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2010年 9月12日(日)
意外とおおらかなカント?
着々と進行中の哲学完全解読プロジェクト。カント『実践理性批判』がほどなくそのラインアップに加わる予定である。
で、9月9日のドイツ語研では、その原典購読。久しぶりに西研さんも参加。西さんはドイツ語文法にも精緻な知識をもつのだが、カントの実理のドイツ語、けっこう適当? 「格」の照応などがどう考えてもつじつまが合わない? 間違っている? ところがぽろぽろ出てくる。「これ、すっきりとは落ちてこないね」というのが、西さんのコメント。謹厳なイメージのあるカントだけど、実は意外と大様な人だったりして。それを考えると結構親しみがわいてくる感じが……全然しませんでした。
それでも集中した2時間の読解で、内容そのものは結構クリアーにみえてきた感じ。
かくして「完全解読」への最終的な確信を得るための、竹田さんの(恒例の)原典チェックが、すすんでいます。

フッサール、なぜ順番にこだわる
9月6日は久しぶりの現象学研究会。課題はフッサール・イデーンU‐1、第一編「物理的自然の構成」の最終章「感性的な身体との関係における感覚的事物」と、第二編「有心的自然の研究序論」の「序論」と、第一章の「純粋自我」。
諸々の対象(性)の構成を現象学的にとらえ直していく、というのが趣旨なのだが、「事物」「身体」「心」という順番での論の展開が、あたかも構成の客観的秩序が事実としてそういう基づけ関係になっている、と言っているような印象を与える。竹田さんも、イデーンTで、あれだけ「事物知覚」(という最もシンプルな場面)を通して現象学の発想、本質観取の方法をおさえてきたのだから、ここでは「身体」「心」をストレートに本質観取したほうがいい、という意見。

それでも、「純粋自我」のところは、それが決して世界を構成する始原というような神秘的なものではなく、「自分自身のありかたを、自分という(動機のつながりをもった)場所でとらえ直している」という、人間がふつうにもっている心のありようを概念化したものであることが明快に語られている。フッサール、やっぱり現象学の人だよね、と安心して読ませていただきました。

今回の現研、「イデーン」だけではなく、神山睦美さんが「完全解読 『カント純粋理性批判』」のレジュメを用意してくださる。
「究極の真理を解明する」という伝統的な「形而上学」にピリオドを打ち、哲学の思考がほんとうに意味をもつ対象を明らかにした……という「純理」の本質的価値とらえ出したこの一冊、神山さんは単なる解説本ではない価値をもつものと評価。精緻な解読であるだけに、読み応えも相当なものだが、「思想的な核心」をとらえたうえでの『完全解読』、哲学を読む行為そのもののの本質的ありようを提起している……という気はたしかにします。

哲学者たちの本質観取
8月28日、29日はNHK文化センターの初合宿講座。こちらも課題はフッサール、イデーンT‐1、第二編「現象学的基礎考察」の購読。ものごとの確かめの(広く共有可能な)仕組みをそれぞれの意識体験、意識経験をよりどころにとらえ出していく……という現象学の基本的発想を抑えていく。フッサールの記述を理解するためには、自分自身が意識体験に立ち返り(例えばこの購読箇所であれば、自分がふだんしている事物知覚のありようを振り返り)確かめていくことが大事……というフッサール読みの「キモ」となる方法をあらためて確認させていただく。

一定共通する「身体」をベースとした「事物知覚」の場合、そう他者との間に齟齬を来たすわけではない(そうゆう意味では「現象学の基礎を確認しあう」ためには、たしかに適切な事例だけど)。現象学の方法は、むしろそれぞれが生きてきた場所の違いにより、必然的に相違も生じうる「価値」の問題に展開できてこそ意味をもつ。現象学は理解することに意義があるのではなく、それぞれの現実生活に活用できてこそ意義をもつものだ……ということも再認識する。

今回の合宿で特に面白かったのは、「本質観取」の「体験授業」。すぐれた哲学にはすぐれた本質観取がある(それぞれの内在によりそった、徹底した本質洞察がある?)というのが竹田さんの持論。そこで、@「恋愛」「実存」「身体」「心」「自由」をテーマに、受講生が分担して「本質観取」を行い、その人の「本質観取」に、自分もピンとくるものがあるか考える。A「恋愛」=プラトン、「実存」=ハイデッガー、「身体」=メルロポンティ、「心」=フロイト、「自由」=ヘーゲル、といったように、それぞれの思想の核となる本質観取を竹田さんが整理し、やはり自分にとってピンとくるものがあるか確かめてみる……という作業を行った。

受講生どうしの本質観取は、それぞれの「共通性」や「違い」、たしかに気づかなかったけれどそれはいえるな、ということだとか、場合によってはそれもありえそうだな、ということがよく分かる……とても面白い言語ゲームとなった。また、(自分的には)各哲学者の本質観取に対して、「なるほど」そうだし、「普遍的」ともいえるんじゃないかな、という感じがもてた。
本質観取≒哲学的思考に大切なのは、それぞれの「内在」に定位した洞察が起点になり、「納得」できる「検証」の場が展開できること……そんなことを実感しあえる機会になったと思う。

ちなみに「事物」→「フッサール」もプランにあったけれども、それはさすがに講座でやりつくしたことなので、(素で本質観取するとけっこう味気ない感じもするし?)「想起」にお題を変更してくれた竹田さんでした。

充実した二日間の講義。諸々の配慮をいただいた担当の榎本さん、どうもありがとうございました。


2010年 8月5日(木)
「論考」にもの申したし……

7月31日から8月1日にかけ、朝カル夏合宿が行われた。課題はヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」。

論理空間の中にある(「真」「偽」を明確に判定できる)諸事実のみが、この「私」(人間)にとって(確たる思考対象となりうる)世界である。価値や倫理などの問題は、その外部にあり、「私」が語ることのできる対象ではない。また、論理的思考はすでに(アプリオリに)与えられてしまっているもので、「私」はただそれを展開していくことができるだけ、そのありようをとらえかすことは不可能だ。……ということが書かれている本だと思うが(まったく違っていたらごめんなさい)……リリカルな表現を散りばめつつ数式のオンパレードが続く、という感じで、数学がだめ、詩的センスもなし、という個人的な資質のため思考可能な対象世界が(語りうる世界が)ごく狭い管理人にとっては、読むのに大変つらい本です。これまで、斜めに読み飛ばして通り過ぎてきました。

今回の講座は、竹田さん・西さんの完全解読レジュメ、他の受講生の方たちの的確なレポートに支えられ、理解を深めるためには絶好の機会だった。いや絶好の機会だったことには間違いないのだが、どちらかというと、(「論考」での)ヴィトゲンシュタインの「独我論」と、現象学の発想の根本的な違いを考えさせられる機会になりました。

「このわたしにとっての世界」を思考の足場にすえる、ということでは、両者は一見似ているように感じられる。
だが、現象学の場合、このわたし自身が、どれほどある対象、あるものごとの意味や価値を自明なものととらえていようと、「それはあくまでこのわたしにとっての『確信』である」という視点に立ち、その確信が成立している条件をとらえなおしていく視座を確保することによって成り立つ。それは、(それぞれの「わたし」がそれぞれの「生」を展開する「自由」によって立つ、近代社会が必定産み落とす信念対立、価値対立の場面において)共有可能な価値や意味を、他者との関係のなかで(それが具体的に必要とされる局面に即して)構築するための思考方法といえる。
それに対して、ヴィトゲンシュタイン的独我論は、(自分の思い通りにならない、他者とともに生きる現実という項を一切遮断して)ピュアな事実(実在)に立ち会える、ピュアな場所として主観が立てられてしまっているように感じられる。

また、ヴィトゲンシュタインの、「そこにおいて思考の真理が展開されるが、それ自身は人間の思考を超越している」という「論理」に対する考え方にも、まるで共鳴できない。論理的・概念的思考にしても、その成立の背景には、生活世界における具体的な要請があるはずだし、むしろそう考えることで、それらの意義や価値を開かれた形で共有化できる道が拓かれていくのではないか……と思えてしまう。

そもそも、『「真」「偽」の範疇で確かに語れることは(こうして論証したように)限られたものだ。語りえぬことには沈黙しなければならない」という『論考』のスタンスそのものが承服しがたい。人が何かを語ろうとするのは、(そもそも「真」「偽」の範疇に収斂しない・他者と生きる現実世界の中で)、何かしらのコミュニケーションギャップを架橋していく必要に駆られてのことではないか。

講座の最後に、温厚な西さんが珍しく少し強めの語気で、「ともに考え合う」ための足場を一切なくしてしまう「論考」の思想的立脚点を、「これではまるでだめだ」と、きっぱりと否定した。たしかに「哲学的思考」の本質にかかわること。うやむやにはできないと思う。

朝カル・ヴィトゲンシュタイン講座、後期からは「哲学的探究」の購読に取り組む。後期ヴィトゲンシュタインに「哲学的思考」の展開があるのか。確かめてみたいと思います。

講師、ほっとひと息
傍目からすると、「筋道だった思考力の鉄人」に見える竹田さんだが、実は(主観的には)数学はあまり得意ではないそうだ。それでも講師としての責任を果たすため、この間、西さんとヴィトゲンシュタイン研究会を立ち上げ、数学・論理学的な部分も含め「論考・完全解読」に努めてきた(論理的思考が機能的に弱い管理人は同席しているだけで泡を吹いて失神しそうなほど執拗な、いや綿密な解読作業の場でした)。講座終了後の帰り道、雲ひとつない真夏の青空に向かって、「ああ……これで論考から解放される……」と、晴れやかに伸びをしていた竹田さん。「探究」は純粋に楽しんで取り組めるテクストだということ。後期から、ますます刺激的な講座が展開していきそうです。


2010 5月23日(日)
本気のフッサールと出会えるのかも……
5月22日は現象学研究会。課題図書はフッサール「イデーンU−1」
主に事物知覚の場面から現象学の基本的な発想を解き明かしてきたイデーンTに対して、「構成についての現象学的諸研究」と題されたこのイデーンUでは、心や身体へと考察の舞台が展開されていく(ちなみに「構成」というタームについては、「確信形成のありよう」と理解すると分かりやすい、と竹田さんからのアドバイスあり)。この日の購読箇所は、第一篇「物理的自然の構成」。まず出発点として、(価値的な側面を抜きにして)自然科学的(物理学的)対象世界(としての実在物)を構成する意識の様相の記述からはじめよう、という感じで、やっぱり「事物知覚」なんですよね。執拗に周到な人だ。感想として、ここのところ、ごく一般的な(普遍的な)意識体験に還元して本質観取しようとしているのか、自然科学一般におけるものの見方を記述しているのか、ちょっと区別がつかなうような印象を受ける(もちろん前者なんだろうけど)、という意見が出された。確かに。自然科学的な対象性というのは、そもそも利用可能性(あるいは対処可能性?)という動機との連関のもとで構成されてきている、というように思うし、そうした動機(=欲望)の側にたっての了解もこみにしないと、なんかすっきり落ちてこない気がしてしまう。
 それはさておき、次回購読箇所は「有心的自然の構成」。価値の問題や意味の問題に対して本気に臨むフッサールの姿に出会えるのかもしれない、と思うと楽しみ(で、ついレジュメ担当を受けてしまった)。きちんと読み込んで報告できるようにしたいです。

ウィトゲンシュタインにも本気です……
  5月に開講された朝カル新宿の「ウィトゲンシュタイン」講座。なんと100人近くの(ひょっとして越えている?)受講者が参加している。これは朝カル竹田・西講座史上最多だと思う。この人気は、ウィトゲンシュタインのせいなのだろうか。それとも、「完全解読シリーズ」込みで、もうブレーク寸前なのだろうか。前者だとしたら、なんでウィトゲンシュタイン、そんなに人気があるのだろう(個人的には読むのに相当つらいテクストだけど)。後者だとしたら、……めでたいことです。
 それはそれとして、22日現研帰り道の小田急線。管理人は打ち上げの食事会でおいしくいただいた紹興酒のおかげで、ほとんど眠ってましたが、隣の竹田さんは「論理哲学論考」(ちなみにウィトゲンシュタインの本です。)寸暇を惜しんで、ライン引きながら読み込んでました。なにごとにも本気な竹田さんです。

2010年 3月21日(日)
「世界初のこころみ」です
3月10日、「完全解読 カント『純粋理性批判』」が刊行された。
「世界初のこころみ 
超難解哲学を原典に忠実に、かつ平易に解読」というのが帯に付された言葉である。(なかなかすごいフレーズだけど、編集担当の山崎さんが考えたんだろうか?)
この「完全解読」シリーズ、原著の一語・一文に寄り添って筆者の「意」を汲みあげ、なるべく平易な言語表現でそれを再構成する、という作業のもとに成り立っている。それを考えてみると、たしかに他に例をみないような「読み」(と「表現」)の作業だということに間違いはない、と思います。

「純粋理性批判」のポイントは、(ものごとの究極原因がある/ないという証明が、論理のうえではともに成立してしまうという)アンチノミーの議論によって、(究極の真理を解明するという)伝統的な「形而上学」にピリオドを打ち、そうした「問い」と(二様に分かれてしまうような)「(世界)説明」事体が、(その)人間自身の「世界へのかかわりかた」と不即不離なものであることをとらえだし、それをふまえたうえで、(人間にとって、みんなで)とことん考えることができる問題、それだけの意味のある対象はなんなのかということをはっきりさせたことにある。「完全解読」を通してそのエッセンスを広く共有していくことが、哲学を未来への可能性を考えあうための思考技術として再生するためには欠かせない……という思いが、たぶん竹田さんをこの労作に向かわせたのだと思う。ちがってたらごめんなさいね。いずれにしても、10余年の研鑽の成果がこうして形になったことを記して、「純粋理性批判」もう一度読み返してみようかなと思います。(この本があると、まちがいなくそれがラクになる。)



ヘーゲル国家論に、リンゴの出番なし
上の写真は、朝日カルチャー合宿で、発売まじかの「完全解読 純粋理性批判」を手にする竹田さん(右)です。(左は西研さん)

というわけで、3月6日7日は恒例の朝カル・箱根合宿。雨模様で霧も深く(快晴なら富士山がきれいにみえるのに)景色すら何も見えず、こもって勉学に励むにはもってこいの天候でした。
課題はヘーゲル法哲学の「国家」。直前の「市民社会」までは、近代社会への原理的な考察が展開されているのに対して、「ここはちょっと……」という感じ。国家はひとつの有機体のようなもので、それを統合する頭のような存在が君主だ、というイメージ。もちろん、「一人ひとりが自分の可能性を展開して生きられる」ことへの(ヘーゲルらしい)目配りはあるものの、「一人ひとり」はあくまでも全体がよりよく機能するためのパーツ、というのが基本的な構え方になっている。
その点、「一人ひとり」の判断と納得にもとづく「一般意志」を、法や統治権力を正当化する唯一のよりどころとしたルソーのほうが、近代国家への考察においてはより本質的かも……という話になった。
ちなみに、「(共通了解の道筋をひらくため)客観的対象を前提にせず、(一人ひとりの)意識のうちでその「確信成立の様相」をとらえかえしていく」という現象学→近代主観哲学の発想を説明する必須アイテム、「現象学リンゴ」(写真卓上にあるやつです)、そんな国家論が話題の主だったせいか、今回は登板機会がありませんでした。

完全解読のスタミナ源
3月19日は、久しぶりのドイツ語研。フッサール「現象学の理念」の続きに取り組む。自分の文法的知識が甘いためか、講義調で文章としては推敲されていないためか、そもそもフッサールの言葉遣いがヘンなせいなのか、理由はさておきどうみても破格としか思えない表現から意を汲み上げていく作業にも、回を重ねるごとに慣れてきた(自虐的に楽しめるようになってきた)ように思える。
で、研究会が終わった後の毎回の楽しみがこれ。



近くにある中華料理屋「ゆうゆう」さんの「薬膳なべ」です。
漢方薬のような香辛料が何種類も入った塩味スープ(左)とピリカラスープ(右)で、たくさんの野菜とラム肉をいただく。
ビールや紹興酒との相性も抜群で、疲弊した脳を震撼させるおいしさです。
オーナーの「がえい」さんの温かい人柄も加え、竹田さんの「完全解読」を支える栄養源になっているように思います。
19日は、独研メンバーWさんの誕生(前)日ということで、それを知った竹田さんが機転を利かせてデコレーションケーキを調達してくれる。
スパイシーな鍋のあとのケーキが、たいへんにおいしゅうございました……

2010年 1月24日(日)
次はNHKホール?
1月16日(土)は、NHK文化センター町田教室、フッサール「現象学の理念」購読講座の最終回。4時間の長丁場にわたり残りの箇所全てを読みきった。最終回から初参加した受講者の方もおり、教室は超満室。しかも、講義開始10分前には多くの席が埋められ、黙々と予習をしている姿が。その熱意、さすが「メッカ」ならではだと思います。

「現象学の理念」。難渋な言葉を解きほぐしていくと、だれもが、それぞれの場所から、ものごとの意味や価値を深く納得できるようにとらえ直していける思考方法を打ち出そうとするモチーフがうかびあがってくる、ように思う。だが、全体の「見取り図」がつかめるようになって、はじめて細部のニュアンスが分かってくる、というような代物。ミスリーディングな言葉の障壁も多く、いきなり挑戦すると「入れない」まま出てきてしまうか、迷路に入り込んで「なにがなんだか分からない」状態になってしまうような本だと(自分自身の体験を振り返ってみても)思います。それを考えると、今回の講座での詳細なテクスト購読は、「フッサールの言葉」を通して現象学の基本的な発想をつかまえるためのよい機会になったのではないか、と感じる。

NHK文化センターのフッサール講座は今後も継続。竹田さんによると、次回はフッサールの主著、「イデーン」を視野に入れているとのこと。フッサールと付き合い始めて苦節10余年、ようやく「フッサールの言葉」を通して「フッサールの意図」が少々見えてくるようになった気がしなくもない管理人としても、今後の展開が楽しみです。

次回の講座、もっと人数が増えるようなら、いっそNHKホールで?……などといいつつも、清濁併せ呑む文化都市?「町田」に、「考え合い、語り合うことの喜び」をさらに広めていこうとする講座企画担当者・榎本さんでした。

変なところが似ているのかも
「現象学の理念」は「完全解読本」の刊行も計画されている。「メッカ」まで足を運べない人、フッサールに10余年も付き合いきれない人も、世の中にはいる(というかほとんど)でしょうし、意義深い本になること、間違いない。(ちなみに、「完全解読 カント純粋理性批判」のほうは、近々脱稿だそうですよ。書店に並ぶ日も近い?)
……というわけで、今年から、「ドイツ語研」でも「現象学の理念」の原典購読に励んでいる。ドイツ語で読んでみると、同じようなことをちょこっとずつ角度を変えての説明が、それはもう執拗なほど細かく。それが、趣旨としては明瞭なはずのことを逆に曇らせてしまうこともしばしば。ということを尚更に実感。(竹田さんに言わせると、「イデーンの1−U」になると、さらにヤバイそうです)。フッサールが好きだったはずのI氏からして、「ちょっと病気なのかも」とこぼすほど。でも、わたし的には、遅々と読み進める中で分かってくることもけっこうあるし、「これでは十分伝わらないかも」という不安から、つい言葉を重ね、なおさらどつぼにはまってしまうような不器用さにも、少々共感してしまったりする。要するに、変なところが似ているのかもしれない。(その点、竹田さんは、「そこは抜き」で、グレードアップして生まれ変わっている気がする。いいな。)

ドイツ語研では、「平明なテクストを文法を抑えながら読んで、読解力を高めていく練習をしよう」という竹田さんからの提案で、吉本ばなな「キッチン」ドイツ語訳を並行して読んでいる。思い切り口語調で破格な原文(日本語)が、けっこう整ったドイツ語に訳されているところが妙に面白い。そんなこんなで、硬軟あわせて楽しめるドイツ語研なのでした……。 /管理人