竹田欲望論のための試行ラボ
「哲学工房」
*ほぼ1ヶ月単位で順次更新
(B) 自己意識 W 自分自身だという確信の真理(自己確信の真理) (素描) 「感覚的確信」で意識が「対象なる真理」と考えたものは、経験の進み行きの中で、「意識」とべつものだという把握は消える。つまり、ここで、「意識」とそこに現われる「対象」という図式は消え、「(意識における)確信」対「真理」という図式が現われる。これはつまり、「確信」という「意識」のありかたそれ自体が意識の新しい対象となることである。この区別(知)は、いままでのように単純ではなく、つまり「意識‐対象」という区別ではなく、「意識」の「意識」自身に対する関係となる(「意識‐対象意識」)。この段階に至って、「意識」ははじめて「自己意識」(自分の意識のありかたについての意識)というかたちをとる。 (素朴な「意識」のタイプは三つ。@「感覚的確信」=(目の前のこのもの) A「知覚の対象」=(個物と一般理念)B「悟性」=(「科学的思考の対象」=(「力」感覚的世界を超えた、超感覚的世界=「空虚な内面世界」) 〔一 先行形態と自己意識〕 「自己意識」という在り方によってはじめてわれわれは「真理」という概念を本格的なものとして掴むことになる。「意識(主観)」−「対象」という素朴な図式は、ここではもはや消え去っている。「真理」をつかむということは、ここでは単に外側の対象を正しく把握する、ということを超え、さらに「自分自身の意識」のありようを吟味し、了解するということを意味する。ここでは、「私」とは、私の外側の他的存在に対して立っている存在である、という意識が現われる。そのような存在として「私」はある自立した「同一者」(「一」)である。このようなものとして、自己意識はまず「欲望」として現われる。 「欲望」は自己意識として、対象意識の二重性をもっている。一方でそれは単に「何らかの対象についての意識」であるが、もう一方でそれは、この対象を否定しようとする意識でもある。この否定性は「私」の同一性の主張という性格をもつ。 〔二 生命〕 上述したように、自己意識は自分のうちに「対象」を認めるが、しかしこれは「自己意識」の内なるものとして統一されるべきものとして現われる。つまり、自己によって否定され、統合されるべきものとして。こうして自己意識は「欲望」という形をとって現われる。 ここで自己意識の「欲望」の対象となるのは、他の「生命」であると言える。 「生命」の本質を「無限性」と規定することができる。つまり、区別と再統一の絶えざる運動性である。諸区別は、「植物」と「動物」、また「動植物」の即自的無限性と、「自己意識」の対自的自覚的な無限性、を区分することができる。 自己意識は、動物の意識とちがって、自らを「類」として自覚する意識である。 ⇒また、「生命」は「普遍的流動性」であるとか、諸区別項を保ちながら(否定・分裂)、同時に統一的な「一」である、等々と語っているが、重要なポイントは、二つの契機。第一が、生き物が、他の生命を否定して、自己化する(他の生き物を食べる)ことで、自己を再統合すること。もう一つは、この営みの全体が、生命連鎖となっていて、全体的な生命円還を普遍的統一性として作り上げていること。
(以上)
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