竹田欲望論のための試行ラボ
「哲学工房」

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フッサール『イデーンI-1』


第一巻 純粋現象学への全般的序論
第二篇 現象学的基礎考察

第一章 自然的態度のなす定立と、その定立の遮断

27節 自然的態度の世界。すなわち、私と私の環境世界


⇒[解読]
 われわれはまず、「ごく自然な普通の生き方をしている人間の身」になってみよう。現 象学ではこれを「自然的態度」と呼ぶが、ふつうの生活におけるわれわれの「世界」のあ りようについて、それが見あるがままに取り出してみよう。それはつぎのような具合に なっているはずである。

 私はまず、一つの空間的広がりの世界を、私の「まわりに」持っている。そこで私は、さまざまな事物を直接に見たり触ったり聞いたりしている。つまり、それらは、私がそれらに特別の注意を向けたり、関心をむけたりしていようがしていまいが、文字どおり「目の前に、手元にvorhanden」存在していると言える。それらは直接の領野のうちに現実的なものとして存在する。しかし私にとって現実的な存在は、直接知覚される領野のうちにあるものに限らない。たとえば、いま私は部屋のこの場所におり、ここからヴェランダヘ、庭の中へ、あずまやへと移動する。すると私の視野や知覚野にあるもは変化する。だが、それでも私にとって、私がいまそこにいた部屋やその中のさまざまな事物は変わらず存在し続けていることを、私は「知っている」。

 これを私は、いま現に知覚している顕在的な知覚野と、それを取り巻いている背景野と呼ぼう。私が注意を向け変えたり、場所を移動したりすると、それまで背景野だったところが顕在的知覚野となり、それはまた逆も可能である。そして私は、それらの全体の空間的地平を、現に存在するものとして持っている。また、この顕在野と潜在野によって構成される地平は、さらにその向こうに、まだ明確には規定されていない「曖昧に意識された地平」を持っている。私はそれらを思いやり、想像的にそれを思い描いたりする。

 こうして、私はまず、私の回りに広がる「空間的地平」の世界を持っている。それは顕在的知覚野→背景野→さらに未規定の地平(これは無限に広がっている)といった構造において存在しており、中心はいつでも顕在的知覚野である。

 ところで、このような構造は、時間的な地平としてもまったく同じように言えることが分かるだろう。そこで中心をなすのは、「いま」という顕在的意識であり、それはすぐ前、すぐこれから、といった時間的背景野をともなっており、さらに、明瞭に意識しているわけではないずっと過去、またずっとさきという未規定な時間的広がりの地平を持っているのである。

 要するに、私はこのような時間・空間の地平構造のうちにつねにその中心として存在し、世界はこの私にとって必ず目の前に広がる世界として現われている。が、さらに重要なことがある。それはこの世界は単なる事象世界ではなく、私にとって一つの価値世界、財貨世界、実践的世界としても存在している、ということだ。私の回りに、時間・空間的地平をもった世界がつねに展開しており、その中に、さまざまな事物や人間もまたなんらかの価値と意味をもってつねに目の前に(=手の届く向こうに)存在している。これが誰にとってもそのような相として存在する世界の自然な現われ方である、と言える。


28節 コギト。私の自然的環境世界と理念的諸世界


⇒[解読]
 いま見たような世界がふつう私がそこを生きている世界のありようである。つまり、この世界こそ、私が自分のさまざまな自発的な意識、関心のあり方を向けているその対象である。私はこの世界の中で、この世界に向けて、研究したり、考察したり、計算したり、前提したりするといったいわゆる思考作用だけでなく、気に入るとか、喜ぶとか、希望するとかいった感情的な諸作用も行なっている。デカルトはこのような諸作用全体をコギトと呼んだのだが、それをわたしは「顕在的な生」における自我の意識、という風に捉えよう。

 たとえば、私がいまそのことを意識すれば、そのときだけ私は自分の「コギト」についての意識になり、またそんなことを忘れて普通の生活のさまざまなことがらに気持ちを向ければ、そのことがらについての意識になる。それが顕在的な生ということである。

 要するに、私はたえず、知覚し、表象し、思考し、感情作用をなし、さまざまな欲求をもっている。そしてそういった私のコギト的諸作用は、たいていの場合この「現実」の世界にむけられている。といっても、たとえば私は、あるとき数学の法則のことなどを思い、これについて一心に考えるということもある。そういう場合は、私のコギト的作用は、現実世界(実在世界)に向いているとは言えず、いわば、算術的世界とか学的世界とかいったものを対象世界としてもつわけだ。これらの世界は、確かに実在の世界ではない。

しかしそうは言っても、それは、私がかつて算術に触れ習熟したとき以来、もはや私の中である主の動かしがたい秩序を持って“存在”している、と言えるものだ。ただ、算術的世界は、私が自分の思念をそこに向ける場合だけ存在するのだが、これに対して現実世界はと言うと、これは私がそれについて顕在的に意識し志向を向けていようといまいと、それに関わりなく存在し続けていたというほかないのである。つまり、私はそのような確信を自然のものとして持っている。そのような確信のあり方を、この現実の世界に対する「自然的な態度」と呼ぶことにしよう。

 算術的世界のような理念的=学的世界と、この現実の自然世界は、なんと言っても私にとって異なった「地平」、つまり存在仕方を持っている。両者は、互いに含みあうことはできず、ただ両者とも、私の「自我」に一定の動かしがたい仕方で関係しており、私のほうは、コギト的な志向性をそのつど、どちらにも自由に向け換えることができるのである。

(以上)


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