竹田欲望論のための試行ラボ
「哲学工房」

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フッサール『イデーンI-1』


第一巻 純粋現象学への全般的序論
第一篇 本質と本質認識
第二章 自然主義的誤解
(未定稿につき、引用禁止)
18節 批判的議論への導入

 事実と本質、あるいは事実学と本質学との区別についてわれわれは、一般的な記述を行な ってきた。これは、われわれが構想する本質学の前提となるものであった。ひとつ言ってお くべきことは、ここまでの論述は、予め与えられたどんな特定の哲学的立場にもとづくもの でなく、いわばある端的な「原理的な・最初から掴まえていく明示」という仕方を遂行して きたということである。つまり、われわれは、われわれの直観のうちに直接与えられた諸区 別を、表現にもたらしてきただけだ、と言える。またこの記述は、一切の仮説なしに、どん な既成の学的知見を前提することなく行なわれた。

 そしてこのような記述のありかたこそ、ほんとうに「最初から掴まえられたもの・端緒・ つまりは原理」である、と言えるのだ。これは哲学思考の原理であるがなにか哲学をあらか じめ前提しているわけではない。われわれはこの一切の既成の知見を前提しない記述のあり かたを、「哲学的エポケー・判断中止」とよぶが、これを定式化すれば、「われわれは(略) すべての哲学の教説内容に関しては、完全に判断を控えて中止し、そしてこの中止という抑 制の枠内で、われわれのすべての証示を遂行するということ」、になる。といって、それは、 どんな既成の学的知見にもまったくふれないということでないのは勿論であるが。

 ただ、上の前提において「経験主義」というものと一つの議論上の対立をもつことになる。 われわれとしてはこの論争は、決着のつけられるものと考えているが。

 つまりそれは、経験主義は「理念」「本質」「本質直観」といったものを認めない、という ことにほかならない。

 これは一つには近代の自然科学の圧倒的勝利によって、哲学的経験主義が極めて強くなった ことの結果である。だがむしろ、経験科学の本質学的な基礎づけは、経験科学にとってきわめ て重要かつ本質的なことのはずであり、理念や本質といったものへの敵意が一般的なものとな ってしまっているのは、経験科学自身にとってもマイナスであると言わざるを得ない。このこ とはほかならぬ現象学自身にかかわる。とくに現象学は、心理学および精神科学の本質的な基 礎づけに欠かせぬものであり、その意味でもわれわれは、いまのべた問題を十分検証する必要 がある。



19節 経験と、原的に与える働きをする作用とを、経験論は同一視するということ

 経験主義はたしかに重要な動機を持っている。それは一つの徹底主義といえるもので あって、すなわ、ち学の根本的な基礎を、そこに入り込もうとする一切の先入見を排し て、「事象そのもの」に根拠づけるという動機である。あらゆる認識は、最も根本的な事 実のみから積み上げられるものでなければならないわけだ。これを彼らは「あらゆる学は 経験から出発しなければならなず、学の直接的経験にもとづかねばならない」という言い 方で表現する。

 だがまた彼らはこう言う。したがって「理念」とか「本質」とか言われるものはスコラ 哲学的、形而上学的な空疎な観念であって、これを完全に排斥しなければならない。現象 学的な本質直観といったものは、まさしくこうした形而上学性の名残なのである、と。

 しかし経験主義者たちのこのような考えは、誤解と先入見にもとづくものだ。彼らの根 本的な誤りは、「事象そのもの」を一切の認識の土台とすべしという根本要求を、「経 験」による基礎づけということで済ませている点にある。厳密な意味での「事象そのも の」とは、けっして彼らの言う「経験」ではない。彼らの「経験」はすなわち「自然現 実」の経験だけを意味しているにすぎないからである。真の意味の「事象そのもの」とい う源泉は、「自然現実」という源泉ではなくて、むしろ一切の「諸判断」の源泉となるも のでなくてはならないのだ。

 かれらは、すべての判断は「経験」がその根本的基礎とならねばならない、という。し かしわれわれ「経験」がすでに一つの判断なのだから、この判断の本質、それを根拠づけ るものこそが真の意味で認識の「基礎」となるものなのだ。ここではむしろ経験主義のほ うに一つの先入見、アプリオリな思弁が存在すると言わねばならない。

 厳密な意味で学問の「基礎」となるべきものは、「経験」という概念ではなく、直接的 に妥当する諸判断であり、すなわち「原的に与える働きをする直観」だけがこれを根拠づ ける、と言わねばならない。

 ところで、この「原的に与える働きをする直観」は、その対象と本質に応じてさまざま な種別を持っているのだが、それらがどのように区分されるのかは、任意の設定によるも のではなく、まさしく「原的に与える働きをする直観」がこれを意識の内省によって取り 出すのである。これこそ本当に先入見から手を切った、最も根源的な方法であると言わね ばならない。

 要するに、諸判断の最も直接的な妥当性の源泉は、われわれの原的な直観の与えられ方 にあるのだが、それがどのようなあり方であるかということもまた、「原的な直観」に よって与えられるままに捉えられなければならない、ということだ。これをわれわれは 「直接的に見る(ノイエン)」という言い方で表現することができる。つまり、この意味で の「原的に与える働きをする意識であるかぎりの見るということ一般こそが、あらゆる理 性的主張の究極の源泉である」と言うことができる。

 したがってこう言える。われわれがあるものを「ありありと(=原的に)見ること」、そ してそれを忠実に言表すること、このことはあらゆる認識の最も基礎をなす経験であっ て、これを否定するなら、およそ確実な認識といったものはどこにも根拠をもたないもの となる。もちろん、一つの「原的に見る」働きが別の「原的に見る」働きと食い違い、相 争うということがないわけではない。しかしそれはただ、「原的に見る働き」がいつも絶 対的ではなく一面的でありうるということを教えるのにすぎず、そのことが、「原的に見 る働き」こそ認識の根底的基礎である、という事実を否定することはありえないのであ る。

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