竹田欲望論のための試行ラボ
「哲学工房」

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ヘーゲル『精神現象学』


緒論

〔一 絶対者のみが真なるもの、真なるもののみが絶対〕

 哲学において真に存在するものを認識するさい、まず「認識」(あるいはその認識方法) について厳密に研究しておく必要があると考える(表象する)のは自然なことだ。このとき われわれは認識を、それを通して「絶対的なもの」(絶対者)を捉えたり見たりする「道 具」とか「手段」と考えているのである。
 このようにまず認識の方法が正しいものかどうかを憂慮するのは、もっともなことに見 える。ある認識方法がその認識対象に適切かどうか、また、認識一般が何らかの限界を持 つのでないかといったことを確定しておいてはじめて、正しい認識に到達できる可能性が つかめる、と考えるのは当然のことだからだ。
 じっさいこの憂慮は、「認識」と認識されるべき「絶対的なもの」の間には決定的な境 界がある、という考えを生みだしてきた(⇒カントの「物自体」など)。すなわち、認識が 「道具」だとすると、それは対象そのものを加工して変形してしまうし、また認識がなに か受動的手段(=媒体(→媒質))で、それを通して真理の光を見るようなものだとしても、 その場合でも、この真理は媒体を通して見えたもので真理自体ではない、というわけだ。 いずれにしても、認識をそのような「道具」や「手段」と考える限り、われわれは「対象 そのもの」には到達できない、という議論になるのである。
 また、道具の働き方をしっかりつかんでおけば、この難点も克服できるのではないか、 という説もありうる。われわれに見えたものから、この道具の働き方の部分を差し引け ば、対象それ自体が残される、というわけだ。しかしそんなことは錯覚で、形成されたも のから道具の作用を差し引けば、はじめに手にあったものが残されるだけだと言うほかは ない。
それでは、認識は「鳥モチ」のようなもので、「対象そのもの」を変形せずそれをただ手 元に引き寄せるだけである、という考えもあるが、そんな言い方は結局、認識の正当性と いった問題を言葉の上で回避しているだけで、捉えられるべき絶対者がいるとしたら嘲笑 するに違いない。また認識を「媒体」とイメージ(表象)し、それは真理の光線を屈折させ るもので、その屈折のあり方を差し引けばよいといった考えの無意味さも、さきに触れた とおりである。
 このように認識問題についてさまざまな議論があるわけだが、一方で学的な認識は(自 然科学の形で)現に立派に成立していることを考えると、この議論は学(→科学)に対する 不信を意味するが、そもそもこのような「不信」自体になぜ疑義が呈されないのだろう か。すなわち、この認識への不信、恐怖は、まず認識と観察主体であるわれわれを切り離 し、認識を「道具」や「媒体」であると“表象”した上で、一方に対象である「絶対的な もの」を置き、もう一方にこれと分離して「認識」を置く。まさしくこのような認識と認 識対象の絶対的な分離の仮定こそ、認識への憂慮、恐怖の考え方の特質なのだが、これは 「誤謬に対する恐怖」(間違うことへの恐れ)というより「真理に対する恐怖」(真理をつ かむことへの恐れ)と言うのが、相応しいよう思える。
 このような結論は、「絶対者のみが真なるもの、言いかえると真なるもののみが絶対で ある」という考え方から出てくる。しかし、ある認識は「絶対的なもの」の認識ではない が「真」でありうる、という考え方をとるなら、あるいはまた認識は、絶対者の把握には いたらないが、一般的な事物の認識としては可能であるという考えをとれば、上のような 結論は否定される。ともあれ、次第に明らかになるが、このような認識問題にかんするさ まざまな議論は、「絶対的に真なるもの」と「相対的に真なるもの」との区別がまだあい まいしか把握されていないために生じているものにすぎない。ここで論者たちが「絶対 者」とか「認識」などと呼んでいる語は、まだ深い概念規定を得ていないままなのであ る。



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