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 (2007年)

2007年12月29日(土)

「完全解読」いよいよデビュー
12月10日、『完全解読 ヘーゲル精神現象学』がいよいよ刊行! 当日諸々の書店で平積みにされているのを確認して、おもわずうれしくなる。 さすが講談社メチエシリーズですね。
12日には、朝カル新宿で、この本に関連した西研さんとの講座「ヘーゲル『精神現象学』と近代の可能性」が開かれた。参加者は80名ほど? 大教室がほぼ満員でたいへんな盛況でした。
竹田さんと西さんとの出会いは、故・小阪修平さん主催で西さんもメンバーだったヘーゲル講読勉強会に、竹田さんがお呼ばれしたことがきっかけだという。それを考えると、この新作、二人の長年の共同作業の集大成といえそうです。講座では、そうした二人のなれそめの話にはじまり、精神現象学を読み味わうためのポイントを示していただいた。

『完全解読』は、ヘーゲル独特の論理のうねりも含めて『精神現象学』を「再現」したものなので、決して平易にスラスラ読み進められるものではない。(竹田さんも「『通勤電車でも読める』というキャッチフレーズはちょっと言い過ぎだったかも」と言ってます。いや、ラッシュアワーを外せば十分読めますよ>竹田さん)
しかし。「本格的な哲学書ははじめて」という人でも、(要所要所に付された丁寧な解説の力も借りつつ)根気よく言葉をたどり、自分自身の生活経験に照らし合わせてその意味を咀嚼していけば、必ず理解できるようにすべてのことが吟味されて翻訳されている。ヘーゲルという思想家の息吹のようなものも含めて伝わってくる。ちょっといままでにないタイプの本だなあと思う。
ちなみに、西研さんのHPでも、このHP同様『完全解読』の(ご担当箇所の)未定稿と「あとがき」を公開しています。「あとがき」は、バタイユ、ヘーゲルというまるでタイプの異なる思想家に共通した「本質」を見いだそうとする、一つの「作品」のようになっています。ぜひ読んでみてくださいね。(というか、『完全解読』ぜひご購読ください。)

現象学研究会ではレヴィ=ストロース
12月8日は現象学研究会。課題図書はレヴィ=ストロース『野生の思考』である。講読会の後には、先に報告した「共著」の原稿検討会も行ったので、かなりタイトなスケジュールとなり、わたし頭の回線がショート! 来年1月の研究会でも『野生の思考』の購読は継続することになったので、内容のご報告はその際にまとめてさせていただこうかと思う。(スミマセン>現研のみなさん。)
原稿検討会のほうは、今回はそれぞれ担当箇所の第2稿を持ち寄った。「だいたいこんなところかな」と主観的には思っていても、「言われてみたら、なるほどその通り」という指摘が出てくる出てくる……。共同作業の面白さってこういうところにあるんだな、と思う。それぞれの個性を重視しながら、全体の内容と書きぶりを丹念にチェックする竹田さんのお仕事はたいへん……だとは思うのだが、とても楽しそうにやっておられるところがなおさら凄い。できるだけよい内容に仕上げて応えたいな、と思います。担当編集者のSさんも、毎回長時間の立会い、ご苦労様です。


2007年11月25日(日)

平成のルター
トップページですでに表紙のご案内をしている『完全解読 ヘーゲル精神現象学』。発売(12月10日)間近です。とはいうものの、脱稿したのはようやく先週半ばだそうです。最後の仕上げにそれだけ「念」を入れられたのだと思う。

(このサイトで一部公開している未改定稿からもそのことが伝わると思うが、)『精神現象学』の難渋な言葉の垣根を取り払ってみると、自分という場所からとことん考え詰められた哲学だということがよく見えてくる。また、人との関係にぐじゅぐじゅ悩んだり、挫折からなんとか自分を立て直そうとしたりという、多く人たちがふだん生きている場面に寄り添って考え抜かれてきたことが伝わる。そうしたヘーゲル哲学の核心に、だれもがアクセスできるようにしてくれる一冊になるはずである。

この仕事、それまで一部の聖職者のみに解釈が可能だった「聖書」を、ラテン語からドイツ語へと翻訳することで多くの人にアクセス可能なものとした、かのマルティン・ルターの偉業になぞらえてしまおうかと思う。(なぞらえられて迷惑だったら許してください>竹田さん、西さん)

「完全解読」のプランは、今後、フッサール、カント、ハイデッガーなどの主要テキストを視野に納めているそうだ。「哲学」はなにがなんだかさっぱりなんだけど、(より開かれた言葉で表現された)小説やエッセーなどの読書体験を自分を見つめるきっかけにしている、という読者にとって、この(『精神現象学』を端緒とする)「完全解読」のプランが進んでいけば、「哲学」が読書の魅力ある選択肢の一つになっていくように思う。これからの展開が楽しみです。


現象学研究会、再び動き出した……
先回の報告で触れた、竹田さん&現象学研のメンバーで取り組む新しい著作の企画が始動した。哲学史上のビックネームを哲学の素養がなくても楽しく読めるように解説し、かつ自分自身の生活に生かしていくヒントも加えてみよう、というのがおおよそのコンセプトである。
11月23日、第一回目の編集会議が行われた。それぞれ担当箇所の原案(第一稿)を持ち寄り、読み合い批評し合うなかで、全体の書きぶりや基本的な方向性の確認をした。「限られた文字数でできるだけ平易に」「しかも面白く」というハードルは、いざ取り組んでみるとめちゃくちゃ高い。それぞれの哲学の核心にあるものをつかんでおくことが前提となるし、かつ表現にも工夫が求められる。(内容自体はよいとしても)哲学をまったく読んだことのない人でも興味をもてる書きぶりになっているか、という観点から、お互いに厳しく意見を出し合った。

竹田さんは、ご多忙な中、一つ一つの原稿を詳細に読み込み、文章の構成や表現の詳細に至るまで的確なアドバイスをくださった。仕事に対する真摯な姿勢にはいつも頭が下がる。

みんなでよい本をつくりたいなー、と思います。


還元ケーキ
10月30日。「社会人英語ゼミ」のメンバーなどで、竹田さんの60回目の誕生日のお祝いをした。
贈り物の主役は、英語ゼミメンバーのIさんが特注してくださった「還暦」ならぬ「還元ケーキ」。



あまりに見事なできばえにご本人も思わず携帯カメラに手が……。



見た目のインパクトだけでなく、食べてみてもとってもおいしいケーキでした。(リンゴは入っていなかったけど。)

「完全解読プロジェクト」やライフワークである「欲望論」の完成など、これからますます忙しそうになりそうな竹田さん。
でも、たまにはゆっくりお休みもとって、ずっと元気でいてくださいね。

                        
 /管理人  


2007年10月28日(日)


現象学研究会、ふたたび動きす……
10月6日、約2ヶ月半ぶりの「現象学研究会」が開かれた。課題図書はハイデガー後期思想から『ニーチェの言葉「神は死せり」』と『世界像の時代』の2編。後期思想については「何がなんだかわからない」という印象があり、敬遠していたのだが(食わずぎらいですね。)『存在と時間』を繰り返し読むうちに「ハイデガーターム」に慣れてきたせいか、けっこう読めてしまった。でも、思想的にはやはりちょっと問題ありだなあ、という感じがぬぐえない。それでも読ませてしまう表現力はすごいものだな、とは思いましたけど(なんかすごく偉そうですが)。現研のホームページで簡単な報告をしていますので、よろしければのぞいてみてください。

竹田さんと現象学研究会のメンバーで新しい著書を、という企画が動き始めている。実現すれば『はじめての哲学史』以来10余年ぶりのこととなる。『はじめての……』は、いまでは哲学入門の一つのスタンダードとなり着実に版を重ねている。現象学研究会は、専門の研究者だけでなく、いろいろな場所に実生活の拠点をおく人が集うということもあって、「哲学の意義を開かれた言葉で語り合う」ということにおいてはそうとう徹底した場になっていると思う。『はじめての……』の場合、分かりやすくかつ本質的な言葉が、多くの人たちにだんだんと届いていったのではないか。新著が実現し、その後の現研での成果が、さまざまな人たちの生きる場面に少しでも役に立つようであればいいなと思います。企画が具体化してきたら、また報告しますね。

ヘーゲル完全解読、12月10日にデビューします。
竹田さん、西さんが長年取り組んできたヘーゲル『完全解読 精神現象学』(講談社メチエ)が12月10日、いよいよ発売になる。最後の総仕上げにおふたりとも集中して取り組まれている。哲学に興味のある人ならば、電車のなかでスラスラ読める、というのがコンセプトだそうだ。思えば『精神現象学』、それでも電車の中で読んでしまっていましたね。レジュメ報告などを担当した暁には。それはもう、眼と精神と腕の筋肉にこたえるものだった。寿命も縮まったのではないかとすら思えます。それでもサラリーマンにとっては行き帰りの通勤が、貴重な読書時間なんですよね。ショートカットでヘーゲル思想の本質に入っていくことができれば、それはもうありがたいことではないでしょうか。あともう少し。期待してまちましょう。なお、この著書に関連する竹田さんと西さんの対談講座が12月12日、新宿朝カルで開かれます。こちらのほうもお楽しみに

メルロ・ポンティにも向き合ってみましょう。
10月20日、新宿朝カルでの西さんとのジョイント講座、「現象学枢要テキストを読む」後期が開講した。今回のお題はメルロ・ポンティである。初回の講義は、まずポンティに入る前に、フッサール、ハイデガーそれぞれの思想の要点、現象学理解の現状を整理していただいた。(これがとても面白かったです。)
メルロ・ポンティについては、竹田さん西さんから見て、現在これが適切だと思える入門書がほとんどないそうだ。自分自身も、なんとなくポンティは読んではいるものの、芯がつかめているとはとても言えない。今回の購読をその機会にできればと思っている。新宿の朝カルのレベルはほんとうに高く、講師お二人のお話はもちろん、毎回のレジュメ発表にも学ばせていただくことが多い。次回以降が楽しみです。

自分が自分でなくなることって、こわいかも……

10月26日このHPでもご案内をしていた大阪経済法科大学「市民アカデミア」の講座「老いを哲学する」が開かれた。講座の内容は以前NHK文化センターで開かれた「死と向き合う」をベースにしたものだ。(よろしければ「4月15日」の日記をご覧ください)。でも今回はさらに、「『死への恐怖』は『よく生きられていないという不安』ともつながっているのではないか」、という(非常に考えさせられる)仮説を打ち出された。(たしかに、充実してものごとに向き合っている際には、死の不安ということが念頭からなくなっていますね。)
講座の最後に受講生の方が感想として述べられた、「自分の場合死がおそろしいという実感はないのだが、それまで得意だったことがしだいにできなくなったり、妙に依怙地になって人格が失われてしまったりするような、『自分が自分でなくなってしまう』老いへの恐怖がある」という言葉が心に残った。たしかにそれは……こわいことかもしれない。でも、幸いなことに、「よい」年齢の重ね方をしている人が身の回りに何人もいるので、その「よさ」の本質ってなにかな……ということを考えてみようかな、とも思っています。

ティッシュペーパーは2枚だった。
先回報告した「ティッシュペーパーの新しい活用法」についてである。その後、竹田研究室を訪れるとしっかり新しいコーヒーフィルターが補充されていた。だが、この間その方面に関しても研鑽は積まれていたそうで、結論としては2枚で十分だということである。なにごともおざなりにしない竹田教授、ゼミの重鎮I氏の姿勢に敬意を表しつつ、謹んで訂正させていただきたい。
                                                /管理人


2007年9月30日(日)     

 「超人」は眠らない?
というわけで、「管理人月記」です(もはや開き直っている)。
9月20日から3泊4日の日程で「沖縄哲学合宿」があった。この沖縄合宿は、ここ数年竹田さんにとっては恒例の行事となっている。昨年は(早稲田大学の研究室に集まる)「社会人英語ゼミ」のメンバーが主だったが、今年は新宿・朝日カルチャーの講座として20人の参加のもとに行われた。

この4日間沖縄はほぼ快晴。珊瑚の海の美しさを満喫した。


                      (撮影・磯部和子氏)

そのいっぽう、「哲学」の「合宿講座」としても非常に中身の濃い内容だった。計6回の講義では、ギリシア哲学を端緒に、デカルト、カント、ヘーゲル、フッサール→現象学にいたるまでの(「『本質学』としての)哲学の歩み」を、パワーポイントでの「オリジナル新作図解」も駆使して一望していただいた。綿密に吟味された内容と展開に、聞くほうもぐんぐん引き込まれていく、という感じだった。(大学でのほぼ半期分の授業に相当する内容だそうだ。)

深夜まで続いた地元の居酒屋さんでの(おいしいおつまみとお酒を前にした)「懇親会」をも含め、早(朝)寝早起き、楽しさ満載の合宿だった。
沖縄通の竹田さんには、(公設市場の食堂での値引き交渉!を含め)ツアーコンダクター役まで勤めていただいてしまった。ほんとにありがとうございました……。

帰りの飛行機の中。管理人は疲れきって離陸と同時に眠ってしまったのだが、しばらくして眼を覚ますと隣の竹田さんは現象学研究会メンバーの原稿を読み込みながら朱入れをしている。「ちょっと専門用語が多いかな。もう少し分かりやすい表現にしたほうが……」。うわあすごいな、と思いながらもまたすぐ眠ってしまう。30分ほどしてまた眼を覚ますと、今度は「世界の歴史」を読みふけっておられる。「ここ、『普遍闘争』の原理がとてもよく出ているんだよね」。
思わず、「カラダとかだいじょうぶですか?(少し休んだほうがいいですよ)」と言ってしまったのだが、「でもまあこうやってずっとやってきているわけだし……」

「積んでいるエンジン」が違うようだ。

ティッシュペーパーの新しい活用法
新学期になって、(この管理人日記でも何度か触れている)竹田研究室での「ドイツ語ゼミ」が再開。頭の回線がほとんどショートしそうになりながら難解なカント「純粋理性批判」と格闘している。
10分ほどのコーヒーブレイクはまさに安らぎのひとときである。それなのに、コーヒーをろ過するフィルターが切れてしまっている……
竹田ゼミIさん「(ごみ箱から一度使ったフィルターを見つけ出し)これ、使ってみましょうか?」
管理人「うーん。それはやめとかない?ティッシュペーパーとか代用できるんじゃないかな。」
竹田さん「3枚だな。3枚使えばきっとOKだと思う。」
というわけで、竹田さんの指示通り「ティッシュペーパー3枚」でI氏がトライしてみると……
たしかにまるで問題なし。おいしい淹れたてのコーヒーをみんなで堪能しました。

というわけで、みなさんも、コーヒーフィルターが切れたとき、コンビニエンスストアに走る前に、手元にあるティッシュペーパーを見直してみてはいかがでしょうか?ふだんは汚れ役ばかりを一身に担っているティッシペーパーとしても、この活用法はきっと誇らしいものに違いありません。

こつは「3枚使う」ことです。
                          /管理人

2007年8月26日(日)
   リンゴの気持ちもよく分かる……

またまたご無沙汰してしまいました。
7月いっぱいフル稼働していた早稲田・竹田ゼミも8月は夏休み。
でも、この間、朝日カルチャーセンターの合宿講座(フッサール「デカルト的省察」の購読)が開かれたので(遅まきながら)そのご報告をさせたいただきます。

8月4日、5日に行われた朝カルの合宿には、60余名もの参加があった。合宿での講座自体は竹田さんのアサカル講座では恒例のことだが、これほどの大人数が集まったのはおそらく例をみないのではないか、と思う。2日間にわたりフッサールの難解なテキストをみんなでみっちりと読み込んだ。

今回とくに興味深かったのは、夕食後に行われた「現象学・哲学フリー質問会」。初参加の方からも挙手での質問が積極的に出され、深夜近くまで、およそ二時間の時間があっというまに経過した。

「哲学は、(習慣や権威によって担保されてきた価値の自明性が疑問に付されるなかで)『それぞれがそれぞれの場所からとことん考え、話し合ってみる』というオープンな言語ゲームから『ほんとう』を見いだそうとする発想もとで展開していく。そして、『ここで求められるいちばんよい考え方にたどりつく』ためのもっとも確実かつ効率のよい思考の方法を原理として取り出していく。」

「そもそも哲学の意義はなんなのか」「真理を追究するために、フッサールのいうような『確信成立の条件』を探るだけで十分なのか」……そうした、質問者の切実な問いに応えるかたちで、竹田さん・西さんから「哲学の営みの本質」が、以上のように語り出されたことがとくに印象に残った。


だが、「『内在』から(自分自身の意識体験に基づきながら)確信成立の要件をみとっていく」という現象学の基本的方法を、「事物知覚」の場面から飽きることなく語ろうとするフッサールのテクストにやや辟易する声も……

「『事物知覚』よりも、『ものごとをそのようにとらえている・受け止めている』人間の側のあり方(欲望)に眼を向けていくことのほうが、むしろ必要では?」
「リンゴもいいけど、その先のことを考えることが重要なのでは?」
(※ちなみに「リンゴ」は現象学の発想のポイントを説明するために竹田さんが使う例です。)
「竹田さん・西さんの(欲望論に立つ)現象学は、フッサールの視野にはなかったものを独自に打ち出したもの(オリジナルな価値をもつもの、)と言っていいのでは?」
という(鋭い)意見も出された。


これに対して竹田さんは、「現象学により、『確信成立の条件』という発想、つまりオープンな言語ゲームのもとに本質をみとっていこう、という哲学の方法を明確化したのはフッサールならではのこと」と、その功績をまず整理したうえで、
「事物の本質観取は、自然科学の基盤を問うという目的に即してなされるべきもので、その自然科学は、『人間にとっての利用可能性』という「対象性」「目的性」のもとに展開されていく。そして、「実存の問題」「社会の問題」はそれとはまた違った対象性をもっている。それぞれの対象性の本質をとらえていくことが必要だし、そのためには欲望論的観点が必要になる」とコメントなさった。

西研さんはこれを受けて、「(竹田さんのいうように)自然科学には人間にとっての利用可能性という目的があるし、心理学には自我を一定の連続性のもとに保つという目的が、社会科学ならば『調整の原理の構築』という目的がある。でも、いま社会学の多くが『社会は自律した一つのシステム』ということを前提にしてしまっている。社会を記述するときの目的、価値理念を明確にしていかないといけないし、そのために「社会の現象学」が求められていると思う」と述べられた。

「現象学≒哲学的思考の本質」、さらには「竹田さん・西さんの哲学の今後への展開」に触れることができた、とても充実した合宿でした。

(アサカル合宿にて)

※リンゴにこだわることにも理由があるんです。だから、オリジナルTシャツにもリンゴなんです(よね)。

                             /管理人

2007年7月22日(日)

ご無沙汰してすみません。このページ、「日記」と銘打っているわりには、ほとんど「月記」になってしまってますよね。今後せめて「週記」となるように努力していきたい。

ではこの間の主なできごとなどを……

まず「竹田研究室」でのこと。
6月より「ドイツ語ゼミ」がはじまった。メンバーは院生と社会人有志。当座のテキストは、カント『純粋理性批判』。竹田さんは、この間、「英語修行」に打ち込んでいたため、ドイツ語での原書購読は久しぶりとのことである。とはいうものの、与えられた情報(単語の意味・文法・文脈・既存の哲学的知識)から「筆者の意図」に肉薄する「読み」の力量は圧巻としかいいようがない。管理人も、カントの難渋なドイツ語を少しずつ氷解させていくという、楽しみのような苦しみのような味わい深い経験をご相伴させていただいている。幸せだ。

これに並行して、「社会人英語ゼミ」も月一回のペースで継続している。最近竹田教授が話題にされるのは「経済」や「歴史」。「哲学」を現実社会の中で、ほんとうに生きた知として展開していくために研鑽を重ねておられる、のだと思う。先日のゼミでは専門家のH氏をお招きし、経済学の基本的な知識をレクチャーしていただいた。もちろん、英語で。英語経済二つあわせダメダメな管理人だが、それでも経済学の「本質」を明解に説明してくださったHさん、竹田さんの親切な解説を通じて、その意義の一端には触れられたような気がしなくもない。(でも、それについて何かを語ろうとする自信がまだわいてこないので、具体的な報告は今後の課題、ということで……)

(先回の報告で触れた)「火曜哲研」での西研さんとのヘーゲル『精神現象学研究』購読は、次回(7月24日)「良心」「絶対知」まで到達して一段落。あとは年内刊行予定の「ヘーゲル完全解読本」が待たれる、という感じだ。西さんは最近ずっと体調が芳しくなくて心配なのだが、もろもろの研究会では相変わらずの鋭い発言で「優しい鬼神」ぶりを発揮なさっている。でも、どうか無理はしないでくださいね。

21日、その西さんも久しぶりに参加し、「現象学研究会」が開かれた。
課題は前回から引き続きハイデガーの「存在と時間」。「死の現存在分析」「良心」などの箇所を購読した。「世界内存在」としての人間=現存在のありようを実存論的に解析した前回の購読箇所と比べ、ここらあたりからは、(死の本質観取そのものはすぐれた現象学的考察だが)、現実的な社会生活とは異なった位相のもとに「本来的」なありかたを希求するという、自分としては受け入れ難い主張が展開されはじめる。ただし、今回の研究会では、こうした思想をハイデガーが展開するに至った動機は何か、というところにまで議論が及び、非常に興味深いものとなった。(詳細な報告は追って、現象学研究会HPでしますね)
                          /管理人

2007年6月17日(日)

昨日16(日)は朝日カルチャーの講座「フッサールとメルロポンティー」があった。
当面の中心的課題は、フッサール『デカルト的省察』である。『省察』を読んでみると、現象学の発想の要諦を一生懸命に伝えようとしてるフッサールの真摯な動機が伝わってくる。しかし、記述自体には相当ミスリーディングなところも多い。
講座はテクストの詳細な読解を通して、「筆者のモチーフ」に深く鋭く切り込んでいく……という非常に刺激的なものになっている。西さんとのコラボレーションが非常に生きている。西さんが原典にもあたりながら、一つ一つの言葉の背後にある筆者の動機を掘り起こしていく。竹田さんが、現象学の本質的理解に即してそれを明快に整理していく。自力では読み込めなかった部分も、深い納得感のもと氷解していく。現象学の理解が深まる、ということのみならず、テクストを読むという行為の「楽しさ」と「本質」を実感させてもらっている、という感じである。

帰京した西さんとのコラボレーションは、早稲田の研究室においても展開中だ。月に2度ほど開かれている通称「火曜哲学研」では、いま、二人によるヘーゲル『精神現象学』の徹底解読が行われている。「一つ一つの表現を詳細に読み込み、筆者のモチーフをつかむ」「筆者の主張の意図や意義を、時代状況も鑑みて深くとらえていく」「哲学の本質に立ったうえで、その可能性・限界について考察する」。こうした思考の作業を、ふだんはそれぞれご自身のなかでやっておられるのだと思うが、二人の共同作業においては、その役割が(長年にわたり培われた阿吽の呼吸で)当意即妙という感じで分担され、威力倍増という感じである。
この共同作業の成果は、講談社より(年内には?)刊行される共著に結実していくことになる。(担当編集者の山崎さんもその作業に立ち会っておられます。)
いまから刊行がとても楽しみです。
                         /管理人

2007年5月3日(木)

@4月28日、竹田さん主催の現象学研究会があった。今回のテーマはハイデガー『存在と時間』。「本質観取」の「見本」のような実存論の展開は何度読んでも圧巻という感じだが、詳細に読んでみると後期思想に通底する「存在」≒超越への希求がそここにうかがえることに気づく。今回の購読を通してまた新たな発見があったように思う。現象学研究会HPに報告をまとめてみたので、よろしければご一読ください 
今回は竹田ゼミの学生さんも参加。大会場での、マイクを使ったレジュメ報告と議論に最初のうちはとまどいを感じだが、しだいにその緊張感も消え、マイクを奪いあうような活発な議論が展開された。とても充実した会となった。

A4月15日の日記で「予告」したが、竹田ゼミの助手である「モカさん」より、NHK文化センターでの竹田さんの連続講座の感想を寄せていただいた。
学業で忙しいなか、時間を割いて一生懸命書いてくださったことに感謝。師匠のHPに寄稿するプレッシャーもあるのか、「脱稿」した今日は体調不良で寝込んでいる様子。どうもありがとう。早くよくなってね。M‐OKAくん。
                  
/管理人
2007年4月23日(日)

22日より朝日カルチャーセンター(新宿)の講座、「フッサールとメルロポンティ」がスタートした。
受講人数は約80人!たいへんな盛況である。
まず、フッサールの『デカルト的省察』の精読から出発し、現象学の発想の核をとらえていく……ということである。
アサカルの講座は、受講生のレジュメ発表をふまえ、竹田・西両講師がテクストを詳細に解説していくという「参加型」かつ内容の濃いものである。
また、講義をきっかけにさまざまな人たちとの出会いがうまれる。管理人もこの場をきっかけに、(現在の)大切な友人たちと知己をえることができた。今回の講座がどのような出会いを生み出すか、ということも楽しみにしている。  /管理人

2007年4月21日(土)


15日の日記で報告したNHK文化センターでの講座「人生とどう向き合うか」をともに受講していた方から、管理人宛に感想を寄せていただいた。 とてもありがたい。
これをきっかけに、
「哲学の丸てーぶる」というコーナーを新設してみることにした。

竹田さんの著作や講演・講座の感想などを思い切って公募してみようかと思う。

ただ、なにしろキャパの少ない管理人なので
「返信できるとは限らない」ことはあらかじめご理解いただきたい。
(ただ、掲載させていただくものについては、もちろんその旨を事前にご連絡します。)

「丸テーブル(での議論)」というのは、開かれた言語ゲームの中でものごとの本質、原理を取り出していこうする哲学のありかたを示すものとして、竹田さんが常々いっている言葉です。
このページがそういう場として展開されることを祈念する。 /管理人


2007年4月15日(日)


HPでご案内をしていた講座が、先週立て続けに二つ開かれたました。そのご報告を。

まず一つ。NHK文化センターの連続講座「人生とどう向き合うか」の最終回が4月11日(水)にあった。
この講座では、キルケゴール、ハイデガーらの実存哲学に、ドストエフスキーなど文学者の視点を織り交ぜながら、「生への絶望」「死への不安」など人生の一大事をどう受け止め、どう乗り越えていくかが論じられている。竹田さんの文芸批評家としての側面にも照射した、たいへんおもしろい企画である。(その分毎回の準備がすごくたいへん、とご本人はおっしゃってました。)

最終回のテーマは「死とどう向き合うか」。作家としてはトルストイ、晩年の代表作『イワン・イリッチの生涯』などが取り上げられた。

トルストイは自我理想が非常に高く、作家として功なり名を遂げたのちも、自分の作品、ひいては自分自身の人生ははたして意義あるもなのかという不安、絶望に苛まされ続けていたそうだ。『イワン……』にはそうしたトルストイ自身の姿が投影されている。社会的には安定した身分をたもちながら、「ほんとう」の生き方ができているという感触がもてない、家族とも心の絆をえることができないという実存的不安に苛まれる主人公。あるとき病に侵され、忍び寄る死の不安に脅かされることになる。作品はこの主人公が、いかに自己肯定感へと開かれ、そのなかで死を受け入れることができるようになるかをテーマとしている(そうだ。実はまだ読んでない。お話を聞いて読んでみたくなりました―)。

ハイデガーの場合、死という不可避な宿命を正視すれば、世事に惑わされることのないほんとうの生き方へと向き合っていくことができるはずだ、と説く。たしかに、「死」に向き合うことが、自分自身の生き方を見つめ直す契機になることはあると思う。しかし、常に「死」を意識して「生きる」ことが現実に可能だとは思えない。「具体的な目標のもとに、未来への期待を抱ける」ことが生きることの意欲を得るうえでは基本になるし、それがうまくいかないときでも、些細なできごとから得ている(人との)関係の喜びが生への感触を維持してくれる。いずれにしても、生きることへの力は、自分自身が日常生活のなかで、どのように自己肯定感、生の悦びを得ているかを自己了解していくこと以外には見いだせないように思う。……というのはこれまで竹田さんの哲学に触れながら自分なりに考えてきたことであるが、そんなことを確認しつつ聞かせていただいた。

死の不安にしても、それが「生」の側から組み立てられた「意味」としてあり、それが絶え難いほど恐ろしいイメージのもとに表象されているのだとしたら、その恐怖の本質を自己了解することで、受け入れることが可能なイメージへと転換するしかない。……今回の講座では、そんな視点も新たにいただいた。(深夜帰宅する際、お墓の横を通るのがいまだに恐怖なわたしです。あんまり関係ないすね。)

「死については、いったん突き詰めて考えてから、『忘れる』ことが大事」「自分は目的地に向かうバスに乗っている。結果としてはすぐに降りることになるかもしれないけど(気持ちとしてはなにかへと向かって生きている……)」という竹田さんのコメントがとくに心に残った。とても納得。そんなふうに生きてみようと思います。

この講座、ラジオで放送するんですよ。4月22日と29日(日)、夜8時から、NHK第2ラジオです。(でも竹田さんは、自分では聞かないかも、といってました。照れ屋さんですね。)

このシリーズの講座は今回で終わり。講座を担当しているNHK文化センター青山教室・榎本さんの企画力と交渉力(?)に感謝です。また、たのしい竹田さんの講座、企画してくださいね。

ちなみに、この連続講座のレポートを竹田ゼミの助手・Mさんにお願いしてます。よろしくね!


もう一つ。4月14日(土)には淑徳大学池袋キャンパスで、「現象学と現代思想」があった。
「確信成立の条件を問う」「主観にたずねあう開かれた言語ゲームのもと普遍性を拡大していく」という、現象学の発想と方法の要諦をおさえたのち(おい!なにをいっているのかわからないぞ!という方。すみません。言葉が足らなくて。こちらのほうなどをお読みいただけると、そこらへんのこと竹田さんがわかりやすく解説してくれてます。)「認識対象の現象学」へと話が展開した。「自然事物」「事象=事態」「心」といったそれぞれの対象は、人間にとって異なった「本質」をもつ。それぞれの対象性の違いをとらえていくことが、「自然科学」「社会」「心の問題」への考察を進め、深めていくためには欠かせないのではないか……ということがそのねらいとしてある(のではないかと、理解している)。この「認識対象の現象学」は、横浜朝日カルチャーでの山竹伸二氏との講座「フロイト完全解読」ではじめて打ち出されたものだが、今後さらなる展開をめざしていかれるそうです。

竹田さん、二つの講座。ほんとうにお疲れ様でした。
 /管理人


2007年3月27日(火)


いけない。竹田さんに「ひとりごと」を言わせてしまった。(いや、むしろHPの読者の方にしてみたらうれしいことかもしれませんが)
何代目なのだろうか。昨年末より竹田HP管理人を引き受けることになった。しかし、長年このページの読者だったこともあり、「管理人日記はいつ更新するのかな……」と心愉しみにしながら日々を過ごしていた。でも管理人は、自分だったんだ。

閑話休題。
前管理人さんも書いておられたが、竹田研究室にはほんとうにいろいろな人が集まってくる。
学部生、大学院生のみならず、竹田ゼミを巣立ったばかりの社会人1年生から、竹田さんの熱心な読者で、アサカルの講座にながーく通いつめているうち、いつしか研究室にまで足を運ぶようになった社会人何十年生まで。

トシやカタチはさまざまだが、おそらくそれぞれの仕事や生活のステージで、「哲学」を生かし、「哲学」に生かされつつ日々を送っている人たち……なのではないかと思う。

一昨日の25日(日)、そんな多様なメンバ-で構成される通称・「社会人英語ゼミ」の2006年度打ち上げ?が行われた。このゼミの目玉は「フィロトーク」。毎回一人の哲学者をテーマに、報告者が簡潔に(英語で)レポートしたのち、(もちろん英語で)竹田さんに質問をしたり、(これも英語で)感想を語りあったりする。だが、「英語ゼミ」とはいうものの、参加者は英語に堪能な人ばかりではない。(自分なんか、英語できない代わりに面の皮が厚いので参加してます。)でも、竹田さんの英語は非常に明快。日本語と同様、平易な言葉で本質的なことを的確に表現してくださる。だから、言っていることの大体は理解できる(つもりでいる。)

本年度最終ゼミのテーマは近代哲学の祖・デカルト。
2時間ほどの集中的な議論を通して、デカルト思想の要諦は、(神という超越項を失った近代人が)「信念対立」を超え、普遍的な考えを導き出そうとするのなら、「自分自身で考え・確かめる」(そしてそれを言葉にして語り合ってみる)というみんなに開かれた、それ自身普遍的な方法に定位していくしかない、ということを打ち出したことにある……ことをあらためて確認できた(ように思う)。

そして、このゼミ(の議論の場)自体が、そうした哲学の最良のエッセンスにたって展開しているのだということも。

哲学する意義や喜びを実感させてくれた一年間の英語ゼミと竹田さんに感謝です。
                                      /管理人  


2007年3月21日(水) 竹田の「ひとりごと」

 諸事情あって、管理人日記がずいぶんとぎれているので、これから、管理人の代わりに、
 竹田の「ひとりごと」をときどき載せることにしたい。

 このごろは、何でも忘れる。存在的に、忘却の穴だ。60に近づいたので仕方ないが、日常生活に困ることもあり。ときどきいろんなニュースに感想をもつが、少しするとすぐ忘れるので、こんな場合に不便。

 最近思ったことの一つ。私立中学や高校に子供をやるときには、その学校の理事長や学長(学園長)が長期政権で、ずーと居座っているか、ちゃんと選挙で交替しているか、基準にするのは一手かも。永久居座り、あるいは長期政権の私立校は、とうぜんのことながら、体質が腐ってくることが多い。ちょっと見聞したなかで、そういうことがよくあるという印象が残っている。
 組織が権力ゲーム体質になると、「よいこと」や「合理的なこと」が生き残れないので、これは組織の基本原理かもしれない。

 今日は、とりあえず、これだけ。
  今年は花見できるといいけど。去年は、仲間で、川端の一等地に座って10分したら無情の雨が降ってきた。残念でした。