第一巻 純粋現象学への全般的序論
第二篇 現象学的基礎考察
第一章 自然的態度のなす定立と、その定立の遮断
31節 自然的定立の徹底変更。「遮断」、「括弧入れ」
⇒[解読]
さて、われわれはいまやこの自然的態度から離れて、一つの徹底的な態度変更を行っ
てみよう。
まず初めに、世界の「一般定立」(世界の存在の自然な確信)が成立しているのだが、こ
れは何か特定の判断なのではなく、いつのまにか成立しているという体のものなのであ
る。世界は、当然のこととしてわれわれの「目の前に」広がって存在している。この自然
な確信の上に、さまざまな具体的なあれこれの判断が成り立っているのである。このよう
な最も土台となっている世界の潜在的な一般定立もまた、普遍的な懐疑、つまり現象学的
な態度変更を行うことができる。この懐疑はデカルトが行ったものだが、ここで考えてい
るのはデカルトのそれとは少し違っている。
そもそも懐疑は理性の原理的な権利的可能性なのだが、われわれはこの懐疑の作用の本
質のうちに何が含まれているのかをよく考えてみなくてはならない。一般的に言えば、わ
れわれが対象の存在それ自身を懐疑するということと、対象の存在様態(どのような性質
か等)を懐疑することとは、まったく違うことだ。つまり、われわれはふつうは、ある存
在を疑いながら、その存在を定立している、つまり、存在確信をもっているということは
ない。そこで、自明のものとして存在しているものにある種の懐疑を向ける場合、この定
立を何らかの仕方で「停止する」ということである。
ただし、われわれのこの定立の停止は、定立を反定立とするもの、肯定を否定に転化す
るものではない。つまり、自然な確信を止めてしまうというのではない(そんなことは自
由にできることでもない)。この定立は、独自のものであり、いわばその定立を「作用の
外に」置き、「スイッチを切ってその定立の流れを止め」る、という体のものである。定
立がなくなってしまうのではなく、あえて「停止」しておくだけといえる。
デカルトの場合、その懐疑はいわば全般的な否定の試みに近い。あえて世界の全体を非
存在として想定するわけだから。しかしわれわれの懐疑は、世界の全体を非存在として想
定するのではなく、世界の自然な存在確信を保ちながら、あえて、この確信を「括弧入
れ」「遮断」するという態度を取るのである。(⇒フッサールは、しっかり言えていない
が、世界の存在を懐疑するのではなく、その存在の確信は動かさず、確信のありかただけ
を検証する、ということである。現象学的還元の趣旨は、世界の存在、その確実性を怪し
むためのものではなく、われわれの存在確信の条件を確かめる、ということなのであるか
ら〔竹田〕)
現象学の「エポケー」とは、そのような判断停止であって、定立そのものを消し去って
しまうようなものではない。定立は取り去られるのでなく括弧に入れられた定立」へと変
様されるのである。(だめ押しにいうと、これは「単に思い浮かべる」といった意識とは
違うので注意してほしい)
32節 超越論的現象学的エポケー
⇒[解読]
したがって、われわれはデカルトが行った懐疑とは少し違った意味での根本的懐疑を敢
行するわけだ。くれぐれも間違ってはならないが、これはデカルトのように世界の存在そ
れ自体を全く疑ってかかるというものではない。いわば一定の限定(制限)をもった懐疑で
ある。この制限は、つまり、われわれが暗黙のうちに行っている自然な世界確信、「一般
定立」だけをいったん「括弧入れ」するということ。その存在をソフィストのようにどこ
までも怪しむためにそうするのではなく、あえて、方法的に、この「一般定立」(自然な
世界確信)のありようを確かめるためにのみ、この確信をいったん棚上げするということ
だ。
世界がまず存在し、その中に私や他者が存在しているという自然な暗黙裡の前提、それ
がわれわれの生活の根本的な「地盤」となっているわけだが、これをいったん取り外して
おくのだ。これが「現象学的エポケー」の第一歩である。このことでわれわれは、客観的
な存在、自然現実、それについての学問的知見、そういったものを、一切、前提的にはも
ちいることができなくなる。といったからといって、およそ学問的知はここで一切使用し
ないというのではない。ただそれを確定したものとしては扱わないということ、どんなこ
とも「妥当」されたもの、確信として成立しているものという前提で考えるということ
だ。
だから、それはコント風のエポケー、実証主義のための先入見の排除、形而上学の排除
といった目標とは全く本質を異にしている。われわれはここではただ、全世界(に対する
われわれの自然な確信)を「妥当の外に」おくこと、この確信をいったんストップするこ
と、このことだけを行うのである。
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