(A)意識
I 感覚的確信、或いはこのものと私念 (感覚→このもの)
はじめの出発点は、単に現に見ているものについての「直接的な知」であって、これを「感覚的確信」と呼ぼう。感覚的確信は、直接的なその知を「このもの」としてもっている。これはもっもと具体的で豊かな知、またもっとも真実なものだと見えるが、しかし感覚的確信は、ある意味では極めて抽象的で貧弱な真理でもあることが分かる。というのは、この確信が自分の知についてもっている言葉は、「ただ「それが存在する」ということだけ」だからだ。つまり、感覚的確信はただこのものが「ある」ということを知っているだけなのであって、それが何であり、どのようなものであるか、については知らない。
言い換えれば、ここにあるのは、いわば純粋な「このもの」とそれに対する純粋な「自我」(このひと)、という対応関係だけなのである。ここでは感覚的確信と対象とのあいだにどんな媒介もなく、ただ単純で直接的な知があるだけだ。いわば個別的な「このひと」が個別的な「このもの」(が存在する)ということだけを知っているのだ。
しかし、この事態には、われわれの目からは、そこにさまざまな媒介的要素が存在している(幾多のものが戯れている)ことが分かる。つまり、一定の区別がたてられることがわかる。自我は、「ことがら」という他を通して確信をもち、「ことがら」のほうは自我という他をとおして確信されているのである。
〔一 この確信の対象〕
感覚的確信としての意識がはじめにもつ区別(知)は、「このもの」が「対象」であるということと、「自分自身」がひとつの「知」であることだ。つぎにまた、「知」(=このもの)は対象によって可能になっているが、「対象」はそれ自身で存在するもの(真)だ、という区別(知)である。
そこで、感覚的確信は、自分の素朴な知(このもの)が、果たして対象を正しくとらえているものかどうかをさらに確かめようとすることになる。「感覚的確信」はそこで、「このものとはなんであるか」と問う。素朴な感覚的確信では、「このもの」とは、「いま」「ここ」にあるものということだけだ。そこで、これは「いまとは何か」と「こことは何か」という問いに分けて考えてみる。
たとえば、「今とは夜である」と確信は言葉にして規定してみる。しかしこの言葉は、時間がたてば昼になるので、真理ではなくなる。「今とは何々である」といった規定のうち、正しいこと(真理)としてありつづけるのは、「いま」ということだけだ。同じことが「こことは何か」でも言える。「ここ(にあるもの)」は、樹であったり、家であったりするが変わらずにとどまるのは「ここ」だけである。
そういうわけで、感覚的確信において「普遍的」なものは、「いま、ここに、あるなにかが存在している」ということだけであることが知られる。はじめ感覚的確信は「このもの」(対象)だけが具体的で確実なもの(本質)、と思いこんでいた(私念していた)のだが、いまや、はじめに確実なものとされたものは、非本質的なものとなり、いま、ここの対象存在ということだけが、確信の本質となっていることが分かる。
⇒「このもの」って何だ? と問うたとたん、単なる「このもの」という感覚的確信は、「このもの」という規定にはとどまらなくなり、「いま、ここにある、何か存在する対象」という意識でだけ把握される。「〜とは何か」という問いは、対象を普遍化するからである。普遍化は、ある意味で対象の抽象化であり、その具体性を貧しくすることと引き替えに、抽象度、共有可能性を高める。〔竹田〕
〔二 この確信の主観〕
こうして、つぎのことが明らかになる。すなわち、知(=真理)というものは、結局「対象」それ自身よりもこれを見る主観のあり方に決定的に依存する、ということである。つまり、「今が昼である」と言えるのは、「私」が昼である「いま」それを見ているからであり、「これは樹である」と言えるのも、「私」が樹を見ているからだ、ということが明らかになる。
しかし、ここで「私」の感覚的確信ということもまた、全く同じ原理で相対化されうる。「これは樹である」という言明は、他の人間の「これは家である」という言明と対立して絶対的な真理とは言えなくなるからだ。するとここでは、共通項として残るもの(普遍的なもの)は、「ある主観(自我)が何かを見る」ということだけである。ほかの「昼」とか、「家」とかは捨象される(否定される)わけだ。
このことはつぎのような事態を考えれば理解されるだろう。
総じて、真理は言葉によって捉えられる。「私はいま樹を見ている」と言うとき、この言葉は、ある意味では「ほかならぬこの私」が、「ほかならぬこの樹」を見ているという「つもり」で言われるであろうが、しかしじつは「ほかならぬこの私」とか「この樹」といったものの具体性は決して表現できないものであることが分かる。だから、「私はいま樹を見ている」という言葉が真理として表現できるのは、もはやはじめの素朴なほかならぬ私が見ている「このもの」、ということではなく、「主観が、樹と呼ばれる対象の存在を見ているということ」それ自体なのである。
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