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管理人月記  (というか,せめてもう隔月記くらいには……)

2013年10月13日

再開いたします。

管理人日記、しばらく更新できずにすみませんでした。また少しずつ歩き始めていきます。
どうぞよろしくお願いいたます。/管理人

「危機」がはじまる。
2013年10月5日。朝日カルチャーでの西研さんとのジョイント講座、「完全解読・ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」が開講。

最初に、まず二人からの近況報告。
竹田さんはここしばらく心血を注いで取り組んでいる『欲望論』の進捗状況を話してくれた。第一部の草稿が近日中にまとまるそうで(3000枚ほどにおよび、そこから内容を絞り込んでいくとのことである)、「ようやく形になる」という実感が湧いてきたそうだ。

西さんは、竹田さんとの共著「高校生のための哲学読本」(筑摩書房より刊行予定。哲学名著のアンソロジーで、二人の完全解読文、解説が付された内容とのこと)の仕上げに取りかかっている。それが一段落したら、目下の中心的課題である「支援にかかわる(「ケア」の)人間論」への展開を視野に入れながら、「哲学的思考」以来の本格的な現象学論に着手していきたい、という抱負を表明してくれた。


講座初日は、本格的な原典講読に先立ち、フッサール哲学(現象学)の骨子と、今回の課題、『ヨーロッパ諸学危機と超越論的現象学』の概説。

まず竹田さんから、「フッサール現象学の展望」と題するミニレクチャー。哲学を絶対真理を求める形而上学とみなし、今日的な価値を一切認めようとしない「反哲学(反近代哲学)の時代」の潮流のなか、現象学が晒されてきた誤解の内実と、現象学(哲学)のもつ本質的意義と射程について端的に解き明かしてくれた。

……現象学は(多くの人から誤解を受けてきたように)、意識(主観)から(絶対的真理につながる)根源的経験を見出そうとする「真理の学=形而上学」では決してない。その発想の要諦は、(あらかじめの)「客観」と「主観」の一致(=もともとの真理をどうやってとらえるか)という発想をナシにし、「内在」にのみ寄り添い(それぞれの意識経験を見つめなおし)ながら、「客観という信憑(超越)」がどう形作られているのかということ(=確信成立の条件)を確かめていく(確かめ合っていく)ことにある。そして、この発想こそが、真理主義・客観主義(が招き入れる信念対立)ともに、(真理を否定することだけに終始する)懐疑主義・相対主義(が帰結するニヒリズム)を解決するための道筋を開いていく……

また、フッサールとハイデガーの違い(ハイデガー思想の問題点)を、「先構成批判(の問題)」という観点から浮彫りにしてくれた。

……ハイデガーは、フッサールが「意識(経験)の本質観取」を拠り所としたのに対し、いや、それに先行して「実存」(としての人間)の本質契機、すなわち「情状性(≒ある気分)のもとで世界を生きてしまっている」という事態がある、と直観した。なるほど、そうした実存の本質契機が意識経験への内省によって見出される、ということであれば確かにその通りだし、「優れた本質観取」であるともいえる(これを竹田さんは、「情動所与」という興味深い言葉で表現)。だが、ハイデガーの場合、「情状性による世界の開示」こそがより根源的なもの(意識経験を「先構成」するもの)であるとして、この情状性(の了解)によってこそ「存在」(≒真理)に開かれていくことが可能となる、と考えてしまった。

こうした、根源(いちばんもとになるもの)は何か、という発想自体が、フッサール現象学の本意を見損なっている。フッサールの発想は、「<意識の水面>から得られたデータをコード化しつつ対象をとらえている(=具体的に見聞きしたり触れたりしていることをもとにしながら、対象確信を形成している)」、というごくふつうの(人の)ありように基づいたうえで、「本質学」(だれしもに開かれた確かめの方法によって、広く共有可能な=普遍的な価値をともに築くことを可能にする学問)の構築をめざすことにあった。ハイデガーのような、「意識経験そのものを可能にしているのは何か」という問い(「先構成」への問い)は、仮説(物語)によってしか答えようのないもので、それは信念対立を招き入れることにもつながりかねない……

続いて西さんから、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』が成立した背景、その内容のポイントについての解説。

……フッサールは1913年、主著『イデーン』で、自らの哲学が「純粋心理学」にとどまるものではなく、「超越論的現象学」をめざしていることを明言。「客観的な見方」を排し(自らの意識)体験にのみ寄り添い「対象」の本質構造をとらえていく……という(純粋心理学の)方法にたったうえで、「心(=主観)」を「(客観)世界のなかの実在物」としてではなく、「客観世界そのもの」(平素私たちが、自らの在不在にかかわりなく常に存在していると信じて疑わない世界そのもの)を構成する場=すなわち「超越論的主観性」としてみなし(すべてを確信成立の様相として確かめ合っていけるようにし)ていく、というその哲学のめざす方向性を明らかにした。

だがこの着想は、弟子たちも含め(意識絶対主義というような誤解を招き)なかなか理解されなかった。フッサールの本意は(だれしもが主観≒意識体験というルートを通してしかものごとに出会うことができない。もともとの対象=客観をいかに正しくとらえるか、という発想そのものが背理だということを踏まえたうえで)認識問題を解決するとともに、「客観性」(という普遍的な確信)がもつ意味や、善や美など(価値的な問題をともに考えあっていくため)の拠り所、そして自然科学の(成立)根拠を解明していくことにあった。この現象学の趣旨をもう一度自ら語り直さなくては、という思いのもとに手がけた「入門書」がこの『危機』だったのだ。

……タイトルにも謳われた「ヨーロッパ諸学の危機」とは、(自然科学の隆盛により)学問の理念が実証主義的に矮小化され、「学問とは価値判断を切り離して事実的な知を蓄積することで、そこにこそ学問的な厳密性、客観性がある」とみなされていくなか、若い世代に「いくら学問をしても、生の問題を考えていくための手がかりは得られないのでは?」という疑念が巻き起こっていた当時(1930年代半ば)の時代状況を物語っている。

……「世界はそれ自体合理的な体系で、個別的なものはすべてその中で決定されている」とする物理学主義的合理主義(に基づく「客観世界」への信憑)が、そうした実証主義の背景にある。しかし、フッサールによれば、これは「生活世界」(具体的経験が構成する世界≒実存的世界?)を隠蔽することから生じたものだ。客観的世界(=自然科学の理論)は、生活世界のなかからその「問い」と「動機」を受取っているという点でも、生活世界での知覚や想起が実証的な理論を「検証」する最終的な決め手となる点においても、生活世界を基盤にしている。しかし、物理学が成立するとともに、科学的言語で語られる客観世界のほうが「真なる世界」と考えられ、生活世界は単なる主観的・相対的世界とみなされるようになった。

だが、フッサール(現象学)は「生活世界こそが真の世界だ」という見方はとらない。この「生活世界」をも主観性における確信とみなし、その確信成立の構造を問おうとする地点に立とうとしていく。(おそらく、そのことによってこそはじめて、意味や価値の問題をともに考えあっていくための思考の原理の構築が可能になる……)

……と、こうした感じで、『危機』へと臨んだフッサールのモチーフ、その主張のポイントをとても分かりやすく整理してくれた。

今回の講座で、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』が、フッサール現象学のエッセンスを確認するための絶好の一冊だということを再認識できた。

西さんは、現在「ケアの現象学」に取り組んでいるなか、心の問題に対する科学主義的実証主義(実験・観察・統計的処理をしたものを学問的エビデンス<証拠>とみなそうとする姿勢)が根強く残っていること、フッサールの危機意識が決して過去のものではないことを実感している、と話してくれた(ホームページの語り下ろしでも話題になっていましたね)。

竹田さんも、目下「欲望論」を通して(フッサール自身は成し得なかった)人間的意味や価値の問題に対して、現象学を展開する道を開拓している最中である。

となると、今回の講座……フッサール現象学の要諦を掴みなおすだけではなく、現象学の今後の展望が具体的に見えてくる、という大変楽しみな場面が期待できそうだ。


今年2冊目の哲学入門本
9月半ばに、竹田さん監修、現象学研究会のメンバーで執筆した哲学入門本『哲学書で読む最強の哲学入門』(学研)が刊行。同じメンバーで2月刊行したムック版の『哲学がわかる本』をベースに、哲学史上のビッグネーム50人の思想のエッセンスを、その代表作を通して紹介する内容です。

竹田さんは前著同様(自分自身の執筆で相当忙しい中)執筆分担の確認、スケジュール管理に至るまで、(相当面倒なはずの)ディレクター役を務めてくれた。出来上がった原稿を送信すると、その日のうちに(というか数時間のうちに)、(励ましのコメントとともに)ああなるほど、とたいへん合点のゆく助言を一つ、二つ。タイトなスケジュールだったが、その分集中した楽しい執筆作業が体験できた。限られた文字数で分かりやすく伝えるためには、各哲学者の問題意識の輪郭をはっきりさせておくことがなにより必要で、その意味でも……とても勉強になりました。

完成した本に目を通してみると、ディレクターのおかげで(執筆者どうし、ベースの部分が共有できていることもあってか)全体的なバランスのとれた内容に仕上がっている。(自分の分担したところ以外は)相当おもしろいものになっていますので、よろしければご一読ください。 /管理人