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 (というか,せめて隔月記くらいには……)

2012年8月19日

超買い得! はじめてのフッサール『現象学の理念』……
「超解読! はじめてのフッサール『現象学の理念』」がいよいよ書店に並び始めた(奥付の刊行日は8月20日)。今年3月に出た「完全解読 フッサール『現象学』」に対する、西研さんの(「内在―超越」「構成的内在」など用語解釈にかかわる)意見を受け、さらにクリアーな解読になった感じ。各章ごとに懇切丁寧な用語解説が付され、これはほんとうに分かりやすい。圧巻は巻末の「現象学的還元と確信成立の条件」。「確信成立条件解明の学」としての現象学の要諦、哲学としての意義が、現象学理解の(かなり嘆かわしい)現況への明快な解説とともに、鮮明に論じられている。この間の朝カルやNHK文化センターの講座(下に遅ればせながらの報告をしてますが……)を通しての考察も着実に生かされている感じ(なので、受講された方は尚更興味深く読めると思います)。
フッサール好きの管理人にとっては特別な一冊になりそうです。みなさんも、ぜひご一読ください。   /管理人

わたし的にはじめてのプラトン……
7月28日29日と朝日カルチャー新宿「完全解読ギリシア哲学」の合宿講座@箱根。
過去3回の講座で、「物語を使わず」「原理を立て」「それぞれ一からとことん考えつくす」という、哲学の原点といえる思考のありかたを築いてきたギリシア哲学の歩みを概観する。で、今回からはソクラテス・プラトン。フッサールも普遍洞察に基づく本質学としての哲学を展開した人として、高く評価している……などというような説明をしなくても、むしろ一般的にはフッサールよりはるかに高名な思想家なわけですが、不勉強な管理人は、これまできちんと読んだことがありませんでした。合宿での課題図書は「饗宴」「ソクラテスの弁明」「メノン」「パイドロス」。せっかくの機会なので、「パイドロス」(前半)のレジュメを担当させていただきました。

「パイドロス」。ソフィスト的弁論家のアクロバティックな詭弁に満ちた「恋愛論」に心酔する年若い友人パイドロスに対して、自らの本質的恋愛論と言語論を開陳し、世俗的打算に満ちた功利主義に陥ることのなく、「魂への配慮」のもと「よく生きることのよさ」を伝えようとする?一編である。はじめて精読してみて、(言葉ではなんとでも言えるという相対主義をきっぱりと絶ち)自分自身の心根に即して考えようとする実存的感度、フェアな言語ゲームを通して(懐疑主義やニヒリズムに陥ることなく)ほんとうへの信を形成しようとする思想的態度に共感を覚える。ある種「人の道」を説いているわけではあるが、決して道徳臭くはなく、「聖なる狂気」という表現のもと、自らの欲望の声を聞き取ったうえでより高い価値を創造していくことの意義(というかすばらしさ)を積極的に語ろうとしている。その点とても「エロス」的な人で、ニーチェがプラトンに批判的なことがむしろ不思議?という気がしました。

ただ、他の作品のレジュメ発表や竹田さんの解読レジュメを通して、世俗的なものに背を向ける形で「ほんとう」を語ろうとしすぎる傾向(ハイデガーの「本来性」の考えと同型の部分がある)が見えてきて? そこのところは少し気になった。プラトンを高く評価する竹田さんも、その点の問題について指摘していた(一般論としてだが、「思想が敗者の美学を語るようであってはだめ」と非常に興味深いコメント)。朝カルでのソクラテス・プラトン講読は引き続き展開していく。後期は『国家』を精読する予定。「ほんとうを生きることのよさ」を考えあうための原理を伝えるプラトンの言葉が、「社会・現実の関係を生きることの可能性」とどのように結びついていくのか。……興味が湧いてきました。


何度目かのメルロ・ポンティ……
7月21日22日はNHK文化センター、メルロ・ポンティ講読合宿@足柄。
4月から続いた「知覚の現象学」講読シリーズの掉尾を飾る合宿である。メルロ・ポンティには何度かチャレンジしているが、詩的に素敵でとらえどことがない?表現に翻弄されてしまう感じで、きちんと読めたという手ごたえを得られたためしがない。で、今回の講読では「(ポンティが)フッサール現象学をどんな形で継承しているのか」という自分的テーマをもって臨んでみることにしました。

で、ハイデガー同様に、現象学の本質観取の方法を体得している人だということをあらためて実感。ここでの「知覚⇒身体」の本質観取はやはり優れものでした。とくに、(フッサールの「イデーンU」の記述からヒントを得ていのだが)身体を「能力の座」としてとらえ、しかも「習慣的身体」という概念のもと、経験相関的に編まれ・編みかえられている様相をとらえだしているところはおもしろく(竹田さんの「幻想的身体」の考えとほぼ一致する?)、この考え方って「実存にとっての世界」をとらえていくためのベースになるよなあ……と思いました。

だが、「(もともとの真理という考え方を禁じ手にして)共有可能な確かめの仕組みをつくる」というフッサール現象学の核心にある発想は(こちらもハイデガー同様)受け止められていない様子。「主知主義」「客観主義」いずれの方法からもアプローチできない、始原的な世界のあらわれに立ち会うことこそが、メルロ・ポンティにとっての「現象学」のようだ。『知覚の現象学』序文では、世の人から「主知主義」(「主観哲学」)として誤解されがちなフッサールに対して、ほんとうは自分同様のモチーフ(超越⇒始原的世界への感度)をもっていた、という方向からの擁護を試みている。「世界をとらえつくせる特権的な視点はない」という前提に立ったうえで、「主観」(という「共通のプラットホーム」)に定位し、さまざまな対象確信の様相を超越「論」的に(フッサール用語的には「構成的内在」として?)とらえだそうとする真意は理解されていない感じで、その点は残念な気がしました(それでも、結果としては「主観に定位」したうえで、身体の優れた本質観取を行っているわけなんだけど?)。ハイデガー後期思想のような形而上学的な怪しさは一切感じられないのだが、始原・根源への思慕という点では重なり合うものを感じた。

NHK文化センターでの約2年?に及ぶ竹田さんの「フッサール」「ハイデガー」「メルロ・ポンティ」完全解読講座を通して、それぞれの思想の骨子と相互の関係が自分なりにかなりクリアーにできた感じ。
竹田さんは今後半年ほど、主著のひとつになる(だろう)「欲望論」の執筆に専念するということで、NHKでの講座はその間お休み。竹田さんの毎回の精緻な解読レジュメが、どのような形に結実していくのか楽しみです。
                                                              /管理人


2012年3月24日

ハイデガー。「本来性」がどうしても気にかかる……
3月10日から11日にかけてNHK文化センター、ハイデガー「存在と時間」講読講座の合宿が行われた。今回の講座が「完全解読・『存在と時間』』シリーズの最終回で、後半のクライマックスともいえる、「良心」論から現存在の本来的な先駆的決意性をとらえ「時間」「歴史性」の考察へと展開する箇所を精読した。

全体的には……「存在」≒「真理」への信憑と、その信憑を背景とする(「死」の不安を隠蔽して日常性に埋没した)「非本来性」から(「死」の不安を直視して「自らの最も固有な生」に目覚め、「ほんとう」を生きようとする)「本来性」への覚醒というモチーフが、素地として優れた実存思想家であるハイデガーをして、現象学的普遍洞察性を曇らせてしまっているのでは?(「実存的現象学」ではなく「実存的形而上学」になってしまっている?)……という印象をもった。

まず「良心」について。平素ひとが現実の中で抱く「良心の呵責」というようなものは、あくまでも「非本来的」で、そのおおもとには人間の根源的な「非性」(人の生というのは究極的には「存在」あってこそのもの、というような感じ?)とそこからくる「責めあり」の意識がある。良心は現実関係の中で築かれたり、努力して持てたりするようなものではなく、(周囲への顧慮の中に埋没し)頽落した日常生活を脱して、「自らに最も固有な(一度きりの)生」を「本来性≒存在の開示性に即した、もともとあるべきほんとう」のもと「先駆的決意性」をもって生きることができる、可能性の証(あかし)なのだ……というようなことが言われる。

良心が日ごろの自らのありようやふるまいを、「よりほんとうでありたい」という自己への配慮のもとに見つめなおさせる契機になっている……ということであれば、だれしもが「共構造」として認められることだろう。自己や他者との関係のなかに、「ほんとう」への期待がもてなくなると、生きていくことはかなりつらいものになる。ハイデガーの論にしても、こうした実存的問題意識に根差したものだ(ろう)ということは感じられる。だが、ハイデガーのように、(ちょっと酷い言い方だが)「存在」≒「真理」に支えられた形而上学的世界観を前提にできない限り、「良心」が日常世界と異層にあるような「本来性」へ誘ってくれるという、「そこから先」の考察をともにすることはできない。現実的諸関係のなかで「ほんとう」の内実を得ていくこと以外に、「ほんとう」への「信」が絶えてしまわないようにする道はないのではないか、と思えてしまう。

「時間論」にしてもそう。「これからのありようを思いつつ(到来)いままでをとらえ(既往性)今を生きる(現在)」というように、現存在(人)自身の生の展開に即して時間をみとろうとする視点は、実存思想としての白眉という感じ。竹田さんも……「持続的な自我による存在可能性」への配慮という実存の構造(→「わたし」という一貫したストーリーのもと世界を生きようとする人間の生のありかた?)が時間性を形成しているが、ハイデガーの「時間論」は、こうした時間の本質を踏まえた出色なものだ、とコメント。

だが、ここにもきっちり「(対人関係に埋没して生きてしまっている)非本来的時間性(=「予期/期待」「現生化」「忘却/想起」)」と、それに対峙する「(「死」を見すえ、この自分自身の本来的な生を自覚的に生きようとする)本来的時間性(=「先駆」「瞬視」「取り返し」)」という仕分けが入れられる。
たしかに、「周囲に波長を併せているだけで自分自身を生きられていない(退屈な時間がゆっくり過ぎる)」「何かに熱中しているうちに意識せずに時間が経過している」などというように、生の状況に呼応して時間体験の質も異なってくる。だが、(現実的諸関係を超えた「存在」≒「真理」への信憑を前提にできない限り)、こうした経験を「本来性」「非本来性」という構図のもとに考えることに、意味があるとは思えない。

この点について、竹田さんが、(「本来性」「非本来性」ではなく)「共同的な時間」と「固有な時間」という質の違いが時間(という体験)にはあると考えたほうがよい、とコメント。……たしかに、(ハイデガーがそれ自体非本来的だとする)「客観的な時間(表象)」にしても、共同生活を営むうえでの必要と要請のもとに編み上げられてきているに違いないし、事実そのように機能もしている。こうした二つの時間性の往還のもとに「(個別的な)実存」と「関係」を生きている、ととらえたほうが、諸々の生の事態を考えるためには有効な糸口になる、思う。

「歴史」への考察も同様の構図のもと展開されている。「到来(未来)」「過去(既往)」「現在」という時間性において「自己のストーリー」を展開して生きる「現存在」自身のありかた(「生起」)そのものが、歴史性(共有のストーリーのもとに共同世界を生きようとすること)の底板となる……という優れた実存論的歴史観が展開される一方、「共同体的他者」と結ばれた民族の「運命」をめがけることこそが歴史性の本質である、という飛躍した主張がそこに連結される。さらに、(民族の)共同的な「善」のために「死」をも受け入れたうえで自らの可能性を見出せることこそが、本来的な実存可能性(自由)であり、ここにおいて「本来的歴史性」も成り立つという、もはや現象学的考察とは乖離した(予め用意されていたかのような)結論が付加されてしまう。(なぜ「市民社会」ではなく「民族」なのか、などの疑問が他の受講生からも出されていた。)

ここには、二つの世界大戦の狭間という(『存在と時間』が執筆された背景にある)時代状況が深く影を落としている(のだろう)。国家の戦争が不可避な運命として感得され、そのうえで生の意義や価値を見出そうとするなかで、「死を賭して民族の共同的な『善』のために尽くすことこそが、本来的な生である」というストーリーが切実に希求されたのではないか。また、(「良心論」からも窺えるように)ハイデガー自身のうちでは、おそらく(「存在」という「超越」への「信」と同様)「民族の運命」「共同的な善」といったものが「内在化」=「了解」されており、「情状性」のもと(「良心」の呼び声のもと)に実感されていた(=自らの実存に根差した)ものだったのだろう。

竹田さんは……ハイデガーほど本質的洞察に優れた思想家が、「国家(間)において戦争は決して不可欠なものではない」という概念を持ち得ていれば、決してこうした結論には至らなかっただろう。(「自由」な、それと同時に「信仰」→「予めの善」を持ち得ない個々人が、それぞれの「了解」と「納得」に基づきつつ、よりよい「関係」を生き、よりよい生を営む一般条件を構想しようとした?)ヘーゲル・ルソーらの「近代(社会)哲学」のモチーフが受け止められていないし、普遍闘争状態を回避するために「国家」が形成されてきたという「歴史」への広い視野も剥落している……とコメント。

「情状性」「了解」(に基づく「内在的」な思考)は「思想」「哲学」にとって不可欠な契機だが、同時に「普遍性」を念頭においた吟味と検証も欠かせない、ということかもしれない。『存在と時間』での現存在分析が(近代的)人間の生の諸様相の本質を射当てている一方、「本来性(への先駆的決意)」「民族の運命」など「信念(直感)補強」的な内容が多分に含まれてしまってる理由は、そこにあるのではないか。
……「内在」に定位したうえでかつ「広く」「確度の強い」普遍性へと行き届いた「概念」を紡ぎだす。その「概念」が、個々の自己了解を刷新し、新たな可能性を展望させるような力を与えていく。そうした営みこそが、「哲学」「思想」という言語ゲームの本質としてあるのではないか(その点、ハイデガーの「存在論」はかなり残念)、などということも考えさせられた。

いずれにしても、今回の講読講座、竹田さんの完全解読レジュメと刺激的なコメント、受講仲間の的確な読みにたくさん示唆を受けながら、かつてないほど『存在と時間』を読み深め、『存在と時間』から考えることができたように思う。


ニーチェ。付き合うための糸口がようやく?
3月3日から4日にかけては、朝日カルチャー新宿、ニーチェ『力の意志』講読講座の合宿。こちらのほうもシリーズ最終回の講座である。

形而上学的世界・あらかじめの客観世界への信憑を排し、欲望相関的な認識論の視座を打ち立てたことが、やはりニーチェ哲学の大きな功績だということを確認。「超越」への信仰を心性として担保したうえで思想を展開している?ハイデガーと比較してみると、ヨーロッパ近代人として、これは相当な力技だったのではないか……という気がする。

「超人」というモチーフにしても、「神」という超越と同時に「ほんとう」への信が潰えてしまいそうな時代状況のなか、それぞれの生の場所から「ほんとう」を表現し、内実ある形で育て合っていけることをめざしてのものではないかと思うと、共感できるように思える。こちらも、「あらゆる物語を排して」ということを口にしておきながら、最終的には「民族の運命」「共同的な善」という「物語」(としか思えないようなものを)を持ち込んでしまっている『存在と時間』でのハイデガーと比べてみると、その徹底ぶりがよく分かる。

「永遠回帰」説などで提示された、なんかよくわからない物理学的な?世界観にしても、決して実体としてそれを考えていたわけではなく、(それまでの)キリスト教的な物語に支えられていた世界観を転換し……世界そのものの側に何か道理があるとしてもこうした無機的なものにすぎない。人の生きる世界に意味や価値を与えるのは、あくまでも人間自身の生の側にある……ということをいわんがためのものと考えると、「全然あり」に思えてくる。

さらに、今回の講読箇所にはニーチェのこれまで(自分には)見えていなかった一面を窺わせる箇所があった。キリスト教的価値観において軽視されてきたような(心を癒し元気を与えてくれる)ささやかな小さな世界を愛でようとするニーチェである(第1016節)。心が疲弊しているときに、美しいと思えるもの、愉しい記憶とともにある小さな事物が、生への肯定感を取り戻すきっかけになる、ということは自分の場合よくある。ニーチェにしても、なんかそうして一生懸命生きてきた人なんだなあ、というような親近感を感じられた(ここに注目させてくれたのは西さんです)。

(弱者の)偽善・欺瞞を糾弾するような論調に気圧されてしまい、どうもニーチェは……という思いがずっとを尾をひいていたが、今回の講座を通して、自分なりにニーチェと付き合うための糸口が遅まきながらようや見えてきたことが実感できました。(以前から、「まず『ツアラトストラ』を読んでみれば?」と竹田さん、西さんには言ってもらっていたのだが、ようやくひも解く気になり……のぞいてみると、たしかに、ここには、生の肯定観を自らの手で打ち立てようとする真摯で切実な思いが満ち溢れている感じです。)

フッサール。やはりたいしたものではないでしょうか。
だが、そんなニーチェにしても、(『権力への意志』でも再三語られている)「力のせめぎあいそのものが世界を形成している」というような「生物学主義的?力そのもの図式」は、哲学的な認識論として不要なものじゃないか……という思いは残った。その点、「もともとの世界」という観点を一切もたず、それぞれの生の現場(実存)に定位したうえで、誰しもにひらかれた形で普遍的な意義や価値を追求しあえる思考の原理(=現象学)を確立しようとしたフッサールのモチーフというのは、相当すごいものではないか……ということをあらためて感じたりもする(しかも淡々とかつ執拗にそれに取り組んでいるし)。

で、先日、『完全解読 フッサール「現象学の理念」』がいよいよ刊行されました。フッサール自身の読みにくういテキストから、そのモチーフを掴みだしていくには相当な根気と労力が必要とされる(と思う)が、この一冊は間違いなく最善の導き手となってくれます。
「フッサール」と「現象学」に、一人でも多くの人が出会ってほしいな、と思います。
                                                 /管理人