竹田欲望論のための試行ラボ
「哲学工房」

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ハイデガー『存在と時間』


第一部 時間性をめがける現存在の学的解釈と、存在に対する問いの超越論的地平としての時間の説明

第一編 現存在の予備的な基礎的分析

第五章 内存在そのもの

28節 内存在の主題的な分析の課題

 「世界内存在」とはどういう構造として表現できるか、ということが、さしあたりわれわれの大きな課題である。このために、実存論的にみた「環境世界」の構造性ということ、そして、現存在とは日常性においてはどのような存在か(誰か)、という二つの問いが少しずつ進められてきた。ここでは、現存在とはどのような存在かについて、これを「内存在」という形で分析してみる。しかし「内存在」とは何かという問いも容易ではない。それは現存在でないような諸存在との広範な比較から取り出されるようなものではないからだ。

内存在とは、世界の「内部」に人間や事物があるということではないことにもう一度よく注意しよう。247 「内存在とはむしろ、主観というこの存在者自身の本質上の存在様式にほかならない。」247 しかしこのことは、内存在は、主観存在と客観存在の「間」にあるものだ、ということでもない。内存在とは、端的に言えば、「実存」の核としての「現」ということの本質を指しているのである。

、「現」の本質である。だかそれをどう規定すればいいだろうか。「現」とは、「ここ」から、「そうした「あそこ」へと、遠ざかりを奪取しつつ、方向を切り開きつつ、配慮的に気遣いつつかかわる存在という意味」248 をもつ。つまり、「ここ」と「あそこ」はなんらかの現においてのみ可能である」。このなんらかの存在者は、「おのれの最も固有な存在のうちに閉鎖されていない」。つまり、「「現」という表現は、こうした本質上の開示性を指さしている」。249 またそれは、人間という存在者の「実存論的・存在論的な構造以外の何ものをも意味していない。」249

 存在者が「照明されて」いるとは、「世界内存在として明るくされているということ」(同)である。あるいは「現存在はおのれの開示性である」と言ってよい。 このような「内存在」そのものの説明、言いかえれば、現の存在の説明250をおこなうことがここでのテーマである。 それはAとBに区分される。

A 現の実存論的構成

29節 情状性としての現にそこに開示されている現存在

 現であるというありかた(内存在)には二つの等根源的契機がある。これを「情状性」と「了解」と呼ぼう。まず「情状性」とはどういうことか。

 情状性は、日常語では「気分」のことだ。
 しばしば起こる「くすんだ無気分」は重要な意味をもつので、この気分から考えはじめよう。現存在は、「そうした無気分のうちでおのれ自身に飽き飽きしている」。251 「気分のうちでこそ現存在は(略)おのれの存在に当面させられているのである。」251言い換えれば、「気分的に規定されているということが存在をその「現」のうちへともたらす」と言える。252

 このことのうちに、「現存在は存在しており、存在しなければならないという事実」が赤裸々に露呈している。→この事実を「被投性」と呼ぶ。(委ねられていることの現事実性)252

 つまりまず、情状性は現存在の「被投性」を露呈し、開示するのである。(しかし、常に明示的、自覚的ではない) 

 人間が、意志や理性で「気分」を制御、支配できるということは確かである。ただ、そのことは、「気分」こそ根源的な存在様式であるということを否定できない。「我々は、気分を支配するといっても、けっして気分からまぬがれて支配するのではなく、そのつどなんらかの反対気分にもとづいて支配するのである。」254

 また、情状性は反省的に見出されるのではない。むしろ反省というものが自分を「体験」という形でつかむことができるのは現が情状性に規定されているからなのだ。(→「すべての内在的反省が「体験」を眼前に見出しうるのも、現が情状性においてすでに開示されているからにすぎないのである。」254)

 しかし、気分はある意味で現を開示するのだが、また同時に現を閉鎖するような性格をももつ。これをよく示すのが、「不機嫌な気分」である。これを分析してみよう。不機嫌なときには人間は、自分と回りの世界への適切な気遣いのあり方を見失う。気分は反省において気づかれるどころではなく、いつのまにか人間を襲っている。「気分は襲う」気分は世界の「外」からくるのでも「内」からくるのでもない。それは内存在自身からきざしてくるのだ。255

 こうして情状性の本質規定をつぎのように整理できる。
?「被投性の開示」(存在の被投性)
?「世界内存在のそのときどきの開示」(状況性)
?「現存在の世界開放性」(主観のうちに閉鎖されず、世界へと開かれ差し向けられていること)=世界内部的存在から「襲撃されうること」(脅かされうること)

 このうち?、つまり情状性は、人間を「脅かすもの」として、世界の脅かす性格(恐れ、不安)として現われるということは、とくに「世界の世界性」ということの理解にとって重要である。

「純粋な直観というものは、たとえそれがなんらかの事物的存在者の存在の最もうちなる血管のうちへと押し入ろうとも、脅かすものといったようなものを、けっして暴露することはできないのである。」256 これはカント的(あるいはフッサール的な方法への批判を暗に含む)

 情状性は世界を第一次的に開示するので、世界をいわば見間違えたり錯覚したりする。だがこれは決して否定的なことではない。むしろこのような情状性のうちで現われる世界こそ基本的なのだ。だからこのような観点を、人間と世界を感情的に見る見方だなどということはできない。むしろ、情緒や感情的なものの本質が、まだ本格的に問われたことがないのである。
(以上)

第一編 現存在の予備的な基礎的分析

第一部 時間性をめがける現存在の学的解釈と、存在に対する問いの超越論的地平としての時間の説明

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