえば、相手の「意識」の否定による承認の獲得ではなく、単に相手の存在の否定という抽象的な否定があるだけだからだ。「意識」の否定=撤廃とは、否定しつつ保持するという撤廃、すなわち「止揚」(アウフヘーベン)なのである。
さて、この経験を通して、自己意識は、自分にとっては純粋な「自己意識」だけではなく自分の「生命」もまた存在の本質的契機であることに気づくことになる。
純粋な自己意識にとっては、この「自己意識」の絶対性こそが自分の存在本質だと思えているが、「我々」の見地からは、この絶対的な自己確信はすでに(⇒さまざまな経験によって)媒介されたものにすぎず、じつは生命としての存在をもその本質契機として含んでいる。最初の経験(⇒おそらく自己意識の対峙の経験)によって、自己意識であることの単純な統一は破られ、自己は純粋な「自己意識」(対自の意識)と他者に対してある意識(対他の意識)とに分裂する。そしてこの「対他的意識」が、自分が単に「物として存在」する意識でもある(⇒相手から対象化される)という契機を自己意識に教えるのである。純粋意識であるということと、物として存在する意識であるということの両方の契機が、まさしく自己意識の存在の真理なのだが、両者ははじめは必ず、自己意識の中で二極に分裂し、むしろ対立的な形をとる。つまり、あくまで純粋かつ自立的な「自己意識」であることこそ本質的であり、「物」(生命)であることは非自立的かつ非本質的であると見なされる。こうしてこの段階では、(対峙しあう「自己意識」どうしは)、絶対的な「意識」として存在しうることがすなわち「主」であり、「物」的対象として甘んじることがすなわち「奴」であるような関係を作り上げるのである。



〔三 主と奴〕 

[ α 主であること]【A】

 主は、主奴の関係の中では、単に純粋な自己意識なのではなく、非自立的な存在である奴という「媒介」を通して、自立的な存在となっている。つまり、じつは主は、一方で自立して「意識」存在であるとはいえ同時に従属的な「物」的存在でもあるような「奴」という存在との関係を通して、はじめて自分の自立性をもっている。したがって、自立的な存在としての主がこの奴に対して取る関係のあり方も二重になる。そこで、主は、奴に対して、一方で欲望の対象たる単なる物として関係し、また他方で「物」的存在として自分を意識している存在として関係する、という二重の関係をもつ。
 主の奴に対するありかたをさらに言うと、それは一方で、(その意識において)直接的な自立的存在だが、他方でこの奴という媒介項を通してのみ自立的存在でありうる。この奴との媒介的関係も、ふたつの面をもつ。1. まず、主は自分自身の「自立的存在」を介して奴に関係する。というのは、主は、闘いの際、物に対する自分の絶対的な自立性を譲らなかったという点で、自分の威力を打ち立てたからである。つまり、主はいわば死の威力をもって奴に支配力をふるい奴を労働させる。2. 第二に、主は奴を介して物に関係する。すなわち主は奴の労働を支配し、そのことを通して物を自由に享受する。
 奴の方は、「自己意識」であるという点では一定の否定力を物に対してもつが、しかしその否定力は限定されており、彼はただ物に労働を加えることができるだけで、それを自己のものとすることができない。主が物への支配力をもっているからであり、主の方は、奴の労働を介して物と関係することによって、物に対する純粋な否定力、つまり直接の支配力をもつことができる。すなわち、奴の労働によって物の自立性を支配し、これによって主は物に対する一方的な「享受」をうることができる。
 ここでは、一方の絶対的な自立性の承認が成立しているように見える。というのは、奴は、一方で物への従属(⇒加工するだけで自分のものとならない)、他方で主への従属(⇒命を握られている)という両契機において、自分の非自立性を認めており、いわば一方的に主の絶対的な支配を承認しているからだ。すなわちここでは、まず奴の方が自ら自己の自立性を否定するということ、さらに奴が相手の絶対的な自立性を認め、まさしくその意志に自分の行動を従属させるということが行なわれている。こうしてここでは、「自己意識」の完全な自立性が承認されるのに必要な二つの契機が、欠くところなく成立しているようにみえる。
 だがじつは、この関係は本来の承認関係とは言えない。この承認は一方的な承認にほかならず、真の承認関係に必要な相互的な関係が成立していないからだ。
 絶対的な支配をふるう主と奴の関係は、一見主の絶対的な自由の承認を完成させるかに見えるが、そうではない。この関係の中では、主の立場にある「自己意識」が本質的な自立性の意識を獲得することはできない。この主奴関係が成立するや、むしろ主は、自分の存在を非自立的な存在だと意識せざるをえなくなる。そして、はじめはそのようには気づかれないとはいえ、むしろ自立的存在としての可能性をもつのは奴の存在であることが明らかになる。なぜだろうか。


〔β 奴の畏怖と奉仕〕【A】 


つぎに奴の「意識」としての側面をみよう。
 まず、奴は主人の存在のうちに完全な「自立存在」をみて、これを自分の真理(=本質)と見なして憧れているが、それはまだ自分の現実とはなっていない。しかしじつはある意味では、奴は本来の存在の自立性という真理(⇒意識の否定性と自立性という本質)を、潜在的に自分のうちに含んでいる。むしろ、真の存在の自立性の「契機」はかえって奴のほうに萌していると言える。そしてそれは奴が奴としての経験をもつことによって生じたものなのである。
 まず、奴は「死を賭した戦い」によって「死の畏怖」という絶対的な主人に服し、まさしくそのことで「自己意識の純粋な自立性」を深く自覚する契機をえたのだ。つまり、奴は、主奴の戦いで経験した「死の畏れ」において、日常におけるそのときどきの不安といったものをはるかに超えて、自分の存在全体に対する根本的な不安に震撼されるという解体の経験をもった。そのことで奴は、いわば「自己意識」の純粋な本質、絶えず流動する絶対的な否定性という(⇒実存的)本質を感得したのである。(☆)この不安と畏怖から現われる自己の絶対的な純粋性という契機は、主には現われなかったものだ。また、奴の意識にとって、意識の絶対的な純粋性という契機は、自分のうちに存在するだけでなく(即自的に、あるいは潜在的に)、主という他者のうちにその自立性を見ているという点で「対象的」にも存在していると言える。]
さらに、奴は、単に「死の畏怖」によってて自己存在の解体の感覚を知っただけでなく、「奉仕」つまり労働の経験によってもそれを経験する。つまり、労働の経験によって、奴は、物に対するそのつどの欲望の執着を断念することを学ぶのである(●⇒ここは、労働によって、自然=物からの被規定性を克服する、という意味があるかもしれない)。

☆⇒ここはヘーゲルの実存感覚を示す箇所として興味深い。▼「即ち奴の意識は死という絶対的主人の畏怖を感じたのであるから、『このもの』又は『あのもの』についてだけではなく、また『この』瞬間又は「あの」瞬間にだけではなく、己れの全存在について不安をいだいたのである。かく畏怖を感ずることにおいて奴の意識は内面深く解消せられ(⇒「解体され」がよい。竹田)、心中動揺せぬところとてはなく、心中一切の執着を震撼させられたのである。」(→続き)「ところでこの純粋で遍ねき運動、あらゆる存立せるものの絶対的な流動化こそは自己意識の単純な本質、絶対否定、純粋の自分だけの存在(対自存在)であるから、この存在はこの奴という意識において、即してあることになるのである。」k194 意識の本質が絶対的な否定性にある、というのはヘーゲルにつねに現われる表現だが、これは第一次的には、意識がそれ自体としてもつ、自分を含め一切を対象化する思考の「自由」を意味する。このあらゆるものを否定しつつそのことで自体の本質を展開してゆくという意識の運動は、人間の自己意識の本質でもある。


[γ 奴の形成の労働]【A】

 すでに見たように、奴が畏怖と主への奉仕によって自己の存在の絶対性を自覚するという契機が生じるのだが、それははじめはまだ潜在的なものにすぎない。この契機は、労働という経験によってはじめて現実的なものとなる。
 先の主奴関係では、物に対して自立的関係をもっているのは主であるように見えた。しかしそれはじつは奴の労働にって支えられているものでしかなく、その結果、主は物に対してただ一方的にこれを享受し、消費するだけである。物に対する主の享受と満足には、「対象的な側面」が欠けているのである。つまりそこには、主体が物に対して働きかけることで自己の自立を得る、という実質的な関係が存在しない。これに対して、奴の労働は物を「形成する」。労働は一方的に物を否定するものではなく、そのつどの欲望の抑制と消費の延期を通して物に働きかけ、物を形成する。そのことで労働は対象への否定の関係(働きかけて変形する)をその本質的な意味にもたらし、持続的な成果を生み出す。奴は、まさしくこのプロセスの中で、自己の否定性の自立的な本質を直観するのである。
 労働による事物の形成は、奴に、自己意識の純粋な否定的本質が具体的な対象として外化されうるものであることを教えるが、これはそのことにとどまらず、あの「畏怖」の意識をも克服するという契機を与える。というのはそもそも奴が「死の畏怖」によって脅かされたのは、物が支配しえない自立的な存在(否定的存在)として自分に存在していたからだ。しかしいまや奴は、この外在的な物を支配しうる力を学んだのであって、そのことで真の意味での「対自的存在」(自分だけで自立する存在)である能力を得ているのである。
 はじめは、奴にとって自立的存在は、他者としての主の姿として(対他的に)あり、畏怖においては、即自的(自体的に)あったが、いまや労働=造形という契機においてそれは対自的、自覚的にも存在しはじめる。物を造形することは、意識の本質が“外化”し定立されることだが、そのことでその本質は自分によそよそしいものになるのではなく、むしろそのことを通してはじめて客観的、現実的なものとなるのだ。
 こうして、奴が主への隷属の道を通して、ふたたび自己自身の存在本質(の自覚)に還帰するためには、労働(形成) とともに、畏怖、奉仕という契機が必須のものであり、かつそれが普遍的な仕方において経験されるのでなければならなかった。奉仕や労働による形成という契機なしには、畏怖は形式的なものにとどまり、本質的な自覚にゆきつく可能性をもたない。しかしまた、はじめに絶対的な畏怖がなければ、物に働きかける否定性の本質をその場かぎりの生の必要を満たすだけの外的なものとなって、奴が自らの本質的な否定性を自覚史、自己存在を絶対的なものとして取り戻そうとする可能性をもたらさない。もしそうであるなら、そこでは絶対的な「概念」(⇒ここではことがらの本質)は普遍的な展開をとげず、労働による形成もただ、奴隷的技術のゆるやかな進歩ということ以上を生み出さない。