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 (というか,せめて月記には……)

2011年12月25日

現研で「ブリタニカ草稿」
12月10日は久しぶりの現象学研究会。フッサールの『ブリタニカ草稿』を講読した。
弟子のハイデッガーとともに「現象学」を定義づけようとする共同作業を通して、それぞれの立脚点の違いが浮き彫りにされるに至った興味深い一編である。課題図書としたちくま学芸文庫版には、ハイデッガーが執筆を分担した過程稿やフッサールへの書簡も併せて所収されており、双方の思想上の相違がどこに生じているのかを探るうえでは効果的な構成になっていた。

最終稿である第4稿は、「客観・あらかじめの世界」を「いかに正しくとらえるか」という構図を棄却し、意識にどのように現出(現象)しているのかという場面に定位する(つまり「現象学的還元」を行う)ことを通して、諸対象を(確信・信憑として)「そのように(いわばアプリオリに)とらえてしまっている」事態のありようと成り立ちを、「超越論的主観性」(「超越」≒「確信成立の要件」をとらえ返そうとする自覚的な目的意識)のもとに確かめ(合って)ていくための思考の原理を確立する……というフッサール現象学の要諦と、(そうした思考の原理に基づいて)諸学問の基盤、人間的意味や価値の問題を考察していく拠点を築こうとする射程を明確に伝える内容となっており、とてもおもしろく読めました。

ハイデガーの場合、「内在に定位して現象をみとる」という構図はフッサールと共通している。しかしそのモチーフは、「存在」(という根源的なもの)の探求にあり、そのための方法として「現象学」がとらえられている感じ。自ら手がけた(フッサールによって最終的に削除された)過程稿(第2稿)の冒頭には、(すべての存在者の根底にある)存在への問いこそが、本来的な哲学においては一貫したテーマであったという旨が記されている。その点、あらかじめのほんとうを禁じ手にしたうえで、「洞察に基づく共有」をめざした、フッサール自身の核となるモチーフは受け止められていない感じだ。

付録として所収されたフッサールへの書簡にも興味深い一節があった。超越論的構成なるものを考察するのであれば、それを可能にしている実存、現存在に視点を向けることが不可欠ではないか、と師匠に問う内容のものである。確かに、フッサールの場合、ハイデガーのように情状性≒気分・欲望と不即不離にある(人間にとっての)世界の腑分け、という観点を明快に示していない。その点、実存哲学としての弱点を師匠に指摘しているかのようにもみえる……のだが、ハイデガーの場合(そうして世界を受けとめている)「現存在」を底板にするのではなく、(根源的・本来的な)「存在」が開示される場所として「現存在」を考えてしまっているので、「実存」に定位する哲学という視点からみると師匠よりも明らかに後退している。

だが、「存在と時間」での秀逸な現存在分析=人間考察をみても、情状性という契機を抜きにして人間にとっての「ほんとう」は語れない、という直観自体にはとても優れた人だったんだろうな……と思わせたりもする。ここらへんのことについて、竹田さんが、(哲学)の方法(原理)としては明らかにフッサールが優位だけど、(哲学的・本質学的思考の)「成果」としてはハイデガーに分があるのではないか……と、とても合点のいくコメントをしていた。

現象学研究会HPで毎回秀逸な報告をしてくれる小井沼くんが、今回の研究会についてもまとめを引き受けてくれた。管理人的にも楽しみにしています。(追記:12月29日UPしました。是非ご一読を)

ニーチェの認識論
12月17日は、朝カル新宿・ニーチェ「権力への意志」の講読講座。第3章「認識としての権力の意志」を読む。
人間の意識がとらえている世界は、あくまでも意識がとらえられる限りのもの、「観点」によって(「遠近法」のもと)構成されたものにすぎない、というニーチェ認識論の基本的な枠組みが示されており、(もともとの本当をいかに正しくとらえるかという)「真理主義」「客観主義」を転換するための、いわば欲望相関的な世界認識への着想がうかがえる。だが、近代の意識主義・主観哲学を「意識に定位して真理(存在)をとらえる」ものとみなしたうえでの論難が続くことには違和感をもつ。近代哲学の要諦は、「意識に還元すれば真理がとらえらえる」ということには決してなく、「意識の外側に立つことはできない」ことを前提にしたうえで、ものごとをとらえる共通構造を確認し合うプラットフォームを、意識の内側から築(き合ってい)くことにあるのでは……と思ってしまう。

その点について竹田さんが、ニーチェには(カントの「もの自体」に比肩する)「力自体」という「根本仮説」が生き残っているのでは、と指摘。たしかに。「(人間の意識からはとらえられない)生命の脈動(のようなもの)がそもそもの根源にある」という世界観がニーチェの表現の端々かはうかがえる。そうした(ともすると生物学主義にすらみえる)「根本仮説」が、実存に定位する哲学を展開するうえではあきらかに障壁になっているように思う。

たが、その一方、今回の講読箇所でニーチェは、(たとえ「真理」が「信憑」であるとしても)人にはそれなしでは生きていけない「真理」があるものだ、という注目すべきコメントもしており、素地として類まれな実存思想家であることも確認する。
「権力の意志」の講読は来春の合宿講座でさらに展開。ニーチェ思想の最良のエッセンス(と問題点)を、自分なりに踏まえられるようにする機会にしたい、と思います。


「死」の本質観取
続く12月18日はNHK文化センター、ハイデガー『存在と時間』の講読。今回の購読箇所は第51節から第53節。ハイデガーが「死」の本質観取を企てている、ひとつの山場ともいえるところ。

「死」に向き合うことが、(いつでも終焉してしまう可能性をもつ)一回限りの生を自分が生きているという自覚をうながし、自分自身のありかた、人とのかかわりかたについて一から見つめなおす契機になる、という件については(何度読んでも)納得させられる。しかしそのことが、平素の(世人としての)頽落したありようを自覚させ、「本来的な実存」への可能性を導く……という展開については(何度読んでもやはり)違和感。死の自覚が、よりよい生を生きたいという動機を喚起するとして、果たしてその内実はどのように見出していけるものなのか。ハイデガーは何をもって人間の「本来的な」生と見做そうとしているのか。……そうした問題をよりはっきりさせられるように、来年の講読に臨みたい。と思います(次回1月の講座のレジュメを担当してます)。


2001 年9月10日
足柄山のハイデッガー

9月3〜4日は、神奈川県足柄山ほど近くの温泉付き宿泊施設で、NHK文化センター・ハイデッガー『存在と時間』講読講座の合宿。第3章「世界の世界性」の適所性と有意義性、第5章「内存在そのもの」から第6章「現存在の存在としての気遣い」にかけての箇所を精読した。



ここは、『存在と時間』での、ハイデッガーの実存論的発想を伝える要のようなところ。「自分がおかれている状況」を、「(それが)気になっている自分自身の気持」をよく踏まえたうえでとらえ、言葉にしてみる。「(そう)とらえようとする」ことは、「(それでは)自分はどうしたいのか」という意志・目的意識と表裏一体のものだし、「言葉にしてみる」ことは、自己の状況理解を確かにすることと同時に、「他者との世界」を生きていることが自分のなかでは前提になっていて、その理解を分かち合おうとしている事態を如実に示している。……このように、それぞれの人間(「現存在」)が、(それぞれの生の営みを問題にしながら)それぞれの世界を生きているありよう(「世界内存在」)を、「情状性」「了解」「語り」の概念によって輪郭付けていくところは、何度読んでも深く納得させられる。

人間という存在が関心(欲望)相関的に世界を生きており、気分・情状が今の自分のありかたをとらえる契機となること。(社会や歴史などの)関係性の網目のなかで生を展開することを条件づけられてはいるが、(個々人が)それぞれの生のありかたを見つめなおし、展開しようとする営みのなかに、その関係性の網の目を刷新する可能性も含まれているということ。(ハイデガーの問題意識の根底にある「存在への問い」の内実が今一つ定かではない、というそもそもの問題はあるのだが、それにしても)人間にとっての「意味」や「価値」の問題を考察するためには、まずこうした人間存在そのものへの本質的洞察が基盤になる、ということをあらためて考えさせられたりもする。

さらに、今回の講読ではハイデッガーの実存論的言語観がクローズアップされ、その点もとても面白かった。『存在と時間』第5章33節では、人は「了解」(状況への理解)を他者と共有化するにあたり、「陳述」(「(これは)○○だ」という述語を伴う表現形式で対象を規定すること、対象を一般的に主題化していくこと)という契機のもと表現・伝達を試みるが、その際には(他者との間に)誤解やズレが生じがちだということが語られている。また、第34節では、「言語」を現存在(人間)の本質契機である「語り」のもとにとらえ、かつ「言語」が「事物的存在者」「道具的存在者」の二側面をもつものだということが示されている。そして、前者のみに照射した従来の「言語学」「論理学」では「言語(行為)」の本質をとらえることは不可能だ、というようなことにも触れられている。

ちょっと茫洋とした言い方になっているものの、ハイデッガーが、「陳述」「事物的存在者」(いわば「ラング」)を媒介に意を尋ねあおうとする人間自身の営み(「道具的存在性」、いわば「パロール」)を、「言語」の本質とみなそうとしていることが十分伝わる。その基本的な構想は、竹田さんが『言語的思考へ』で示した言語観、すなわち「一般言語表象」を介した「企投的意味」の信憑形成の場として言語行為をとらえる発想にも符合している。ハイデッガーが、やはり実論的・本質学的考察に優れた思想家であるということを、再認識する機会にもなった。

とはいうものの、この「語り」においても、後期思想につながるハイデガー的問題(点)をほうふつとさせるところがあった。ハイデガーは「語り」における枢要な契機として「沈黙」を取り上げている。ほんとうに大切なことであれば、(多)言を弄さずとも、一様な形で人々に聞き取られていく(受け止められる)はずだ、という感じである。

また、(現存在の日常的なありようである)「世人」の、他者や社会への平均的日常的理解を交換し合う「公共的」な会話そのものが「空談」とみなされ、否定される。確かに、ふだん「なんかこれはしょうもないなあ」というようなおしゃべりをしたり聞いたりしていることは往々にある。だが、ハイデガーの場合、生活世界のなかで分有された価値観を前提に考えたり考えあったりする行為そのものを、構造的には「非本来的」なものであるとみなしている観がある。しかし、あらかじめの(客観としての)「ほんとう」を想定しない(できない)限り、人はこうした公共的な語り合いの場面以外に、「ほんとう」の内実を見出し合う機会をもたないはずだ。また、(沈黙せず)語り合い確かめ合うこと抜きに、「これは自分の主観的な価値観にすぎないものではないか」という疑念を拭い去る方途も見いだせないように思う。

この点に関して、ハイデガーには、ヘーゲルのような、それぞれの自我の欲望を前提とした相互承認のもと「ほんとう」を尋ねあっていく、という(近代人の生の基本条件に定位した)「関係論」的視座が欠けているのではないか、という意見が(講座に参加した現象学研究会の金泰明さんから)出されたのだが、「なるほどなあ」と考えさせられた。

といいつも、ハイデッガーは、近代社会の構造的問題に対する何かしらの実存的問題意識を背景に、こんな語り方をしているのかもしれないな……という気がしないわけでもない。また、今回第6章40節「現存在の際立った開示性としての不安という根本情状性」で触れた、人は(死の)「不安」を契機に、安らぎを得ながら過ごしている日常的(非本来的)世界の自明性を剥奪され、自己の固有な存在可能性へと向き合される……という以降の展開を支える基本的構図にしても(日常世界の外側に生きること自体が不可能なんじゃないか、という思いはあるものの)、宗教的な世界観のうちに生の意味や意義を決着させることができず、自らの実存を自らのもと引き取って生きていかなければならない近代人の生の基本条件を正視したうえで、こうした問題意識が出てきているのに違いない、と思わせる説得力がある。

竹田さんからは、人間が自己のありようを根本的に見つめなおす契機は、死への不安だけではなく、倫理の問題もあるのではないか、という意見が出された。たしかに。以降の「死の本質観取」「良心の呼び声」などの箇所の講読を通して、そのことも考えてみたいな、と思います。

竹田さん、イギリスで動いています。
先回の管理人日記で報告した、IHSRC(国際人間科学学会)での竹田さんのプレゼンテーション「An Attempt of Complete Decoding of “The idea of phenomenology ”」を動画で公開しました。その場の雰囲気など含めて堪能していただければと思います。

ちなみに竹田さんは、先述の「ハイデガー足柄合宿」で、(夜の特別講義として)このときの報告を(パワーポイント含め)日本語バージョンで行ってくれた。英語力が乏しい管理人的にも、あの日の発表内容があらためてよくわかり、たいへんありがたい企画でした。(9月14日追記:こちらの動画もUPしたので、併せてご覧くださいね。)


鶴研でケインズ
8月27日は鶴川経済学研究会、略して鶴研。課題はケインズ『説得論集』。ケインズ入門としては格好の一冊ではないか、という主催者・K野さんの推薦による。

たしかに、ケインズ自身がめざそうとする「生活様式」(ライフスタイル?)が明快に打ち出されており、モチーフがつかみやすい。とくに(講読対象ではなかったが)1930年に書かれた「孫の世代の経済的可能性」という論文は非常に面白い。財が多くの人に行き渡り、蓄財への強迫観念から人々が解放されマネーゲムが終焉し、文化のゲームを人々が享受できる社会。そうした、いわば経済学が用を為さない社会をケインズ自身は理想としていたことがわかる。竹田さんが『人間の未来』で提唱する社会像に符合するところも多い。

(こちらは講読範囲だった)「自由放任の終わり」(という論文)では、「資本主義は賢明に管理すれば、どの制度よりも経済的目標を効率的に達成するうえで有効だ」としたうえで、資本主義に内包された「嫌悪すべき性格」を指摘し、「効率性を最大限に確保しながら、満足できる生活様式に抵触しない社会組織を作り上げる」ことの重要性をうたっている。要するに、「自由」の創発性にねざしながらも、「公共性(一般福祉)」を念頭に置いた調整に取り組んでいくことが必要……ということを言わんとしているのだろうか。また、時代的にはハイデガーの『存在と時間』に近く、(表現の方向性は違うけれども)なにかしら通底する問題意識があるのかもしれないな、などと思ったりもした。

経済学の実効的な側面についてはまだよくわからないが、経済を勉強することへのモチベーションは高まったように思う。K野さんありがとうございました。次回もよろしくお願いいたします……。

2011年8月21日

完全解読完全対訳
7月27日〜30日、竹田さんはイギリスのオックスフォードで開かれたIHSRC(国際人間科学学会)に参加。管理人も同行。この学会は、心理学の質的研究などをはじめ、哲学プロパーではないものの、現象学をそれぞれの専門領域に生かして考察を深めようとする問題意識をもつ諸氏の集う場である。
竹田さんの発表は29日。「(もともとの)客観」を自明視せず、諸対象の「確信成立の要件」を意識体験からみとっていくという現象学の発想の基本、それにより、「主観的確信」「共有可能な確信」「普遍的な確信」というように、(人間にとっての)対象性の違いをだれしもが自分のうちで明らかにできるようになり、(必要かつ有効な対象において)だれもが納得できるかたちで共通本質を見出していくための道筋がひらかれていく、という現象学の射程を、パワーポイントでの図説も駆使して説明した。

この学会での発表に併せ、ホームページに(程なく刊行が予定されている)「完全解読(フッサール)『現象学』の理念」の一部と、竹田さんのあとがき(解説)の英語対訳版を掲載。発表の際に、「詳しくはこちらも参考に」と紹介された。会場からは「おお……」というような日本語以外のつぶやきがわきあがり、管理人としても幸せな時間をすごさせていただく。



学会の全体的な様子をみると、人間的意味や価値の問題を考察するに際して現象学がもつ可能性に期待が集まっているのと同時に、思考の原理としての現象学の内実を、よりクリアーに共有化することが求められている……のではないかという印象を受けた。その点、今回の竹田さんの発表の意義は大きいし、かつ、フッサールのテキストによく向き合ってみると、一見難渋な言い回しの背後に、(「客観」という信憑を還元することで、だれしもがそれぞれの意識体験を通して、ものごとのありようを確かめ直し、確かめ合うことができる思考の原理を確立する)という(煎じ詰めればけっこうシンプルな)発想の基本が見えてくることを、完全対訳を通して広く共有化していくのも重要なことだと思う。

「完全解読・現象学の理念」の英訳版作成は、短期間でのとても集中した作業だったし(なでしこジャパンの活躍に励まされながらの作業の様子でした。現象研・独研のメンバーで、翻訳家磯部さんも活躍。)、竹田さんは行きの機内はもとより、本番直前まで発表原稿と資料の推敲を重ねていた。その成果もあり、「現象学がはじめて腑に落ちた」ということで、個別に質問に来られた方もいらっしゃった(竹田さんはいつも同様丁寧にいつもと違って英語で応接していた。)「真剣勝負」という感じの、とても充実した発表だったと思います。

でありながらも……「客観(への信仰)」というのは「最後の超越」として生き残っている感じがするし、現象学の発想を伝えるはそう簡単なことではなさそうだね……と、事態を楽観視していない竹田さんでした。


二日連続講義
8月6日、7日は朝カル新宿・ニーチェ『道徳の系譜学』講読の合宿講座。60名近くの方が参加した。今回のニーチェ講読シリーズで竹田さん西さんの講座に初めて参加した、という方もかなり多い。最近のニーチェブームも関係しているのかな(西さんもNHK教育テレビの100分de名著「ニーチェ」に出演したし)、と思ってうかがってみると、竹田さん西さんいずれかの著作を通して二人の哲学に関心をもった方が多く、それぞれの仕事(医療などケア関係の仕事がやはり多いようです)や生活のなかで抱えている問題をクリアーにする糸口を見出していきたい、などという参加の動機をおうかがいする。二人の哲学が着実な形で浸透している。という感じです。

自分の場合、単独でニーチェの本を読もうとすると、偽善欺瞞を糾弾するメリハリのあまりに強い言い方に気圧されてしまうことが多く、竹田さん西さんのニーチェ読みに、その思想の最良のエッセンスを引き出す視点を与えてもらっている。
(根強く生き残っている)「真理・客観」図式を転換し、それぞれの実存(のみ)にたって意味や価値の問題をとらえ直そうとする方向性を切り開いた功績はなんといっても大きいと思う。また、他者との関係への配慮や気遣いが、ただ負担に感じられたり、偽善・欺瞞に思えてしまうのはどういう局面か、生への肯定感を失うことなく、よりよい価値を目指しあえる関係のもち方・社会の営みはどうすれば可能になるのか、など……まず「よりよい生を展開する」ということを念頭にしたうえで、諸問題を考察しようとする発想をもつきっかけを与えてくれる……ようにも思う。
ただし、『道徳の系譜学』は、どちらかといえばキリスト教とそれに立脚する倫理・道徳を論難することに終始しており、ニーチェ自身何を目指しているのか、ということは、次の講読課題『力への意志』でより明らかになる、ということです。

「ニーチェのモチーフ(肯定感をもってそれぞれが生を展開できること)を実現するために、ニーチェだけで足りないものは何か」、というテーマを併せて考えようとするのが、竹田さん・西さんのニーチェ論の魅力でもある(ように思う)。深夜の懇親会でも、(受講者との意見交換のもと)竹田さんは「未来への希望をつなぐための具体的な社会構想」、西さんは「『生への肯定感』には(ニーチェ自身の考察には欠けている)『承認』という契機が不可欠」など、それぞれの観点からニーチェ論をさらに展開。ときのたつのも忘れ、気づいたら午前4時……という感じでした。

翌日8月7日の12時でニーチェ講座は終了。場所を川崎から青山に変え、15時からNHK文化センター・ハイデガー『存在と時間』の講読(こちらは竹田さん単独での講座)。自分自身『存在と時間』は何度目かのトライではあるが、今回の講読では、現象学を実存的考察に展開する可能性とともに、ハイデガー「存在論」が内包する問題点などをよりクリアーにしたい、とそれなりの意気込みで臨んでいる。つもりなのだが、前夜の睡眠不足とイギリス旅行での蓄積疲労がたたり、どうも集中できず。現存在の実存論的分析など、キモと思われる箇所は9月初旬の合宿講座で講読するので、その際に仕切りなおして報告できるようにしたい。それにしても講座後の懇親会の席も含め、全然疲れの色を見せなかった竹田さん。いつもながらその気力の充実ぶりには圧倒されました。


2011年6月29日

怪しく素敵なハイデガー

6月26日、NHK文化センターでハイデガー「存在と時間」の講読講座がはじまる。初回の講座では、師匠であり現象学の提唱者であるフッサールとの対比を通して、(「存在と時間」での)ハイデガー思想の特長と問題点が浮き彫りにされた。

「みずからの(意識)経験を拠り所にしながら、諸対象の意味本質を取り出していく」という現象学の方法が、「存在と時間」での「現存在」(=人間の生の様相の)分析においてはきわめて的確に用いられており、その考察は優れた実存論となっている。人間的な「意味」や「価値」の問題の現象学的考察は、フッサール自身もめざしていたものだが、フッサールが(事物知覚というシンプルな場面に定位して)現象学の着想(の基本)を語ることに多くの労を費やしてしまったのに対して、それを十二分に展開しているところが「存在と時間」の白眉といえる。

だが、フッサールが、「あらかじめのほんとう」を置いてしまうことなく、それぞれが自分にひきつけながら確かめ合える、いわば「誰しもに開かれた確かめの仕組み」として「現象学」を確立し、そのうえで、自然科学的世界のように強固な一致が求められる(求めることに意味がある)対象性や、生の形成過程において「一定の共通性」と同時に、「それぞれの違い」も必然的に生じてしまうような(人格的・精神的世界と名指される)対象性の違いをとらえだしていこうとするのに対して、ハイデガーにはむしろ「存在」(=「あらかじめのほんとう」?)のあらわれを、「現存在」(=人間の生の様相)の洞察を端緒に読み解いていこう……というような問題意識がふつふつと感じられる。そこが、「ハイデッガー、ちょっとどうなんだろう」と思ってしまうところなのだが、本講座では、そうした「功罪」を含めたうえで「存在と時間」を読み込んでいくとのこと。今後の展開が楽しみです。

講座の中では、先の現象学研究会での「イデーンU-2」の講読を踏まえ、フッサール自身も「動機づけ」というキーワードのもと、意味連関のもとに生きる実存の様相への考察を(不十分なものではあるにしろ)企てており、「存在と時間」は(人間存在の洞察という点ではより優れたものになっているが)そこに着想を得たものといってよい……などということにも触れられた。フッサールの読みにくういテキストに長あく付き合っているうちに、(なぜか)フッサール好きになってしまった管理人としては、(なぜか)けっこううれしいものがありました。

50人ほどの参加者の中には、竹田さんの講座初参加の方が多く、また新たな出会いが生まれる機会にもなりそうな講座です。

「つるけん」。それが何かを申しますと……
6月19日は第3回鶴川経済学研究会・略して「鶴研」。朝日カルチャーセンターの精鋭と竹田さんとで経済学を(熱く楽しく)勉強する会なのです。たぶん、名前的には竹田さん最寄り駅の「鶴川」に因んでいる……はずですが、実際は「新百合ヶ丘」をよく会場にしています。でも「百合研」よりは「鶴研」のほうが、響きがよい、と思います。

幹事は、もと科学者で現在は翻訳者、言語学に造詣が深いけど経済学にもとても詳しい、なんでもできちゃうKさん。講師は、現在銀行の一線でご活躍中、哲学講読に関してもいつも圧巻のレジメをまとめてくださる、やはりなんでもできちゃう(テニスまで名人の)Tさん。参加者には、経済の実践の場(企業)で活躍してこられた人も数多おられ、実のある話がきけてとても勉強になります。

この日の課題は、竹田さんおすすめの(『人間の未来』でもちょこと触れている)ハイルブローナー『入門 経済思想史 世俗の思想家たち』。管理人も最初の「経済の革命(市場経済の誕生)」「アダムスミス」のところをレジュメ担当させてもらいました。「個々の利益追求を自然にまかせておけば、最終的にうまく調整が図られる」という見解自体は現実と乖離してしまった部分も多いが、アダムスミスが基本線として、「国家の富」とは究極「一般福祉(の向上)」にあると考えていたこと(つまり経済活動を「一般福祉」の向上という側面から見取っていこうとする視点をもっていたこと)が分かって、とてもおもしろかったです。これって本質的に、竹田さんが経済学を追求しようとする動機と重なっているかも?
「普遍交換」「普遍分業」「普遍消費」による自由主義(資本主義)経済は、持続的に経済を成長させ、財の希少性を解消し、多くの人の生活条件を向上させる契機をもたらしている。だが、現実においては、個人間、国家間の格差などの諸問題も同時に産み落としている。希望ある未来の像を共有できるようにするため、経済に対する「学」を、一般福祉の向上、多くの人がよりよい生のありようを求められる社会の形成に結びつく方向で展開していけないか……、というのがそのモチーフなのでは、と理解しはじめている(全然違っていたらすみません)。

いずれにしても素人なりに、経済学の意味と内実を少しずつ噛み砕いでいく楽しみを味わわせてもらっています。鶴研の先達のみなさま、今後ともよろしくお願いいたします。

竹田さん動いています……
6月3日、NHK文化センターでの東日本大震災復興支援チャリティー講座「価値の転換は可能か〜災後を考える〜」が開かれた。『人間の未来』での考察を踏まえ、資源・エネルギー問題に対する具体的な提案などが展開されている……のだが、こちらに関してはトップページにもご案内したように(講座担当・榎本氏の尽力で)動画が公開されています。公開期間は3ヶ月ほど(9月末まで)だそうなので、ぜひご覧になってくださいね


2011年3月20日(土)

東北関東大震災で、大切な人やものを失われた方たち、困難な状況の中で生活されている方たちに心よりお見舞い申し上げます。
多くの人が信仰の支えをもちえない近代というこの時代、それぞれの生の状況を踏まえたうえで、内実ある可能性の原理を語り合い、考え合い続けていくことが、希望への「信」を形成する、ということを感じています。「哲学」という「言語ゲーム」を、それぞれの実存へと届くように、また現実の中でのより適切な判断へと結びつくように展開し続けていきたい、と思っています。(管理人)

余震の中のヴィトゲンシュタイン
大地震の翌日の3月12日。朝カル「ヴィトゲンシュタイン購読・箱根合宿」を挙行していただいた。

課題図書は後期の代表作である「哲学的探究」。
前期「論考」の、「(あらかじめの)言葉の仕組み」が「(あらかじめの)対象世界」をどう正しく言い当てうるのかという(いわば「実在論的」に「主客一致の問題」の解明を試みような)視点が180度転換され、自分自身が実際に行っている言語行為を(いわば現象学的に還元し、内省しながら)見取っていこう、というモチーフがストレートに伝わってくる。
(相互関係での)文脈や、(発話に至るまでの)脈絡「抜き」にして、「言語表現(≒一般言語表象)だけ」から意味を決することはできない、という基本的な論点にも共感できる。

だが、「言語活動が実際に展開され、ある意味理解が成立している場面(≒言語ゲームの様相)」を、客観的視点から解析することに重きを置こうとするあまりか、この「わたしが思い、考えている」というような「私的言語」について、「それはあり得ない」的論調で否定していることには違和感。(「論考」での自らの独我論が採っていたように)認識装置のような言語システムが先見的に与えられている、という意味での「私的言語」であれば、それはたしかにあり得ないと思う。だが、(自分なりに内省してみると)多くの場合、「『自分にとって』の意味づけ・価値づけのもと、対象をとらえようとする」経験がまずあり、それを言葉にして(自分のうちで)確かめたり、ひとにそれを語って確かめ合ったりしようとするなかで「言語活動」を営んでいるように思う。この『自分にとって』という項を切り捨ててしまうと、言語への考察自体が意味をもたないようにすら感じる。

「探究」の中でも、理解し表現しようとする意志、相手の言葉や振る舞いから意図を読み取ろうとすること抜きに「意味」は成り立たないということも語られてはいる(一般言語表象を介した意味企投、了解企投のもとに言語活動を見取ろうとする基本的な姿勢がうかがえる)。そうでありながら、「主観の中にすべての根拠を求めてしまうこと」と「主観に定位して考えようとすること」が、えり分けられないまま否定されてしまっている印象を受けた。

とはいうものの今回の購読を通して、「探究」が優れて実存論的言語観に立つものであることを、よくよく実感できたように思う。日ごろ「ヴィトゲンシュタイン慣れ」していない者にとって、「探究」の語り口は、意を汲み取るのがそれはもう困難なしろものでしたが。

講座中に幾度か緊急地震速報が携帯から鳴り響き、余震が何度も続く状況ではあったが、語り合える仲間と過ごせることの僥倖を味あわせていただいた。被災され出席できなかった方には心からお見舞いを申し上げたい。
落ち着かない状況の中で綿密に準備して、「探究」の明快な「見取り図」を示してくれた竹田さん・西さん。
判断が難しい状況の中、責任をもって開催に踏み切っていただいた朝カルの石井課長。
どうもありがとうございました。


2011年 1月29日(日)

新百合ヶ丘で「言語的思考」
1月9日、竹田さんの朝カルやNHK講座などの常連メンバーが主体のサークル、「ワッチラス」の勉強会に参加させていただく。朝カルでのヴィトゲンシュタイン講座が導火線となり、昨秋から数回に渡りソシュールやチョムスキーなど言語論のビッグネームを読破してきた、という。そのシリーズの締めくくりとして、この日は竹田さんの『言語的思考へ』を取り上げられたそうである。竹田さん自身も参加。
思えばこの日の会場・小田急線新百合ヶ丘界隈が、駅構内に「箱根そば」すらなかった二十数年前、はじめてソシュールの言語論を(丸山圭三郎さんの本を通して)知ったように記憶している。「『言語」という認識の網の目を抜きにして人はものごとをとらえることはできない」という視点をそこから主に受け取り(「唯言論」?)、「それは確かにいえているな……」と考え込まされた。ただ、その後、「言語が思考そのものを可能にしている」「だからこそ、考えている(表現や理解を為そうとする)人間(主体)の側ではなく、『言語』のみが有効な考察の対象たりうるものだ」というような論に触れると、それはそれで実存的な感覚から乖離しているように思えてならなかった。そのモヤモヤがしばらく続いた後、この『言語的思考へ』を通して(2001年の刊行だからほぼ10年前)、言語(活動)は(共有化されており、体系的かつ構造的に記述しあっていくことも可能な)「一般言語(表象)」を介して、(それぞれの、その場での)「意」をたずねあい、より手ごたえのある表現や理解への「確信」を得ようとする「信憑構図」のもと展開される(「意味企投(表現)」「了解企投(理解)」を繰り広げる場としてあるものだ)……という考えに触れ(全然間違っていたらすみません)、自分としての思考の足場ができたような深い感動を(通勤途中の車内・井の頭線渋谷駅付近で)覚えたことを鮮明に記憶している。
「ワッチラス」の、敬愛する人生の諸先輩方の精緻なレジメ報告を通して、「あのときの感触」をまた味わうことができ、たいへん幸せな時間を持てました。会長のIさんはじめワッチラスのみなさん、今年もよろしくお願いいたします。
その後の懇親会(新年会)には、最寄の鶴川の、和光大学市民講座で講師を務める石川テルキチさんも合流。ワッチラスのメンバーにはこの講座の受講生も多く、若先生の登場に新年会はそれはもう盛り上がったのでした。二次会(カラオケ)では率先して幹事を務めてくれたテルキチ先生に感謝です。

独研で「イデーン」
1月13日は今年初めてのドイツ語研。独研では昨年末よりフッサール「イデーン」に取り組んでいる。この日の購読箇所は第1編2章31節。自然的定立(一般定立)の「遮断」「括弧入れ」について論じようとする箇所である。 デカルトの、あらゆる存在を疑ってみたうえで「これだけは疑いようのない」という確たる基点を得ようとする方法的懐疑に対し、フッサールは自らの方法をこんな言い方で説明している。……ものごとを確かにとらえていながら、同時にそれを「(実は)ない(のでは)」というように「懐疑」することはできない。そのような(ありありととらえている)対象を「懐疑」するとき、それは、(あえて「ない」ものと見なそうというわけではなく)「確かにとらえている」という事態を「括弧」入れして(「そうとらえている思考のありかた」を反省的にとらえかえせるように)「停止」(遮断)することを意味する……。「現象学」の発想の基本が分かっていれば、これが「確信成立の条件を問い直す」ための、「視線変更」のことを言おうとしているということがよく分かる。でも、同時に、それはもう相当に「分かりにくい」言い方になっているということも、非常によく分かる。……そんなことを少しずつ味わい?確かめつつ、読み進める購読がとても面白いです。
購読のあと、講談社担当編集Yさんたちを交えた『完全解読シリーズ』の打ち上げに、独研メンバーの一人としてご相伴させてもらう。自分なんぞ、ただ楽しく勉強させてもらっているだけ、という感じなので申し訳ないのだが……とてもありがたい。おなじみの中華料理屋「ゆうゆう」さんで、名物の「薬膳なべ」を久しぶりにいただく。特に寒い冬には、このなべは最高のごちそう。前にも書いたけど、竹田さんの「完全解読」のエネルギー源になっているんじゃないか、と思います。オーナーのがえいさん、今後とも「完全解読」にお力添えくださいね。 

横浜で「ケアの現象学」
1月29日、西研さんと山竹伸二さんの、横浜朝カルでの講座「ケアの現象学」が開かれた。
……日本社会における都市型生活の急速な浸透は、個々人に自由に生きられる可能性を広げるのと同時に、寄る辺ない孤独に晒される不安ももたらすようになった。従来、大家族や地域共同体のなかで行われていた「助け合い」支え合い」を、「市民社会」が担っていくプランを考察することが求められている。また、医療、看護、介護、教育など、人々が(市民社会の中で再び・あるいは今後)よく生きていけるように支援する仕事の現場では、よりよい方法を共有化するための原理的な思考が希求されている。……こうした今日的課題に対し、哲学的思考、現象学を駆使してのぞんでいこうとする、とても刺激的な講座です。

この日の講座では、「看護と現象学」の話題が特に興味深いものだった。看護の世界では「現象学」が注目を集めている。だが、多くの場合、後ろ盾になっているのはハイデガー実存論。相手(患者)の生きている世界(実存)を深く理解するためには有効だが、ときに実存=主観世界(それぞれが生きている場所)を重視するあまり、客観世界=自然科学的方法論など?を軽視する傾向もあるという。現象学の提唱者であるフッサールのほうは、(「実存」「他者」への感度を欠いた)「真理主義」「独我論」として批判的にみなされていることが多いそうである。「それぞれの経験(内在)を足場にしながら、(対象性に応じた)共有可能な本質を確かめ合う」という、その要諦=現象学のエッセンスはなかなか理解されていない様子。
だが、看護に携わる多くの方が拠り所にしているベナー(という看護学者)の場合、看護師のさまざま経験(実践)から、「よい看護の本質」を取り出そうとする視点に優れているそうである。こうした看護の世界に、今後現象学の方法が深く理解され、共有化されていくことはきっと大きな意義をもつに違いない、と思う。

講座では、「病の本質」をテーマに、本質観取のワークショップも行われた。「本質観取を実践するのははじめて」という方がほとんどだったが、多くの方がその手ごたえ、面白さを実感した様子。看護、介護、教育などの現場で働く方も数多く参加しており、今後講師二人を軸にしながら、それぞれの経験にたずねあい「ケアの本質」を考え合っていく、内容の深い講座に展開していきそう。とても楽しみです。

今のところ、半年に一度のペースで行うプランだそうだが、講座に参加した竹田さんから、(これだけ充実した内容なのだから)もう少し頻繁にやってほしいな、とリクエストが。竹田さんに賛成。西さん山竹さん、ぜひよろしくお願いします。