竹田欲望論のための試行ラボ
「哲学工房」
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(B)自己意識 〔一 ストア主義〕 〔二 スケプシス主義〕 〔一 ストア主義〕 主人の「自立的自己意識」では、自己はまだ、純粋な「オレはオレだ」でしかない。 自己と「他」(現実)との区別は、ここではリアルなものでないからだ。つまり、自分 が向き合って働きかける「現実」というものを持たないからである。奴隷のほうはど うか。彼は物を形成するという点で主人より優位にある。作り出した対象が、他なら ぬ自分(の本質)が、現実(他)となったものであることを潜在的には経験しているからだ。 とは言っても、それはまだ〈我々の観点〉から言えることで、本人にとっては、この生 産物は自分のものとならないから、この両契機は離ればなれになったままだ。しかしそ れでも、この形成する奴隷の意識のうちに、自己意識の新しい段階の萌芽、つまり「無 限性」の意識、思惟する「自由な自己意識」というステージが、現われていることを認 めることができる。 なぜ奴隷の意識は“思惟する”自由な意識なのか。ここで彼は、純粋な「自己意識」 であると同時に「客観的な存在としての自分」についての自己意識でもある。つまり、 自己を、純粋意識であることと、客観的存在であることとの二重性において捉えている。 まさしくこれが「思惟すること」の本質だからである。 (「抽象的な自我としてではなく、自我であると同時に〔客観的な〕即自存在の意味を併せ もつ自我として自分にとって対象であることが思惟するということだからで」ある。K199) そもそも思惟するとは「概念」の運動のことだが、これは単に表象されたり、想像されたり することとは違う。概念として把握することは、自分がある対象を「表象」や「心像」の形で 把握しているという自覚においてその対象をつかむこと、その対象と自己との関係を捉えるこ とを意味しているからである。概念では、自己と表象や心像が、一つのものとして統一されて 「同時に」存在しているわけだ。だから、「思惟」において自我は本質的に「自由」だと言えるのだ。 ところで、しかしこの段階では、思惟における自己と対象との統一は、まだ直接的な(素朴な) 統一にすぎない(=即自と対自の直接的統一)。 ⇒ここは「表象」と「概念」についての重要な箇所〔竹田〕 「いったい「思惟」というものの本質は、単に「表象」(心像=形態)において、運動するのでは なくして、もろもろの概念において運動するのであるが、このことは、〔意識から〕区別された ものでないことを意識がすぐに認めていることを意味する。表象せられたもの、形態を与えられ たもの、存在するものそのものは意識とはちがった或る他者であるという形式を具えているが、 これに対しては概念は同時に存在するものである。」K199 →(続く)「もっともこの場合にも区別があり、そうしてこの区別が同時に概念的に把握せられたも のであることによって、意識はこの限定さられ区別せられた存在するものと自己との統一をすぐに 自覚している。〔ここに概念と表象との相違がある。〕」k199 (2 ストア主義的な考え方) 自己意識のいま言ったような思惟の「自由」が精神史において登場したとき、それは「ストア主義」 と呼ばれた。(⇒「この主義の原理は、意識が思惟するものであること、また或るものが意識に対し て実在性をもつのは、言いかえると、意識に対して真ないし善であるのは、意識が思惟するものとし ての態度をとってそれに関係する場合だけだということである。」K200) ところで、生活の中では、さまざまな関係の中でさまざまな欲望と自己意識のせめぎあいが生じるが、 ストア主義は、そのような生活関係の現実から、いわば「自己意識」の内部に引きこもる。それはいわば 「個別的定在のあらゆる繋縛のうちにおいて自由であることであり、没生命の態度を持して、絶えず定 在の運動から、能動からも受動からも思想の単純な実在性へと退いて行くことである。」k201 このよ うな「ストア主義」の精神は、恐怖と隷属が社会にとって広汎であると同時に、一般的な教養の広がり が思考の訓練を高めているような歴史の段階ではじめて現われた。 この思考は「抽象的」で、形式としての思考、外界の思考それ自体が自己還帰であるような思考であ る。つまり、外界、現実の現実性を完全に否定する抽象的な思考だと言える。 こうして、ストア主義は無内容である。「なにが善であり、また真であるかと問うと」、無内容な仕方 でしか答えられない。 「だからストア主義は真なるものと善なるものとについての、知恵と徳性についての一般的な言説に止まら ざるをえないのであるが、この一般的言説は(略)内容の広がりには決して達することがないので、やがて 倦怠を買い始める。」 (K203) (⇒「ストア主義のこの自由は(略)、おしなべて畏怖と隷従との時代ではありながら、また形成を宗教の 水準にまで高めた普遍的形成(教養)の時代でもあったときにのみ登場しえたものである。」 K 201) 〔二 スケプシス主義〕 「スケプシス主義は、ストア主義がただ「概念」をしかもっていたにすぎぬものの実現であり、──そうし て思想の自由がなんであるかについて現実的に経験するものである。」K203 自由な思考はもともと否定 力をもつので、必ず現実へと現われ出てくる本性をもつからだ。ストア主義が外的現実の内部的な「否定」 だとすると、スケプシス主義ははっきり外的世界にむかって否定の態度をとる。 スケプシス主義は、感覚的確信、知覚、科学的思考などの知の成果、また主人と奴隷の現実的秩序、主人 による道徳命令などの一切を否定する。 「しかも自己意識はただ単に対象的なものそのものを消失させるだけでなく、対象的なものを対象的なものと 認め、また認めたさいの自分自身の態度をも消失させる。」k205 (→完全懐疑主義。) 「こういう自覚的な 否定によって自己意識は自分の自由の確信を自分で自覚的につくり出し、この確信の経験を生み出し、そうす ることによってこの確信を〔客観的〕真理にまで高めるのである。」K205 明確なものはその輪郭に持続性がない。思考をまえにしてはそれはつねにあやうい。スケプシス主義の思考 は、まさしくそのことを知っている。 しかし、じつは、スケプシス主義は自分の思考の一切を相対化するその力を知っていて、それが自分自身の 思考自体におよぶことをもうすうす自覚している。だから、懐疑主義は自ら自己同一の意識と気まぐれな意識 の間をいったりきたりして無意識のおしゃべりを繰り返すほかないのである。 |